阪神間モダニズムとは、ざっくりと言えば、大阪と神戸のあいだで開花した文化。阪神と阪急のふたつの鉄道会社が、まちづくりによって牽引したものです。明治、大正、昭和を通じて、近代的な生活様式を提案した。

地域をブランド化したことでも知られる阪神間モダニズムについて、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカ文化と歴史が専門の元大学教員。日本のモダニズムについて調べているときフランク・ロイド・ライトが設計した建築物に遭遇。そのなかで甲子園ホテルと阪神間モダニズムのことを知った。そこで阪急と阪神が発信した文化キャンペーンについて調べてみた。

阪神間モダニズムとはどんな文化?

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阪神間モダニズムとは、かつての日本で流行した建築デザインの方法。それを推進したのは鉄道会社でした。路線を拡大させていくとき、利用者を増やすために沿線の地域も一緒に開発。そこで生まれた近代的な建築物、ライフスタイル、価値観などすべてを阪神間モダニズムに含むことができます。

明治末期から昭和初期に開花した地域文化

阪神間モダニズムが流行した時期は、明治の終わりから昭和の初めにかけて。西洋の影響を受けた建築物や一般家屋が建てられました。なかには、モダニズム建築の父と呼ばれるフランク・ロイド・ライトやその弟子が設計した建築物も含まれています。

もともと日本では、大阪と神戸は大都市化しつつありましたが、そのあいだのエリアは未開拓。それが、阪神電気鉄道、阪神急行電鉄、阪急宝塚本線などが開通することで、都市エリアが拡大していきます。

西宮や芦屋のブランド化に貢献

路線を拡大させるために私鉄が資本をつぎ込んだのが郊外の開発。それにより、西宮市や芦屋市が近代的な生活ができる最先端の場所としてブランド化されます。富裕層の豪邸が立ち並ぶようになり、徐々にサラリーマンなど中間所得層が増えていきました。

鉄道会社は、最先端のライフスタイルを送れるとアピール。生活の主体でもある女性を意識していることから、モダンな女性文化も生み出します。実は、日本で初めてのファッション雑誌が生まれたのが芦屋。このエリアにそのような雑誌を読む女性層が住んでいたからこそだと言えます。

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阪神間モダニズムという言葉はどこから生まれた?

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阪神間モダニズムは、阪急や阪神が事業の宣伝のためにつくった言葉ではありません。のちに阪神間モダニズムにゆかりがある美術家や記念館が企画展示をするときに命名したものです。

芸術とのゆかりから生まれた阪神間モダニズム

阪神間モダニズムという言葉は地域文化を研究する過程で生まれます。たとえば1994年に出版された阪急沿線都市研究会編による「ライフスタイルと都市文化 阪神間モダニズムの光と影」。1997年に兵庫県立近代美術館、西宮市大谷記念美術館、芦屋市立美術博物館、芦屋市谷崎潤一郎記念館で同時開催された「阪神間モダニズム」展も、この概念を広めることに貢献しました。

このエリアは、文化的な環境も整備されたことから文化人や芸術家も移り住むようになります。芦屋の生活を描いたのが谷崎潤一郎の名作である『細雪』。谷崎が住んでいた家も芦屋にありました。遠藤周作は西宮市にあるカトリック夙川教会にて洗礼を受けました。

鉄道会社が作った都市文化・消費文化を指す

阪神間モダニズムという概念を象徴するのが近代的な建築物。それらとセットで生まれた都市文化や消費文化も、阪神間モダニズムの一部と言えます。芦屋マダムが愛したおしゃれなファッション、西洋風の食事、週末に娯楽を楽しむ習慣が、中間層まで定着しました。

特徴的なのは、阪神間モダニズムの自然志向や健康志向です。郊外ならではの豊かな自然と調和する住宅での生活が推奨されました。これらのエリアは「日本一の健康地」というお墨付きをもらい、さまざまなスポーツを楽しめる施設や公園も整備されていきます。

阪神間モダニズムの特徴

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阪神間モダニズムのおもな特徴は西洋の影響を受けていることです。一番の特徴はとくにアメリカの影響を受けたモダンな建築物。さらにはライフスタイルや価値観を変えるような設備も作られていきました。そのため最新の生き方をしたいと思う人々のあこがれの地域となってきます、

和洋折衷の建築デザイン

建築デザインは、アメリカを代表する建築家フランク・ロイド・ライトの影響を受けていることから西洋風といわれがち。しかし実際は、洋館と和館の両方が建てられる、西洋風のデザインのなかに日本の伝統的な彫刻が施されることも多々ありました。

鹿鳴館に象徴される明治初期の文明開化は、西洋の生活を徹底的に模倣しようとするものでした。それに対して阪神間モダニズムは、ただ西洋を模倣するのではなく、そのなかに日本らしさの痕跡を残す傾向があります。こうした和洋折衷が特徴と言えるでしょう。

ライフスタイルは女性にアピール

さらには、阪神間モダニズムのライフスタイルの一部は女性に向けているという特徴があります。ファッションはもちろんのこと、快適に暮らせるまちづくりは、男性よりも女性や子どもを意識したものでした。また、健康もキーワード。開発地域には、野球、テニス、ゴルフ、水泳など、スポーツを楽しめる施設も併せてつくられます。

この流れのなかで生まれたもののひとつが生協システム。社会運動家として知られる賀川豊彦により神戸生協が生まれたのは大正10年。地域に根差した購買システムは芦屋を中心に阪神間モダニズムエリアに浸透します。高級感だけではなく利便性を求める女性が多かったからこそ、生協システムが地域に根付いていったといえるでしょう。

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阪神間モダニズムの建築物1 甲子園会館

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もともとホテルとして開館したのが甲子園会館。モダンなデザインによる最新のホテルとしてオープンするものの、第二次世界大戦の影響もありホテルとしての歴史はほとんどありません。しかしながら現在は、阪神間モダニズムを象徴する建物のひとつとして地域の人々の愛されています。

遠藤新が設計したホテル

阪神間モダニズム建築のひとつとされる甲子園会館があるのは兵庫県西宮市。フランク・ロイド・ライトの愛弟子の一人である遠藤新が設計したものです。1930年に甲子園ホテルとして建てられましたが、太平洋戦争の影響により、ほとんど使用されずに軍に接収されました。

遠藤新は、帝国ホテルに設計を担当していたフランク・ロイド・ライトの建築設計事務所に勤務。予算を大幅に上回ったことで対立を深めたライトは帝国ホテルの担当を解雇。遠藤が引き継ぐことになりました。その後も遠藤はライトの影響を受けた建築物を作り続けます。

現在は武庫川学院大学建築学科の建物

太平洋戦争が終わった後、甲子園ホテルはアメリカ進駐軍の将校宿舎として使われます。10年後、旧大蔵省が管理していたものの、1965年に武庫川学院が文化遺産を保護するために国から譲り受けました。歴史的に貴重な建物であるため、それを保存するべきだと学院は判断したからです。

そして甲子園ホテルは甲子園会館と名を改め、学生が授業を受ける教室として利用。さらには、由緒ある建物のため見学者も受け入れるようになりました。さらに最近は、市民向けのオープンカレッジとして一般公開しています。戦争によりほとんど使われなかった甲子園ホテルは、地域の人々が気軽に出入りできる、地元密着型の場所に生まれ変わりました。

阪神間モダニズムの建築物2 ヨドコウ迎賓館

旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館)
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ヨコドウ迎賓館は、もともとの名前は旧山邑家住宅。フランク・ロイド・ライトが日本で設計した個人住宅です。1989年からヨコドウ迎賓館という名前で一般公開されるようになりました。

フランク・ロイド・ライトが設計

ライトが設計した住宅とされていますが、1922年にアメリカに帰国しているため、建てる作業はライトの弟子である遠藤新と南信によるものです。酒屋である櫻正宗の八代目当主である山邑太左衛門の別邸として建てられました。

ライトによる設計で、完全なかたちで残っている住宅は、このヨコドウ迎賓館が唯一とされています。歴史的な貴重さもあり、大正時代よりあとに作られた、鉄筋コンクリート造り建造物として、はじめて重要文化財に指定されました。

自然と調和した近代的なデザインが特徴

ヨコドウ迎賓館は、丘のうえの急斜面に立っているため、自然と建物を絶妙に調和させていることが特徴。窓から見る景色は相当の絶景です。建物は近代的なデザインの鉄筋コンクリート造り。自然と人工を調和させるライトの狙いが表現されています。

個人の別邸として使用されていましたが、1947年から淀川製鋼所が所有するように。社長邸や独身寮として使用されたのち、現在は淀川製鋼所迎賓館として一般に公開されています。内部の部屋や食堂を見学したあと、忘れずに立ち寄りたいのがバルコニー。海や市街の風景を一望できます。

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阪神間モダニズムの建築物3 旧乾邸住宅

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旧乾邸は兵庫県神戸市東灘区にある歴史的な個人邸宅。近畿エリアを中心にアメリカスタイルの商業ビルを設計した渡辺節が設計したものです。保存活動が難航したものの、最終的に神戸市土地開発公社が購入しました。

乾汽船の創業者の個人邸宅

旧乾邸を発注したのは乾汽船という海運業者の創業者である乾新治。金融業で有名となった実業家の一族です。この邸宅は、和館と洋館のふたつがセットになっていました。

洋館は鉄筋コンクリート造で、ところどころ木造となっている和洋折衷が特徴です。部屋数は洋室と和室で20ほど。内部の装飾はとても豪華で、シャンデリアやステンドグラスで彩られています。広い芝生の庭園の奥には和館がありましたが現在は残っていません。

長らく保存が難航する旧乾邸住宅

旧乾邸は歴史的に貴重な建物ですが、いろいろな経緯から運営先の確保が難航。5代目当主が亡くなったあと、邸宅は相続税として国に治められます。 神戸市が買い取りを検討している最中に阪神・淡路大震災が発生。このときに和館は全壊してしまいました。

洋館は無事だったものの、震災の影響により市の財政が悪化。購入が頓挫委します。NPOと連携した保存活動が行われたこともあり、解体せずに購入者を探すものの見つからず。ようやく2009年11月に神戸市土地開発公社の購入が決まりました。

阪神間モダニズムは日本の近代化の象徴

阪神間モダニズムに区分できる建築物は、今でも見学できるところが意外と多くあります。大阪と神戸を中心に、同一エリアに集まっていることもあるので、建築マニアのあいだでは個人ツアーが組まれることも。明治、大正、昭和と、日本がどのように近代化の波とかかわってきたのが、実際に建物を見ながら学んでいくのも楽しいと思いますよ。

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現代社会

「阪神間モダニズム」とは?鉄道がつくった近代的な文化について元大学教員が3分でわかりやすく解説

阪神間モダニズムとは、ざっくりと言えば、大阪と神戸のあいだで開花した文化。阪神と阪急のふたつの鉄道会社が、まちづくりによって牽引したものです。明治、大正、昭和を通じて、近代的な生活様式を提案した。

地域をブランド化したことでも知られる阪神間モダニズムについて、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカ文化と歴史が専門の元大学教員。日本のモダニズムについて調べているときフランク・ロイド・ライトが設計した建築物に遭遇。そのなかで甲子園ホテルと阪神間モダニズムのことを知った。そこで阪急と阪神が発信した文化キャンペーンについて調べてみた。

阪神間モダニズムとはどんな文化?

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阪神間モダニズムとは、かつての日本で流行した建築デザインの方法。それを推進したのは鉄道会社でした。路線を拡大させていくとき、利用者を増やすために沿線の地域も一緒に開発。そこで生まれた近代的な建築物、ライフスタイル、価値観などすべてを阪神間モダニズムに含むことができます。

明治末期から昭和初期に開花した地域文化

阪神間モダニズムが流行した時期は、明治の終わりから昭和の初めにかけて。西洋の影響を受けた建築物や一般家屋が建てられました。なかには、モダニズム建築の父と呼ばれるフランク・ロイド・ライトやその弟子が設計した建築物も含まれています。

もともと日本では、大阪と神戸は大都市化しつつありましたが、そのあいだのエリアは未開拓。それが、阪神電気鉄道、阪神急行電鉄、阪急宝塚本線などが開通することで、都市エリアが拡大していきます。

西宮や芦屋のブランド化に貢献

路線を拡大させるために私鉄が資本をつぎ込んだのが郊外の開発。それにより、西宮市や芦屋市が近代的な生活ができる最先端の場所としてブランド化されます。富裕層の豪邸が立ち並ぶようになり、徐々にサラリーマンなど中間所得層が増えていきました。

鉄道会社は、最先端のライフスタイルを送れるとアピール。生活の主体でもある女性を意識していることから、モダンな女性文化も生み出します。実は、日本で初めてのファッション雑誌が生まれたのが芦屋。このエリアにそのような雑誌を読む女性層が住んでいたからこそだと言えます。

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