「ディオクレティアヌス」はローマ帝国の皇帝のひとりで、ローマ帝国の大きな転換期を作った。それまで続いていた軍人皇帝時代を終わらせ、不安定だったローマの情勢を落ち着かせたんです。それだけ聞くと歴史上の英雄として申し分ないよな。ですが、ディオクレティアヌスもいいところばかりじゃない。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「ディオクレティアヌス」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回はローマ帝国の皇帝のひとり「ディオクレティアヌス」についてまとめた。

1.古代ヨーロッパの大帝国ローマの危機

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「三世紀の危機」到来

ローマ帝国の全盛期とされる「五賢帝時代」が終わると、徐々にローマに暗雲が垂れこみ始めます。その最初となったのが、五賢帝時代に続くセウェルス朝の混乱でした。五賢帝最後の皇帝「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の後継者コモンドゥスが暗殺され、ローマ各地に「自分こそが皇帝だ」と自称するものが現れ、皇帝の座を巡る争いが起こります。「セプティウス・セウェルス」がその戦いを制して193年に皇帝に即位するのですが、そのころのローマは、天然痘の流行や軍人の高齢化、そして各地の反乱により軍団の人手不足が深刻化していました。

ヨーロッパを広く支配していたローマ帝国が弱体化したことにより、それまで保っていた「ローマによる平和(パクス・ロマーナ)」が崩れ去ったのです。

不安定な軍人皇帝時代

セウェルス朝の皇帝たちがローマを安定させられないままセウェルス朝最後の皇帝セウェルス・アレクサンデルが暗殺されてしまいます。そうして、235年にマクシミヌス・トラクスが軍人から推薦されて即位。しかし、マクシミヌス・トラクスの即位を不服に感じていたローマの元老院が反抗し、彼もまた打たれてしまいます。

ただ、この当時のローマは北方はゲルマン人、東方はササン朝ペルシアの侵入が続いていて、それを命がけで抑える軍人の発言力が高まっていました。そのため、元老院は軍団を抑えることができなかったのです。軍団は、マクシミヌス・トラクスの後も、軍人のなかから推薦した人物を皇帝に即位させていきます。

軍団に推薦された軍人が皇帝に即位していた時代を「軍人皇帝時代」といいました。しかし、軍人皇帝の力は、皇帝を推した軍団の力に左右されることに。さらには、一、二年で皇帝が暗殺されるなど不安定な状況が続くような事態になります。このように短命な政権が続いたことでローマ皇帝の権威は低下し、帝政の基盤が崩壊していったのです。

2.ディオクレティアヌスの登場

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奴隷から皇帝へ

属州ダルマティア(現在のクロアチアからアルバニア周辺一帯)の解放奴隷の子として生まれたディオクレティアヌス。古代のローマの奴隷制度のなかには「解放奴隷」といって、合法的に奴隷がローマ市民になれる制度がありました。奴隷から解放されると、ローマ市民権が与えられるほか、民会に出席したり、選挙権を持っていたりと、本当にローマの市民になれたのです。

解放奴隷の息子・ディオクレティアヌスは、兵士となり、やがてはローマ皇帝を護衛する近衛隊長官にまで出世します。そうして、それまでの軍人皇帝たちと同じように軍隊に推薦されて、284年に皇帝になりました。

元首政から専制君主制へ

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古代ローマ最初の皇帝となったアウグストゥス。しかし、彼は皇帝(君主)として玉座に就いたのではなく、あくまでも、市民のなかから選ばれて統治を行う「元首(プリンキパトゥス)」という態度を貫きました。これは共和政を誇りに思っていたローマ人たちが王や皇帝といった権力者に過剰な拒絶反応を示していたからです。とはいえ、アウグストゥスに権力が集中していたのもまた事実。実質、アウグストゥスはそうとは名乗らないだけで「皇帝」だったのです。

時代が進み、もともと皇帝に権力が集中していたところへ元老院の形骸化と共和政の途絶、軍隊の発言力増大が重なりました。そして、とうとうディオクレティアヌスの時代には、民主政の原理の上にあった元首政から、「専制君主制(ドミナトゥス)」へ移行したのです。そして、ディオクレティアヌスは自らをローマ神話のユピテル大神の化身(あるいは子ども)と称し、豪華な衣装を身にまとって皇帝を「ドミヌス」と呼ばせます。

こうして、ディオクレティアヌスは軍人皇帝時代に失墜していたローマ皇帝の地位と権威を再び高めたのでした。

広大すぎたローマ

ディオクレティアヌスが即位したころのローマは、北はブリテン島(現在のイギリス)、南はアフリカ、東はシリア、エジプト、西はスペインまでと、とてつもなく広大な領土を誇っていました。ところが、広すぎるがゆえに、ローマ帝国は大きな問題を抱えていたのです。それは、他国からの侵略であったり、国内の反乱であったりと、絶対に治めなければならないものでした。けれど、広いローマのどこかで戦いが起ころうと、その連絡が皇帝のもとに届くのにはとても時間がかります。電話も車もなく、馬を走らせていた時代ですからね。そして、その問題をどうするか決めてからまた馬を走らせて……。下手をすると、連絡が行き渡るまでに、現場は深刻な状況に陥っているかもしれません。

そこで、ディオクレティアヌスは広大なローマ帝国を四分割して、自分を含めた四人の皇帝で治めることにしたのです。そうすることで、わざわざ首都まで知らせなくても、その領地を治める皇帝が迅速に対応でき、素早く事態を鎮圧できるようになったのでした。

東西の四人の皇帝たちの立場

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ディオクレティアヌスは、長く続いた混乱によって腐敗したローマを離れ、小アジア北西のニコメディア(現在のトルコ共和国イズミット)へ移り、そこで皇帝に即位しました。そうして、前節の理由から286年にローマ帝国を東西に二分し、それぞれに皇帝と副皇帝を置きます。

ディオクレティアヌスはそのまま東の皇帝(正帝)となり、西はマクシミアヌスを皇帝(正帝)にして、ミラノを都としました。さらに293年、東の副帝にガレリウス、西の副帝にコンスタンティウスを任命します。この西の副帝コンスタンティウスですが、のちに皇帝となる「コンスタンティヌス1世」の父親です。よく似た名前なんですけど、最後から二番目の文字が「ウ」と「ヌ」で違うのでご注意を。

ディオクレティアヌスがこのようにローマを四人の皇帝で分割統治したことを「四分統治(テトラルキア)」といいます。四人で領地を分けたのですから、当然、四人がそれぞれ好きなように政治を行ったように見えますよね。しかし、四分割したのはあくまで戦争のため。皇帝としての決定権、独裁権はすべてディオクレティアヌスにありました。他の三人は彼の代理でしかないのです。

3.キリスト教への大迫害

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キリスト教と迫害

軍人皇帝時代を終わらせ、ローマを再び安定へ導こうと奮起したディオクレティアヌスですが、そんな彼にも暗い部分はあります。

当時、ヨーロッパではキリスト教徒が増えていました。ローマにはローマ神話の神々が広く信仰されていましたが、キリスト教や他の宗教に対しては寛容で、禁止などはしていなかったのです。しかし、キリスト教徒たちは身分に関係なく信者ならば奴隷も神の前では同じ人間だとして一緒に食事をしたり、キリストの血肉を象徴するブドウ酒とパンを食べる儀式が、人肉を食べる儀式だと誤解されるなどして、一部では危険な宗教とみられることがありました。それで、ローマのネロ皇帝などから、ときおりキリスト教の迫害が行われていたのです。

ディオクレティアヌスの影

ディオクレティアヌスは皇帝となったあと、自らをローマ神話の主神ユピテルの化身とし、皇帝を神として崇める「皇帝崇拝」をローマの人々に強要しました。

最初こそ、ローマの神々に礼拝をすればキリスト教徒でいてもよい、というふうにしていたのですが、キリスト教徒たちは従いません。そのため、ディオクレティアヌスは彼らを強制的に改宗させる方針を取ります。こうして、ローマに住む人々はみんなディオクレティアヌスへの信仰や、ローマの神々の祭儀の参加などをしなければならなくなったのです。

しかし、キリスト教への信仰心が篤かった信者たちは、皇帝崇拝を拒否。それまで自分たちが大切にしてきた神さま(宗教)をあっさりすてることはできませんよね。信者たちはカタコンベ(地下墓所。初期キリスト教時代の遺跡)へ隠れ、祈りを捧げて自分たちの信仰を守ろうとしました。キリスト教徒たちはカタコンベを隠れ家に模していたので、この時代の壁画などが多く残されています。

一方、皇帝崇拝の命令を出したにもかかわらず、一向にキリスト教徒が減らないどころか増え続けたために怒ったディオクレティアヌスは、とうとう実力行使に出ることになりました。

最大で最後のキリスト教大迫害

303年、ついにキリスト教徒への迫害が始まるりました。ディオクレティアヌスはキリスト教の聖書など書物を焼き捨て、教会の財産は没収し、破壊します。さらにはキリスト教の聖職者たちを逮捕して投獄。捕らえられたキリスト教徒たちはコロッセウム(円形競技場)へ送られ、そこで猛獣に襲わせるなどローマ市民に見世物として引きずり出されました。そうして、公開処刑に処せられたのです。

ディオクレティアヌスの大迫害は、かつてないほどの規模に及び、キリスト教の殉職者はローマ全土で数千人にも及んだとされています。これを「最後の大迫害」といいました。

キリスト教が公認されるまで

今でこそヨーロッパなどを中心に広く信仰されているキリスト教。しかし、ディオクレティアヌスやそれ以前の時代には迫害を受けています。では、どのようにしてキリスト教がヨーロッパの国々で受け入れられるようになったのでしょうか。

ディオクレティアヌスが305年に引退したのちも、キリスト教徒の迫害は続きました。その一方で、ディオクレティアヌスの退位は、またもやローマ帝国に大きな波乱を呼び込みます。

305年、55歳で退位したディオクレティアヌスは皇帝の位を世襲制にはしませんでした。そして、西の皇帝マクシミリアヌスも一緒に退位し、東西それぞれの副皇帝を次の皇帝とします。副皇帝にも新しい人物が就任しました。

こうして、平和的に皇帝の位が引き継がれた……かに思えますね。しかし、ローマの苦難はここから。ディオクレティアヌスの死後、東西の皇帝、副皇帝四人が主導権を巡って互いに争い始めたのです。

その争いを治めたのが、西の副皇帝コンスタンティヌス1世でした。彼はディオクレティアヌスの四分統治を廃止して、再びローマを統一。そして、キリスト教の迫害を中止すると、ミラノ勅令でキリスト教を公認する方向に持って行ったのでした。

混乱を収束させ、時代の節目となった皇帝

軍人皇帝時代の間にローマ帝国は弱体化の一途を辿っていました。それを終わらせたのがディオクレティアヌスです。彼は解放奴隷の息子から一転して、兵士として活躍し、一躍皇帝にまで上りつめます。そうして、不安定な軍人皇帝時代に終止符を打ち、他国の侵略や内部の反乱に備えてローマを四分割して四人の皇帝で統治する「四分統治」を実施しました。このようにローマを救ったディオクレティアヌスでしたが、皇帝の権威を回復しようとするあまり、彼を神として崇めなかったキリスト教を迫害。その勢いはすさまじく、たくさんの殉職者を出す結果となったのでした。

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イタリアヨーロッパの歴史世界史古代ローマ

3分で簡単「ディオクレティアヌス」不安定な軍人皇帝時代を終結させた皇帝を歴史オタクがわかりやすく解説

「ディオクレティアヌス」はローマ帝国の皇帝のひとりで、ローマ帝国の大きな転換期を作った。それまで続いていた軍人皇帝時代を終わらせ、不安定だったローマの情勢を落ち着かせたんです。それだけ聞くと歴史上の英雄として申し分ないよな。ですが、ディオクレティアヌスもいいところばかりじゃない。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「ディオクレティアヌス」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回はローマ帝国の皇帝のひとり「ディオクレティアヌス」についてまとめた。

1.古代ヨーロッパの大帝国ローマの危機

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「三世紀の危機」到来

ローマ帝国の全盛期とされる「五賢帝時代」が終わると、徐々にローマに暗雲が垂れこみ始めます。その最初となったのが、五賢帝時代に続くセウェルス朝の混乱でした。五賢帝最後の皇帝「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の後継者コモンドゥスが暗殺され、ローマ各地に「自分こそが皇帝だ」と自称するものが現れ、皇帝の座を巡る争いが起こります。「セプティウス・セウェルス」がその戦いを制して193年に皇帝に即位するのですが、そのころのローマは、天然痘の流行や軍人の高齢化、そして各地の反乱により軍団の人手不足が深刻化していました。

ヨーロッパを広く支配していたローマ帝国が弱体化したことにより、それまで保っていた「ローマによる平和(パクス・ロマーナ)」が崩れ去ったのです。

不安定な軍人皇帝時代

セウェルス朝の皇帝たちがローマを安定させられないままセウェルス朝最後の皇帝セウェルス・アレクサンデルが暗殺されてしまいます。そうして、235年にマクシミヌス・トラクスが軍人から推薦されて即位。しかし、マクシミヌス・トラクスの即位を不服に感じていたローマの元老院が反抗し、彼もまた打たれてしまいます。

ただ、この当時のローマは北方はゲルマン人、東方はササン朝ペルシアの侵入が続いていて、それを命がけで抑える軍人の発言力が高まっていました。そのため、元老院は軍団を抑えることができなかったのです。軍団は、マクシミヌス・トラクスの後も、軍人のなかから推薦した人物を皇帝に即位させていきます。

軍団に推薦された軍人が皇帝に即位していた時代を「軍人皇帝時代」といいました。しかし、軍人皇帝の力は、皇帝を推した軍団の力に左右されることに。さらには、一、二年で皇帝が暗殺されるなど不安定な状況が続くような事態になります。このように短命な政権が続いたことでローマ皇帝の権威は低下し、帝政の基盤が崩壊していったのです。

2.ディオクレティアヌスの登場

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