ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代のおおきな歴史のひとつ「古代ギリシャ」についてまとめた。
ギリシャと地中海の島々
現在のギリシャ周辺の地図を見ると、ギリシャは地中海の東部、ヨーロッパの南東のバルカン半島の南端部に位置します。ギリシャの東はエーゲ海、西はイオニア海、南は地中海に囲まれており、エーゲ海を挟んだ向かいには、小アジア(現在のトルコ)がありました。
また、周辺に小さな島がたくさんあるのがわかりますね。エーゲ海は多島海と言われるほど多くの島を抱えていて、南方のクレタ島や小アジアに近いロードス島など、覚えておかなくてはならない島々も。
ギリシャ人は、このエーゲ海の島々に、紀元前3000年ごろに南下して住み着いたとされています。ギリシャ人たちはエーゲ海を船で渡り、周辺諸国と盛んに交易を行いました。そうして、オリエント文明(古代エジプトやメソポタミアの都市文明)の影響を受けながら、古代ギリシャは青銅器を使う「青銅器文明」が栄えていくのです。
エーゲ文明の前半・クレタ島中心の「クレタ文明」
1900年イギリス人考古学者エヴァンズの発掘によってエーゲ文明の最初期にあたる「クレタ文明」の存在が証明されました。
それによると、エーゲ文明のうち紀元前2000年ごろから紀元前1400年ごろまでは、エーゲ海南部に位置するクレタ島の「クレタ文明」が中心となっています。
クレタ島の中央部からは、迷宮のように複雑な宮殿の遺跡が発掘されており、それがギリシャ神話のミノタウロス伝説の地・ミノス王が治めた都クノッソスの王宮ではないか、と考えられました。
また、クノッソスの宮殿には城壁がありません。いつどこの国が攻めて来るかわからない時代では、そんな開放的なお城は作れませんよね。そのため、基本的に戦争のない比較的平和な時期だったのではないかと考えられています。
エーゲ文明の後半・「ミケーネ文明」
クレタ島でクレタ文明が栄えていましたが、しかし、紀元前1400年になるとギリシャ本土からギリシャ人の一部のアカイア人が南下をはじめ、彼らによってクレタ文明は滅ぼされたと考えられています。
南下してきたギリシャ人たちは、ペロポネソス半島(ギリシャ本土)に住み着き、彼らはその土地にミケーネ王国をつくりました。紀元前1600年から紀元前1200年ごろを担う「ミケーネ文明」は、ギリシャ人のミケーネ王国を中心に栄えたとされています。ちなみに、こちらでもまだ鉄は使われず、青銅器文明が続きました。
ミケーネ文明では、クレタ文明とは違って城壁がつくられていたことから、人々の争いがあったのでしょう。しかし、対外の防御を持ったミケーネ文明は、紀元前1200年ごろに崩壊してしまいます。北方のギリシャ系ドーリア人か、あるいは海の民の侵攻など、いろんな説がありますが、真実は不明のまま。ともかく、ミケーネ文明が滅んだことで、ギリシャは人口が激減した上に、エーゲ文明で使われていた線文字も忘れ去られてしまいます。
クレタ文明の線文字Aとミケーア文明の線文字B
Sharon Mollerus – originally posted to Flickr as How Cool Is Writing?, CC 表示 2.0, リンクによる
1876年にドイツ人のシュリーマンは、小アジアのトロイアに続き、ギリシャ本土のミケーアの遺跡を発見し、「ミケーア文明」の存在を証明します。
シュリーマンの死後、エヴァンズがクレタ文明の発見と同時に、文字が書かれた粘土板を発見しました。これによってクレタ文明では「線文字」と呼ばれる文字が使われていたことが明らかになります。さらにその後、線文字は「線文字A」と「線文字B」の二種類に分けられ、ミケーネでは「線文字B」が書かれた粘土板がたくさん出土したのです。
しかし、この当時、線文字を解読するにはいたりませんでした。ようやく線文字の解読ができたのは、1953年。けっこう最近のことですね。
イギリス人の建築家ヴェリントスが「線文字B」を解読し、学会に発表して非常に大きな反響を呼びます。「線文字B」の解読により、ミケーネ文明の社会や権力の仕組みなどが明らかにされました。
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