キリスト教と迫害
軍人皇帝時代を終わらせ、ローマを再び安定へ導こうと奮起したディオクレティアヌスですが、そんな彼にも暗い部分はあります。
当時、ヨーロッパではキリスト教徒が増えていました。ローマにはローマ神話の神々が広く信仰されていましたが、キリスト教や他の宗教に対しては寛容で、禁止などはしていなかったのです。しかし、キリスト教徒たちは身分に関係なく信者ならば奴隷も神の前では同じ人間だとして一緒に食事をしたり、キリストの血肉を象徴するブドウ酒とパンを食べる儀式が、人肉を食べる儀式だと誤解されるなどして、一部では危険な宗教とみられることがありました。それで、ローマのネロ皇帝などから、ときおりキリスト教の迫害が行われていたのです。
ディオクレティアヌスの影
ディオクレティアヌスは皇帝となったあと、自らをローマ神話の主神ユピテルの化身とし、皇帝を神として崇める「皇帝崇拝」をローマの人々に強要しました。
最初こそ、ローマの神々に礼拝をすればキリスト教徒でいてもよい、というふうにしていたのですが、キリスト教徒たちは従いません。そのため、ディオクレティアヌスは彼らを強制的に改宗させる方針を取ります。こうして、ローマに住む人々はみんなディオクレティアヌスへの信仰や、ローマの神々の祭儀の参加などをしなければならなくなったのです。
しかし、キリスト教への信仰心が篤かった信者たちは、皇帝崇拝を拒否。それまで自分たちが大切にしてきた神さま(宗教)をあっさりすてることはできませんよね。信者たちはカタコンベ(地下墓所。初期キリスト教時代の遺跡)へ隠れ、祈りを捧げて自分たちの信仰を守ろうとしました。キリスト教徒たちはカタコンベを隠れ家に模していたので、この時代の壁画などが多く残されています。
一方、皇帝崇拝の命令を出したにもかかわらず、一向にキリスト教徒が減らないどころか増え続けたために怒ったディオクレティアヌスは、とうとう実力行使に出ることになりました。
最大で最後のキリスト教大迫害
303年、ついにキリスト教徒への迫害が始まるりました。ディオクレティアヌスはキリスト教の聖書など書物を焼き捨て、教会の財産は没収し、破壊します。さらにはキリスト教の聖職者たちを逮捕して投獄。捕らえられたキリスト教徒たちはコロッセウム(円形競技場)へ送られ、そこで猛獣に襲わせるなどローマ市民に見世物として引きずり出されました。そうして、公開処刑に処せられたのです。
ディオクレティアヌスの大迫害は、かつてないほどの規模に及び、キリスト教の殉職者はローマ全土で数千人にも及んだとされています。これを「最後の大迫害」といいました。
キリスト教が公認されるまで
今でこそヨーロッパなどを中心に広く信仰されているキリスト教。しかし、ディオクレティアヌスやそれ以前の時代には迫害を受けています。では、どのようにしてキリスト教がヨーロッパの国々で受け入れられるようになったのでしょうか。
ディオクレティアヌスが305年に引退したのちも、キリスト教徒の迫害は続きました。その一方で、ディオクレティアヌスの退位は、またもやローマ帝国に大きな波乱を呼び込みます。
305年、55歳で退位したディオクレティアヌスは皇帝の位を世襲制にはしませんでした。そして、西の皇帝マクシミリアヌスも一緒に退位し、東西それぞれの副皇帝を次の皇帝とします。副皇帝にも新しい人物が就任しました。
こうして、平和的に皇帝の位が引き継がれた……かに思えますね。しかし、ローマの苦難はここから。ディオクレティアヌスの死後、東西の皇帝、副皇帝四人が主導権を巡って互いに争い始めたのです。
その争いを治めたのが、西の副皇帝コンスタンティヌス1世でした。彼はディオクレティアヌスの四分統治を廃止して、再びローマを統一。そして、キリスト教の迫害を中止すると、ミラノ勅令でキリスト教を公認する方向に持って行ったのでした。
混乱を収束させ、時代の節目となった皇帝
軍人皇帝時代の間にローマ帝国は弱体化の一途を辿っていました。それを終わらせたのがディオクレティアヌスです。彼は解放奴隷の息子から一転して、兵士として活躍し、一躍皇帝にまで上りつめます。そうして、不安定な軍人皇帝時代に終止符を打ち、他国の侵略や内部の反乱に備えてローマを四分割して四人の皇帝で統治する「四分統治」を実施しました。このようにローマを救ったディオクレティアヌスでしたが、皇帝の権威を回復しようとするあまり、彼を神として崇めなかったキリスト教を迫害。その勢いはすさまじく、たくさんの殉職者を出す結果となったのでした。







