奴隷から皇帝へ
属州ダルマティア(現在のクロアチアからアルバニア周辺一帯)の解放奴隷の子として生まれたディオクレティアヌス。古代のローマの奴隷制度のなかには「解放奴隷」といって、合法的に奴隷がローマ市民になれる制度がありました。奴隷から解放されると、ローマ市民権が与えられるほか、民会に出席したり、選挙権を持っていたりと、本当にローマの市民になれたのです。
解放奴隷の息子・ディオクレティアヌスは、兵士となり、やがてはローマ皇帝を護衛する近衛隊長官にまで出世します。そうして、それまでの軍人皇帝たちと同じように軍隊に推薦されて、284年に皇帝になりました。
元首政から専制君主制へ
古代ローマ最初の皇帝となったアウグストゥス。しかし、彼は皇帝(君主)として玉座に就いたのではなく、あくまでも、市民のなかから選ばれて統治を行う「元首(プリンキパトゥス)」という態度を貫きました。これは共和政を誇りに思っていたローマ人たちが王や皇帝といった権力者に過剰な拒絶反応を示していたからです。とはいえ、アウグストゥスに権力が集中していたのもまた事実。実質、アウグストゥスはそうとは名乗らないだけで「皇帝」だったのです。
時代が進み、もともと皇帝に権力が集中していたところへ元老院の形骸化と共和政の途絶、軍隊の発言力増大が重なりました。そして、とうとうディオクレティアヌスの時代には、民主政の原理の上にあった元首政から、「専制君主制(ドミナトゥス)」へ移行したのです。そして、ディオクレティアヌスは自らをローマ神話のユピテル大神の化身(あるいは子ども)と称し、豪華な衣装を身にまとって皇帝を「ドミヌス」と呼ばせます。
こうして、ディオクレティアヌスは軍人皇帝時代に失墜していたローマ皇帝の地位と権威を再び高めたのでした。
広大すぎたローマ
ディオクレティアヌスが即位したころのローマは、北はブリテン島(現在のイギリス)、南はアフリカ、東はシリア、エジプト、西はスペインまでと、とてつもなく広大な領土を誇っていました。ところが、広すぎるがゆえに、ローマ帝国は大きな問題を抱えていたのです。それは、他国からの侵略であったり、国内の反乱であったりと、絶対に治めなければならないものでした。けれど、広いローマのどこかで戦いが起ころうと、その連絡が皇帝のもとに届くのにはとても時間がかります。電話も車もなく、馬を走らせていた時代ですからね。そして、その問題をどうするか決めてからまた馬を走らせて……。下手をすると、連絡が行き渡るまでに、現場は深刻な状況に陥っているかもしれません。
そこで、ディオクレティアヌスは広大なローマ帝国を四分割して、自分を含めた四人の皇帝で治めることにしたのです。そうすることで、わざわざ首都まで知らせなくても、その領地を治める皇帝が迅速に対応でき、素早く事態を鎮圧できるようになったのでした。
東西の四人の皇帝たちの立場

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ディオクレティアヌスは、長く続いた混乱によって腐敗したローマを離れ、小アジア北西のニコメディア(現在のトルコ共和国イズミット)へ移り、そこで皇帝に即位しました。そうして、前節の理由から286年にローマ帝国を東西に二分し、それぞれに皇帝と副皇帝を置きます。
ディオクレティアヌスはそのまま東の皇帝(正帝)となり、西はマクシミアヌスを皇帝(正帝)にして、ミラノを都としました。さらに293年、東の副帝にガレリウス、西の副帝にコンスタンティウスを任命します。この西の副帝コンスタンティウスですが、のちに皇帝となる「コンスタンティヌス1世」の父親です。よく似た名前なんですけど、最後から二番目の文字が「ウ」と「ヌ」で違うのでご注意を。
ディオクレティアヌスがこのようにローマを四人の皇帝で分割統治したことを「四分統治(テトラルキア)」といいます。四人で領地を分けたのですから、当然、四人がそれぞれ好きなように政治を行ったように見えますよね。しかし、四分割したのはあくまで戦争のため。皇帝としての決定権、独裁権はすべてディオクレティアヌスにありました。他の三人は彼の代理でしかないのです。
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