
喜望峰を通過してインドに到達
先に、ポルトガルが派遣していたバルトロメウ・ディアスがアフリカの喜望峰に到達。そのため、喜望峰をまわってインド航路を見つけることが、ヴァスコ・ダ・ガマに課せられたミッションとなりました。
ポルトガル王の望みはインドと公式に貿易をすること。そのためヴァスコ・ダ・ガマは国王の親書を携えて航海に出ます。喜望峰までの航路はすでに開拓されていたため、ある程度の計画性をもって航海が行われました。

コロンブスは「きっとインディアスがあるだろう」と信じていただけで計画性はゼロ。それに対してヴァスコ・ダ・ガマは予定通り到着できたという感じだ。同じ時代の航海者であるが、船旅の雰囲気はかなり違う。
インド上陸のあとのヴァスコ・ダ・ガマ
By Unknown author – http://www.columbia.edu/itc/mealac/pritchett/00routesdata/1400_1499/vascodagama/zamorin/zamorin.html, Public Domain, Link
インド洋を渡ってカリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマ一行は、その沿岸にあるカレクトの国王に謁見。カリカットは、現在のコーリコードと呼ばれる港湾都市で、イスラム商人の影響力が強いエリアでした。
宮殿にてカレクト国王との謁見に成功
一行はカレクト国王からの招待を受けることに成功。宮殿におもむいたのは、ヴァスコ・ダ・ガマと13人の部下の合計14人でした。重大なミッションのひとつである国王からの親書も無事に渡します。
カレクト王国の領地で影響力を持っていたのはイスラム商人。財力を活かして国王に大量の貢ぎ物を渡していました。国王にとって重要なことは関税による利益を得ること。ポルトガルが用意していた贈り物はわずかだったことから、交渉に支障をきたしました。
ヴァスコ・ダ・ガマ帰国後に多額の報酬を得る
貢ぎ物が十分でなかったこともあり、最初の謁見では交易の許可はおりませんでしたが、2回目の謁見にて何とか成功。しかしながら、当地の習慣に沿わずに船をとめていたこともあり、ヴァスコ・ダ・ガマたちは軟禁されるなど、ひと悶着ありました。
ヴァスコ・ダ・ガマたちは、ポルトガルから持ってきた物を現地で交換。なんとか出航を果たしてポルトガルに戻ります。カレクト国王から交易許可を得たことが評価され、多額の報酬を得ることにも成功しました。

インドとの交易を確立させることがポルトガルの悲願。それなのに貢ぎ物を十分に持っていなかったのは不思議だ。当時のポルトガルはヨーロッパのなかでも経済的に豊かな国だった。交易で力をつけていたインドの王国を舐めてしたのかもしれないな。
インド支配の土台をつくったヴァスコ・ダ・ガマ
By Oscar Pereira da Silva – José Rosael/Hélio Nobre/Museu Paulista da USP, Public Domain, Link
インド周辺を支配するための土台ができたポルトガル。本格的にインドの支配を確立するために、ふたたび使者を派遣することになりました。
ポルトガルはインド支配のための貴族を派遣
このとき派遣されたのは、貴族で軍人のペドロ・アルヴァレス・カブラル。前回は貢ぎ物の不足などから満足な交渉ができなかったことを踏まえて、十分な贈り物を用意します。
贈り物の効果もあり、カレクト国王の信頼を得たポルトガル。友好条約を締結に加え商館設置にも成功します。その他、最初の航海で、ヴァスコ・ダ・ガマが拉致したインド人も返還しました。
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