ローマ帝国はヨーロッパ世界を支配した強力な帝国だったな。そのローマ帝国がふたつに分割した東の方を「東ローマ帝国」といったんです。小アジアのコンスタンティノープルを首都に置き、後半ではイスラム教とも多く戦っている。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「東ローマ帝国」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回はふたつに別れたローマ帝国の片方「東ローマ帝国」についてまとめた。

1.東ローマ帝国と西ローマ帝国の誕生

image by PIXTA / 57693977

永遠の分割

広大な領地を有したローマ帝国。あまりに広すぎたため、外敵の侵入や内乱に備えるため、284年にディオクレティアヌス帝がローマ帝国を東西に分割した上で、四人の皇帝で治める「四分統治(テトラルキア)」などが行われたりもしました。けれど、その後、コンスタンティヌス1世によって再統一され、またひとつのローマ帝国として、一人の皇帝によっておさめられる時代が戻ります。

しかし、またもやローマ帝国が分割される日がやってきたのです。それは395年、テオドシウス1世がローマを再び東西に分割し、ふたりの息子をそれぞれの皇帝にしたからでした。

小アジアのコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都とする東ローマ帝国を長男のアルカディウスが。イタリア半島のミラノを首都とする西ローマ帝国を次男のホノリウスが治めることになったのです。

ローマの人々にとっては二度目のことでしたが、これがローマ帝国にとって永遠の分割となってしまうのでした。

西ローマ帝国の滅亡

東ローマ帝国が地中海や小アジアを中心にする一方で、西ローマ帝国はイタリア半島とその周辺を領土としていました。しかし、4世紀に始まったゲルマン人の大移動によって西ローマ帝国は窮地に立たされます。

たびたびの略奪によって自国の防衛すらゲルマン人の傭兵に頼らなくてはならない状況に。そうして、476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルがクーデターを起こして皇帝をローマから追放、これによって西ローマ帝国は滅亡したのでした。

「東ローマ帝国」という国名はない

東西に分かれたローマ帝国でしたが、それぞれの皇帝は自分たちの国に「東」や「西」と頭につけませんでした。なぜなら、両国とも我こそが正統な「ローマ皇帝」で、自分の国こそが正統な「ローマ帝国」だとしていたからです。

「東」や「西」と呼ぶのは、世界史の便宜上、ふたつの国がそのまま「ローマ帝国」だったらややこしすぎるからなんですね。

\次のページで「2.東ローマ帝国の最盛期「ユスティニアヌス1世大帝」」を解説!/

2.東ローマ帝国の最盛期「ユスティニアヌス1世大帝」

Meister von San Vitale in Ravenna.jpg
Meister von San Vitale in Ravenna - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる

縮小した領土を回復

西ローマ帝国の滅亡後、6世紀に入ると東ローマ帝国の最盛期が訪れます。

527年、ユスティニアヌス1世が皇帝に即位すると、彼は領土拡張を目指して戦争を始めました。そうして、533年には北アフリカにあったゲルマン人のヴァンダル王国を征服。535年にはイタリア全域を支配していた東ゴート王国と戦争を開始して、555年に東ローマ帝国側が勝利を収めます。この戦争の勝利によって東ローマ帝国はイタリア半島の支配権を回復し、かつてひとつであったころのローマ帝国の支配地域をほぼ回復することに。その後、イタリア支配のために北イタリアのラヴェンナに総督府を置きました。

ササン朝ペルシアとの戦い

西方は東ゴート王国との戦争に打ち勝ちましたが、東ローマ帝国のさらに東側には、ササン朝ペルシアが小アジア・ヨーロッパへの進出を虎視眈々と狙っていました。

ササン朝ペルシアはクテシフォン(現在のイラク)を首都とし、イラン高原からメソポタミア周辺を支配した帝国です。東ローマ帝国がユスティニアヌス1世帝のもとで最盛期を迎えるのと同じく、ササン朝ペルシアもまたホスロー1世のもとで全盛期を迎えています。

当時の両国は、長い間睨み合い、ときおり衝突を繰り返すような仲でした。しかし、このときユスティニアヌス1世は地中海方面の戦争に追われている状況。そのため、ユスティニアヌス1世はササン朝ペルシアのホスロー1世との間に50年間に渡る和平条約を結んで、最大の敵だったペルシアとの争いをやめさせたのでした。

こうして東側からの侵略を一時的に食い止め、ユスティニアヌス1世は地中海方面に集中して領土拡張をおこなったのです。

ローマ法の集大成「ローマ法大全」

ヨーロッパ各国の法律の手本とされる「ローマ法大全」は、ユスティニアヌス1世が編纂させたものです。

内容は、ハドリアヌスからユスティニアヌス1世まで歴代皇帝の法令をまとめた『勅法彙纂』、過去の著名な法学者の学説を編纂した『学説彙纂』、法学校での教科書となる『法学提要』、そして、ユスティニアヌス1世が死亡するまでに出した法令158個をまとめた『新勅法』の四つでした。

ローマの歴史が長い分、古代ローマ時代から有効とされるものと無効となったものとがごちゃごちゃになっていて、長い間、混乱のもととなっていたのです。そこで、ユスティニアヌス1世は古代ローマ時代から続く法を十人の法学者たちに再整備させました。

以降も手を加えつつも東ローマ帝国の基本法典として使われ続け、帝国が滅んだ後も現在にまで忘れ去られなかったのです。

ハギア・ソフィア聖堂の再建設

image by PIXTA / 62996033

コンスタンティヌス1世の子・コンスタンティウス2世がコンスタンティノープルに建設、360年に完成した「ハギア・ソフィア大聖堂」。しかし、532年のニカの乱で焼け落ちてしまいます。それをユスティニアヌス1世は直ちに再建を決定、たった5年11ヶ月でなしとげたのです。

しかし、ハギア・ソフィア大聖堂はキリスト教の聖堂として建築されましたが、現代では「アヤソフィア」と名前を変えています。

――それはなぜか?

ハギア・ソフィアにはギリシア正教のコンスタンティノープル総主教座が置かれていました。けれど、1453年にイスラム教系のオスマン帝国によってコンスタンティノープルが占領された際に、イスラム教のモスクとして転用されたからです。そうして、トルコ共和国となってから2020年7月まで博物館となり、現在では再びモスクとして使われています。

\次のページで「3.ギリシア正教会の成立」を解説!/

3.ギリシア正教会の成立

image by PIXTA / 48296670

再び領土の縮小

ユスティニアヌス1世が再拡大した領土ですが、751年、ゲルマン民族の移動によってイタリアに成立したランゴバルド王国により、総督府のラヴェンナが陥落。東ローマ帝国はイタリア南端以外からの撤退を余儀なくされます。そこからさらに領土の縮小を続け、ついにはコンスタンティノープルがある小アジアとギリシャを残すばかりとなってしまったのです。

止まらないギリシャ化

領土を東地中海に残すのみとなった東ローマ帝国。このころから次第にローマの伝統は弱まり始め、それに代わってギリシャ化が進みます。そうして、七世紀ごろからは「ローマ帝国」ではなく「ビザンツ帝国(ビザンティン帝国)」と呼ばれるようになりました。

「ビザンツ」はコンスタンティノープルがかつてギリシャの支配下にあった時代の名称「ビザンティオン」に由来します。

イスラム教の急速な拡大

image by PIXTA / 28477886

領土を縮小する一方、東方では相変わらずササン朝ペルシアとの抗争が続いていました。両国の戦争によって、東への陸路の交易ルートであった「シルクロード」が衰退。それに代わって海路を使っての貿易が活発化し始めました。その中心地にあったのがメッカ(サウジアラビア)です。

メッカといえば、イスラム教最大の聖地ですね。聖地が商業の中心となり、人々が集まることによって、イスラム教はより多くの人々に、急速に広がっていきました。そうして、新たにイスラム教の帝国・ウマイヤ朝が誕生し、ビザンツ帝国はその勢力によってさらに領土を縮小することになるのです。

ギリシャ正教の成立

かつてのローマ帝国以降、ずっとキリスト教国家だったビザンツ帝国でしたが、726年に皇帝レオン3世が「聖像禁止令(偶像禁止令)」を発します。聖像とは、キリスト教の信仰のためにつくられたイエス・キリストや聖母マリア、その他の成人の像のことです。禁止令を受け、ビザンツ帝国の各地で「聖像破壊運動(イコノクラスム)」が起こりました。

これは、偶像崇拝を強く否定するイスラム教に対抗するため、と推定されていますが、はっきりとした理由は明らかではありません。

しかしながら、聖像禁止令はキリスト教世界に大きな波紋を呼びました。当時のローマ・カトリック教会はゲルマン人たちへのキリスト教の布教に聖画像(イコン)を使っていたため、聖像禁止令はローマ教皇の強い反発を招いて国際問題へと発展していきます。対立がどんどん激化していき、とうとうキリスト教は東西で分裂するにまで至りました。

そうしてビザンツ帝国で成立したのが「ギリシャ正教」です。コンスタンティノープル総主教と東方教会は、自分たちの教えが正しいキリスト教の教えだとし「正教(オルソドクス)」と称したのでした。

\次のページで「4.ビザンツ帝国の衰退」を解説!/

4.ビザンツ帝国の衰退

image by PIXTA / 14723299

イスラム教勢力の更なる拡大

11世紀に入り、トルコ系のイスラム教勢力セルジューク朝がビザンツ帝国を脅かし始めました。そうして、1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ帝国が破れ、さらに領土を小さくしていったのです。セルジューク朝はどんどん進出を続け、ついには聖地イェルサレムまで奪われてしまいました。

ところで、イェルサレムはキリスト教の聖地ですが、同時にイスラム教、ユダヤ教の聖地でもあります。三つの宗教の拠り所なのです。

そんなイェルサレムを奪還するため、ビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世は、長らく対立していたローマ・カトリック教会に支援を頼みます。この場合の支援というのは「十字軍の派遣」のこと。時のローマ教皇ウルバヌス2世はそれに応え「クレルモン宗教会議」を開いて十字軍の派遣を呼びかけました。ウルバヌス2世によって人々は熱狂して聖地奪還に立ち上がります。

しかし、前述した通り、イスラム教にとってもイェルサレムは聖地です。あちら側も再びイェルサレムを取り返し、十字軍とイスラム教国家の戦いは続きました。

十字軍、コンスタンティノープル占領

キリスト教国家とイスラム教国の戦いが続くなか、ローマ教皇インノケンティウス3世の権威が最高潮に達していたころのこと。1202年に始まった第四回十字軍が突然進路を変えてコンスタンティノープルへ向かってきました。そうして、1204年にコンスタンティノープルを襲撃して「ラテン帝国」を建国してしまいます。

ラテン帝国となったコンスタンティノープルでは、ギリシャ正教の教会や修道院への弾圧が加えられたため、1054年以降、少しずつ関係修復を目指してきたローマ・カトリック教会とギリシャ正教の和解は非常に難しいものになってしまいました。

ビザンツ帝国の復興と滅亡

一方、コンスタンティノープルを追われたビザンツ帝国の遺臣たちは、大半の領土を失ってしまいました。しかし、そこであきらめずにニカイア帝国などの亡命政権を樹立してビザンツ帝国をなんとか存続させていたのです。

そして、ラテン帝国がブルガリア帝国との戦争で敗退した際に、ニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪還。やっとビザンツ帝国の復興が始まるのでした。

けれど、その領土はコンスタンティノープル周辺とギリシャの一部のみ。さらに間の悪い事にオスマン帝国の侵攻が始まってしまい、どんどん領土を縮小していったのでした。

そうして、1453年、とうとうビザンツ帝国はオスマン帝国のメフメト2世によって滅ぼされてしまうのです。

1000年以上続いた大帝国

東西に分割されたローマ帝国の片割れ「東ローマ帝国」。西ローマ帝国が長く持たなかったとはいえ、東ローマ帝国は規模を縮小しながらも1000年以上のご長寿帝国となりました。その長い歴史のなかでは、キリスト教の分裂によって「ギリシャ正教」が生まれたり、イスラム教の進出など宗教に関わることも多くありました。

" /> 3分で簡単「東ローマ帝国」1000年に及んだ帝国?キリスト教とイスラム教の間にあった?を歴史オタクがわかりやすく解説 – Study-Z
世界史

3分で簡単「東ローマ帝国」1000年に及んだ帝国?キリスト教とイスラム教の間にあった?を歴史オタクがわかりやすく解説

ローマ帝国はヨーロッパ世界を支配した強力な帝国だったな。そのローマ帝国がふたつに分割した東の方を「東ローマ帝国」といったんです。小アジアのコンスタンティノープルを首都に置き、後半ではイスラム教とも多く戦っている。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「東ローマ帝国」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回はふたつに別れたローマ帝国の片方「東ローマ帝国」についてまとめた。

1.東ローマ帝国と西ローマ帝国の誕生

image by PIXTA / 57693977

永遠の分割

広大な領地を有したローマ帝国。あまりに広すぎたため、外敵の侵入や内乱に備えるため、284年にディオクレティアヌス帝がローマ帝国を東西に分割した上で、四人の皇帝で治める「四分統治(テトラルキア)」などが行われたりもしました。けれど、その後、コンスタンティヌス1世によって再統一され、またひとつのローマ帝国として、一人の皇帝によっておさめられる時代が戻ります。

しかし、またもやローマ帝国が分割される日がやってきたのです。それは395年、テオドシウス1世がローマを再び東西に分割し、ふたりの息子をそれぞれの皇帝にしたからでした。

小アジアのコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都とする東ローマ帝国を長男のアルカディウスが。イタリア半島のミラノを首都とする西ローマ帝国を次男のホノリウスが治めることになったのです。

ローマの人々にとっては二度目のことでしたが、これがローマ帝国にとって永遠の分割となってしまうのでした。

西ローマ帝国の滅亡

東ローマ帝国が地中海や小アジアを中心にする一方で、西ローマ帝国はイタリア半島とその周辺を領土としていました。しかし、4世紀に始まったゲルマン人の大移動によって西ローマ帝国は窮地に立たされます。

たびたびの略奪によって自国の防衛すらゲルマン人の傭兵に頼らなくてはならない状況に。そうして、476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルがクーデターを起こして皇帝をローマから追放、これによって西ローマ帝国は滅亡したのでした。

「東ローマ帝国」という国名はない

東西に分かれたローマ帝国でしたが、それぞれの皇帝は自分たちの国に「東」や「西」と頭につけませんでした。なぜなら、両国とも我こそが正統な「ローマ皇帝」で、自分の国こそが正統な「ローマ帝国」だとしていたからです。

「東」や「西」と呼ぶのは、世界史の便宜上、ふたつの国がそのまま「ローマ帝国」だったらややこしすぎるからなんですね。

\次のページで「2.東ローマ帝国の最盛期「ユスティニアヌス1世大帝」」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: