「古代ギリシャ」ではポリスと呼ばれる都市国家が乱立し、お互いに協力したり争ったりしているイメージが強いな。歴史に残る戦争も多い。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「古代ギリシャ」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代のおおきな歴史のひとつ「古代ギリシャ」についてまとめた。

1.古代ギリシャ最初の「エーゲ文明」

image by PIXTA / 67784602

ギリシャと地中海の島々

現在のギリシャ周辺の地図を見ると、ギリシャは地中海の東部、ヨーロッパの南東のバルカン半島の南端部に位置します。ギリシャの東はエーゲ海、西はイオニア海、南は地中海に囲まれており、エーゲ海を挟んだ向かいには、小アジア(現在のトルコ)がありました。

また、周辺に小さな島がたくさんあるのがわかりますね。エーゲ海は多島海と言われるほど多くの島を抱えていて、南方のクレタ島や小アジアに近いロードス島など、覚えておかなくてはならない島々も。

ギリシャ人は、このエーゲ海の島々に、紀元前3000年ごろに南下して住み着いたとされています。ギリシャ人たちはエーゲ海を船で渡り、周辺諸国と盛んに交易を行いました。そうして、オリエント文明(古代エジプトやメソポタミアの都市文明)の影響を受けながら、古代ギリシャは青銅器を使う「青銅器文明」が栄えていくのです。

エーゲ文明の前半・クレタ島中心の「クレタ文明」

1900年イギリス人考古学者エヴァンズの発掘によってエーゲ文明の最初期にあたる「クレタ文明」の存在が証明されました。

それによると、エーゲ文明のうち紀元前2000年ごろから紀元前1400年ごろまでは、エーゲ海南部に位置するクレタ島の「クレタ文明」が中心となっています。

クレタ島の中央部からは、迷宮のように複雑な宮殿の遺跡が発掘されており、それがギリシャ神話のミノタウロス伝説の地・ミノス王が治めた都クノッソスの王宮ではないか、と考えられました。

また、クノッソスの宮殿には城壁がありません。いつどこの国が攻めて来るかわからない時代では、そんな開放的なお城は作れませんよね。そのため、基本的に戦争のない比較的平和な時期だったのではないかと考えられています。

エーゲ文明の後半・「ミケーネ文明」

クレタ島でクレタ文明が栄えていましたが、しかし、紀元前1400年になるとギリシャ本土からギリシャ人の一部のアカイア人が南下をはじめ、彼らによってクレタ文明は滅ぼされたと考えられています。

南下してきたギリシャ人たちは、ペロポネソス半島(ギリシャ本土)に住み着き、彼らはその土地にミケーネ王国をつくりました。紀元前1600年から紀元前1200年ごろを担う「ミケーネ文明」は、ギリシャ人のミケーネ王国を中心に栄えたとされています。ちなみに、こちらでもまだ鉄は使われず、青銅器文明が続きました。

ミケーネ文明では、クレタ文明とは違って城壁がつくられていたことから、人々の争いがあったのでしょう。しかし、対外の防御を持ったミケーネ文明は、紀元前1200年ごろに崩壊してしまいます。北方のギリシャ系ドーリア人か、あるいは海の民の侵攻など、いろんな説がありますが、真実は不明のまま。ともかく、ミケーネ文明が滅んだことで、ギリシャは人口が激減した上に、エーゲ文明で使われていた線文字も忘れ去られてしまいます。

クレタ文明の線文字Aとミケーア文明の線文字B

NAMA Linear B tablet of Pylos.jpg
Sharon Mollerus - originally posted to Flickr as How Cool Is Writing?, CC 表示 2.0, リンクによる

1876年にドイツ人のシュリーマンは、小アジアのトロイアに続き、ギリシャ本土のミケーアの遺跡を発見し、「ミケーア文明」の存在を証明します。

シュリーマンの死後、エヴァンズがクレタ文明の発見と同時に、文字が書かれた粘土板を発見しました。これによってクレタ文明では「線文字」と呼ばれる文字が使われていたことが明らかになります。さらにその後、線文字は「線文字A」と「線文字B」の二種類に分けられ、ミケーネでは「線文字B」が書かれた粘土板がたくさん出土したのです。

しかし、この当時、線文字を解読するにはいたりませんでした。ようやく線文字の解読ができたのは、1953年。けっこう最近のことですね。

イギリス人の建築家ヴェリントスが「線文字B」を解読し、学会に発表して非常に大きな反響を呼びます。「線文字B」の解読により、ミケーネ文明の社会や権力の仕組みなどが明らかにされました。

\次のページで「2.都市国家「ポリス」成立と戦争」を解説!/

2.都市国家「ポリス」成立と戦争

image by PIXTA / 66775480

「暗黒時代」から都市国家形成へ

ミケーネ文明が崩壊し、線文字も失われてしまっていたために、紀元前1200年ごろから紀元前800年までの約400年間については、よくわかっていません。このため、この空白の時代を「暗黒時代」と呼びました。

この暗黒時代の間、先住民のギリシャ系イオニア人とドーリア人が移住してきて、ギリシャ民族が形作られたとされています。また、青銅器の代わりに鉄器が使われるようになり、ミケーネのような青銅器時代は終わりとなったのです。

さらに、紀元前800年ごろから彼らはひとところに集まって定住し、「ポリス」と呼ばれる「都市国家」を形成しはじめました。

ポリスと植民市の乱立

ギリシャは大国を作るには適さない土地だったため、大きな国はできずに、小さなポリスがさまざまな場所で形成されることになりました。その上で、彼らは地中海の各地に進出して「植民都市」を建設しました。「植民都市」は現代でいう「植民地」とはちょっと違って、別の土地に市民を派遣して新しく都市をつくったものでした。現地の先住民を捕まえて無理矢理働かせたりするものではなかったのです。

ギリシャのポリスは東は小アジアのミレトスやビザンティオン(現在のトルコのイスタンブール)、西はマッサリア(現在のフランスのマルセイユ)、南は対岸のアフリカのキュレネなど、広く植民活動を行いました。

アテネ、民主政へ

植民活動や貿易によって経済が発展しはじめると、それまで何の権利ももたなかった平民たちも裕福になり、武器を自分で揃え重装歩兵としてポリスの防衛に参加するようになりました。平民が防衛で活躍するようになると、それを背景に平民の地位が向上し、発言権を強めることに。そしてその結果、平民たちは政治を担っていた王や貴族たちに反発し、参政権を求める戦いが始まったのです。

古代ギリシャを代表するポリスのひとつ、アテネは領地内に銀山を持ち、経済的に他のポリスを圧倒していました。そんな当時のアテネは、王政から貴族政へ移行しており、貴族と平民が参政権を巡って対立していたのです。そうして、平民が力を強めたために、紀元前七世紀には平民の地位を守る法律や、紀元前六世紀初頭に平民の没落防止など、平民を守るための法律が発布されていきます。

その後、ペイシストラトスが非合法な手段で強引に僭主となり、独裁的な「僭主政」を行い、一時、民主政が危ぶまれる事態に。しかしその死後に、クレイステネスが改革を行って僭主の登場を防止、さらには民主政を確立させたのです(クレイステネスの改革)。

軍国主義のスパルタ

一方、アテネと肩を並べる古代ギリシャの代表的なポリス「スパルタ」。こちらはアテネと違い、戦士団を強固な支配身分とする共同体です。

スパルタは被支配階級の奴隷や半自由民を多く持っていたため、たびたび起こる反乱を武力で押さえつける必要がありました。そのため、スパルタ市民を有用な兵士へと育てるために「スパルタ教育」という厳しい教育が行われます。その結果、スパルタ人ひとりひとりが非常に優れた戦士になったのです。

\次のページで「隣国ペルシアとの戦争」を解説!/

隣国ペルシアとの戦争

アテネが民主政へ移行したあとのこと。エーゲ海を挟んだ向こうのアケメネス朝ペルシア帝国がギリシャに対して侵攻を開始します。当時のペルシア帝国は強大で、ポリスが個々に戦って勝てる相手ではありませんでした。そこで、ギリシャ人たちはアテネを中心にしてポリス同士で連合軍を結成して立ち向かうことにしたのです。こうして、ギリシャのポリス連合軍対ペルシア帝国による「ペルシア戦争」が勃発しました。

アテネがペルシアに占領されるなど、一時的にギリシャ側が押される展開にもなりましたが、スパルタの重装歩兵や、アテネの海軍などにペルシアは思うように進軍できません。そうして、「サラミス海戦」でアテネ海軍が勝利を収めると、続くプラタイアの戦いでもギリシャ側がペルシア軍を下し、「ペルシア戦争」はギリシャ側の勝利となったのです。

勝ったギリシャ側の中でも特に、連合軍の中心となったアテネはギリシャの中でも有力国となりました。

ポリス同士の争い「ペロポネソス戦争」

ペルシャを撃退したギリシャ側でしたが、その後再びペルシャが戦争をしかけてこない保証はありません。それに対抗するため、アテネはエーゲ海のポリスに声をかけて「デロス同盟」を結成しました。そして、アテネはデロス同盟の盟主としてギリシャでの影響力を強めたのです。

しかし、それはもうひとつの代表ポリス・スパルタと、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟との関係悪化につながってしまいます。デロス同盟とペロポネソス同盟はやがて対立するようになり、紀元前431年、ついに両者の間に「ペロポネソス戦争」がはじまってしまうのです。

アテネvsスパルタ

image by PIXTA / 28699337

アテネとスパルタ。ギリシャの二大ポリスのぶつかり合いは、アテネに疫病が流行したこともあって、スパルタに軍配が上がりました。破れたアテネは海外の領土と海軍を失い、デロス同盟は解体されます。

けれど、この戦争の裏にはペルシア帝国の影がありました。スパルタはペルシアから金銭的援助を受ける代わりにスパルタ=ペルシア同盟を結び、ペルシアのギリシャ干渉が強まるきっかけとなったのです。しかも、戦争によってスパルタにもたらされた富は、スパルタ人たちに貧富の差をもたらします。それによって、スパルタ市民の強い結束力にヒビが入り、厳格な軍国主義が大打撃を受けたのでした。

さらに、スパルタの勝利に黙っていなかったのが、アテネ以下、テバイやコリントスなどのポリス、そして、スパルタを中心にギリシャがまとまることをおそれたペルシアです。ペルシアはスパルタに対抗するポリスへ援助を行いはじめ、再びギリシャは戦禍に見舞われることになりました。それが「コリントス戦争」です。

コリントス戦争で敗れたスパルタはギリシャでの覇権を失います。その後もポリス間の抗争は続き、結果的にギリシャ全体の衰退がはじまってしまうのでした。

3.ポリスの衰退

image by PIXTA / 61746857

衆愚政治化するアテネ

民主政を掲げたアテネは、しかし、ペロポネソス戦争敗退後、貴族寡頭政治によって民主政は退けられてしまいます。

その後、民主政は復活をとげることはできるのですが、人々を煽り立てる扇動政治家(デマゴーゴス)が力を持ちやすくなってしまい、アテネの民主政は衆愚政治となって徐々に衰退していったのです。

マケドニアの台頭とローマの侵略

ギリシャが衰退すると、今度は北方のマケドニアの台頭がはじまります。そうして、紀元前338年にポリス連合軍がカイロネイアの戦いで敗れ去り、マケドニアがギリシャの主導権を握ったのです。

マケドニアの支配下でギリシャの文化とオリエントの文化が混じり合い「ヘレニズム文化」が生まれました。

マケドニアのアレクサンドロス大王(イスカンダル)の死後、ギリシャはアンティゴノス朝マケドニアとなり、さらにその後の紀元前146年に、ギリシャ全土がローマの属州となります。その間、古代ギリシャに誕生した各ポリスはギリシャの覇権を取り戻すことはできませんでした。

\次のページで「古代の都市国家「ポリス」のはじまり」を解説!/

古代の都市国家「ポリス」のはじまり

内海に囲まれたギリシャは、古くから人々が集まり、様々なポリスを築いてきました。エーゲ文明ではオリエント世界と交流しながら、すでに文字を使う文明となります。

エーゲ文明が終わり、ポリスが形成され始めると、民主政のアテネ、軍国主義のスパルタと方向性が違えど強力なポリスが登場しました。ポリスは戦争と繁栄を繰り返しましたが、最終的にヨーロッパの覇権を握ることになるローマの属州となり古代ギリシャの時代は幕を下ろしたのです。

" /> 3分で簡単「古代ギリシャ」都市国家ってなに?ポリス同士で戦争をしていた?歴史オタクがわかりやすく解説 – Study-Z
ヨーロッパの歴史世界史古代ギリシャ

3分で簡単「古代ギリシャ」都市国家ってなに?ポリス同士で戦争をしていた?歴史オタクがわかりやすく解説

「古代ギリシャ」ではポリスと呼ばれる都市国家が乱立し、お互いに協力したり争ったりしているイメージが強いな。歴史に残る戦争も多い。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「古代ギリシャ」についてわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代のおおきな歴史のひとつ「古代ギリシャ」についてまとめた。

1.古代ギリシャ最初の「エーゲ文明」

image by PIXTA / 67784602

ギリシャと地中海の島々

現在のギリシャ周辺の地図を見ると、ギリシャは地中海の東部、ヨーロッパの南東のバルカン半島の南端部に位置します。ギリシャの東はエーゲ海、西はイオニア海、南は地中海に囲まれており、エーゲ海を挟んだ向かいには、小アジア(現在のトルコ)がありました。

また、周辺に小さな島がたくさんあるのがわかりますね。エーゲ海は多島海と言われるほど多くの島を抱えていて、南方のクレタ島や小アジアに近いロードス島など、覚えておかなくてはならない島々も。

ギリシャ人は、このエーゲ海の島々に、紀元前3000年ごろに南下して住み着いたとされています。ギリシャ人たちはエーゲ海を船で渡り、周辺諸国と盛んに交易を行いました。そうして、オリエント文明(古代エジプトやメソポタミアの都市文明)の影響を受けながら、古代ギリシャは青銅器を使う「青銅器文明」が栄えていくのです。

エーゲ文明の前半・クレタ島中心の「クレタ文明」

1900年イギリス人考古学者エヴァンズの発掘によってエーゲ文明の最初期にあたる「クレタ文明」の存在が証明されました。

それによると、エーゲ文明のうち紀元前2000年ごろから紀元前1400年ごろまでは、エーゲ海南部に位置するクレタ島の「クレタ文明」が中心となっています。

クレタ島の中央部からは、迷宮のように複雑な宮殿の遺跡が発掘されており、それがギリシャ神話のミノタウロス伝説の地・ミノス王が治めた都クノッソスの王宮ではないか、と考えられました。

また、クノッソスの宮殿には城壁がありません。いつどこの国が攻めて来るかわからない時代では、そんな開放的なお城は作れませんよね。そのため、基本的に戦争のない比較的平和な時期だったのではないかと考えられています。

エーゲ文明の後半・「ミケーネ文明」

クレタ島でクレタ文明が栄えていましたが、しかし、紀元前1400年になるとギリシャ本土からギリシャ人の一部のアカイア人が南下をはじめ、彼らによってクレタ文明は滅ぼされたと考えられています。

南下してきたギリシャ人たちは、ペロポネソス半島(ギリシャ本土)に住み着き、彼らはその土地にミケーネ王国をつくりました。紀元前1600年から紀元前1200年ごろを担う「ミケーネ文明」は、ギリシャ人のミケーネ王国を中心に栄えたとされています。ちなみに、こちらでもまだ鉄は使われず、青銅器文明が続きました。

ミケーネ文明では、クレタ文明とは違って城壁がつくられていたことから、人々の争いがあったのでしょう。しかし、対外の防御を持ったミケーネ文明は、紀元前1200年ごろに崩壊してしまいます。北方のギリシャ系ドーリア人か、あるいは海の民の侵攻など、いろんな説がありますが、真実は不明のまま。ともかく、ミケーネ文明が滅んだことで、ギリシャは人口が激減した上に、エーゲ文明で使われていた線文字も忘れ去られてしまいます。

クレタ文明の線文字Aとミケーア文明の線文字B

NAMA Linear B tablet of Pylos.jpg
Sharon Mollerus – originally posted to Flickr as How Cool Is Writing?, CC 表示 2.0, リンクによる

1876年にドイツ人のシュリーマンは、小アジアのトロイアに続き、ギリシャ本土のミケーアの遺跡を発見し、「ミケーア文明」の存在を証明します。

シュリーマンの死後、エヴァンズがクレタ文明の発見と同時に、文字が書かれた粘土板を発見しました。これによってクレタ文明では「線文字」と呼ばれる文字が使われていたことが明らかになります。さらにその後、線文字は「線文字A」と「線文字B」の二種類に分けられ、ミケーネでは「線文字B」が書かれた粘土板がたくさん出土したのです。

しかし、この当時、線文字を解読するにはいたりませんでした。ようやく線文字の解読ができたのは、1953年。けっこう最近のことですね。

イギリス人の建築家ヴェリントスが「線文字B」を解読し、学会に発表して非常に大きな反響を呼びます。「線文字B」の解読により、ミケーネ文明の社会や権力の仕組みなどが明らかにされました。

\次のページで「2.都市国家「ポリス」成立と戦争」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: