世界史の分野で大航海時代について学ぶとき、ヴァスコ・ダ・ガマの名前が必ずと言っていいほど登場する。彼はポルトガル出身の航海者で、ヨーロッパ人として初めてインドへの航路の「発見者」と位置づけられている。アフリカの南端近くにある喜望峰の通過に成功したのも同じくヴァスコ・ダ・ガマです。

彼のチャレンジは、ヨーロッパ人の航路開拓に貢献すると同時に、ポルトガル植民地政策の基礎をつくった。そんな彼に関連する情報を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。個人的に大航海時代に興味があり、情報が限定されているヴァスコ・ダ・ガマが気になった。彼の航海によりポルトガルの貿易スポットが世界中にできる。その周辺の文化にも影響を与えた彼の航海について、これを機会にと調べてみた。

ヴァスコ・ダ・ガマとはどんな人物?

image by PIXTA / 65902995

ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガル生まれの航海者。バスコ・ダ・ガマと呼ばれることおあります。航海術の才能にあふれていることからインドへ向かう航路の開拓というミッションを課せられ、それを成し遂げました。

大航海時代に活躍したポルトガル人航海者

ヴァスコ・ダ・ガマが活躍したのは、コロンブスやマゼランと同じ大航海時代。コロンブスとマゼランはスペインの支援を受けているのに対して、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルがスポンサーです。そのためふたりはライバル関係にありました。

ヴァスコ・ダ・ガマは、世界史の教科書ではインド航路を「発見」したと言われます。ただし「発見」したのはヨーロッパ人として。インド航路を開拓するなかで、ポルトガルの植民地政策の基礎を築いたと言ったほうがいいでしょう。

リスボン地震のあと記録が消失

ヴァスコ・ダ・ガマの幼少期についてはほとんど分かりません。その理由が1755年に発生したリスボン地震。王立図書館に保管された記録が津波で流されたことで、関連する史料がなくなったと言われています。

ヴァスコ・ダ・ガマの3回の航海についても公式な記録はなし。第一回については、船の一隻に乗っていた兵士の記録がありますが、ひとりの兵士の記録にすぎないため詳細のフォローは困難。そのほか、いくつかの著作から見ていく形になるようです。

ポルトガルにより司令官に選出されたヴァスコ・ダ・ガマ

image by PIXTA / 33096691

ヴァスコ・ダ・ガマの生い立ちはほとんど不明。ポルトガルの港町であるシーネスで生まれ育ったことから、その地で航海に関する知識や技術を身に付けたと思われます。そんなヴァスコ・ダ・ガマは、ポルトガル王により司令官に任命され、1497年にリスボンを出発しました。

財政難から香辛料を求めるポルトガル

ポルトガルがヴァスコ・ダ・ガマをインドに向けて派遣した理由は香辛料。ヨーロッパの国々は財政がひっ迫しており、黄金や香辛料で解決しようとしていました。

ヨーロッパ諸国が目指していたのが、今のインドや中国を指すインディアスです。スペインの支援をうけてインディアスを目指したコロンブスがアメリカ大陸に到達。そのためポルトガルは、アフリカの喜望峰経由の航路を開拓を急ぎます。

\次のページで「喜望峰を通過してインドに到達」を解説!/

喜望峰を通過してインドに到達

先に、ポルトガルが派遣していたバルトロメウ・ディアスがアフリカの喜望峰に到達。そのため、喜望峰をまわってインド航路を見つけることが、ヴァスコ・ダ・ガマに課せられたミッションとなりました。

ポルトガル王の望みはインドと公式に貿易をすること。そのためヴァスコ・ダ・ガマは国王の親書を携えて航海に出ます。喜望峰までの航路はすでに開拓されていたため、ある程度の計画性をもって航海が行われました。

インド上陸のあとのヴァスコ・ダ・ガマ

A steel engraving from the 1850's, with modern hand coloring.jpg
By Unknown author - http://www.columbia.edu/itc/mealac/pritchett/00routesdata/1400_1499/vascodagama/zamorin/zamorin.html, Public Domain, Link

インド洋を渡ってカリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマ一行は、その沿岸にあるカレクトの国王に謁見。カリカットは、現在のコーリコードと呼ばれる港湾都市で、イスラム商人の影響力が強いエリアでした。

宮殿にてカレクト国王との謁見に成功

一行はカレクト国王からの招待を受けることに成功。宮殿におもむいたのは、ヴァスコ・ダ・ガマと13人の部下の合計14人でした。重大なミッションのひとつである国王からの親書も無事に渡します。

カレクト王国の領地で影響力を持っていたのはイスラム商人。財力を活かして国王に大量の貢ぎ物を渡していました。国王にとって重要なことは関税による利益を得ること。ポルトガルが用意していた贈り物はわずかだったことから、交渉に支障をきたしました。

ヴァスコ・ダ・ガマ帰国後に多額の報酬を得る

貢ぎ物が十分でなかったこともあり、最初の謁見では交易の許可はおりませんでしたが、2回目の謁見にて何とか成功。しかしながら、当地の習慣に沿わずに船をとめていたこともあり、ヴァスコ・ダ・ガマたちは軟禁されるなど、ひと悶着ありました。

ヴァスコ・ダ・ガマたちは、ポルトガルから持ってきた物を現地で交換。なんとか出航を果たしてポルトガルに戻ります。カレクト国王から交易許可を得たことが評価され、多額の報酬を得ることにも成功しました。

インド支配の土台をつくったヴァスコ・ダ・ガマ

Oscar Pereira da Silva - Desembarque de Pedro Álvares Cabral em Porto Seguro, 1500, Acervo do Museu Paulista da USP.jpg
By Oscar Pereira da Silva - José Rosael/Hélio Nobre/Museu Paulista da USP, Public Domain, Link

インド周辺を支配するための土台ができたポルトガル。本格的にインドの支配を確立するために、ふたたび使者を派遣することになりました。

ポルトガルはインド支配のための貴族を派遣

このとき派遣されたのは、貴族で軍人のペドロ・アルヴァレス・カブラル。前回は貢ぎ物の不足などから満足な交渉ができなかったことを踏まえて、十分な贈り物を用意します。

贈り物の効果もあり、カレクト国王の信頼を得たポルトガル。友好条約を締結に加え商館設置にも成功します。その他、最初の航海で、ヴァスコ・ダ・ガマが拉致したインド人も返還しました。

\次のページで「キルワ王国を攻撃して朝貢国とする」を解説!/

キルワ王国を攻撃して朝貢国とする

貿易交渉が進んだあと、今度はヴァスコ・ダ・ガマがインドに赴きます。もともとカブラルが予定されていましたが、彼が辞退したため役目がまわってきました。

その途中でヴァスコ・ダ・ガマが立ち寄ったのがキルワ。ポルトガルと敵対していたため、支配下におくことを試みます。港から市街地に砲撃を加えた一行は、キルワ国王に降伏させることに成功。朝貢国にしました。

イスラム商人との関係が課題となるヴァスコ・ダ・ガマ

Gama armada of 1502 (Livro de Lisuarte de Abreu).jpg
By Unknown author - Livro de Lisuarte de Abreu (Pierpont Morgan Library, M.525), Public Domain, Link

インドにおける影響力を高めるために、ヴァスコ・ダ・ガマたちが目指したのがイスラム商人たちの排除。当時、ヨーロッパとインドや中国のあいだで、オスマン帝国のイスラム商人の力が強まっていることが課題となっていたからです。

イスラム商人の排除を交渉するも決裂

カレクト王国に到着したヴァスコ・ダ・ガマは、当地を牛耳っていたイスラム商人の排除を提案。しかしながら国王からの使者はそれを拒絶します。さらには、ヴァスコ・ダ・ガマの強硬な交渉に警戒心を持つようになりました。

武力衝突が起こることを警戒したカレクト国王は海岸の軍備を強化します。次の日、本当にポルトガル艦隊は攻撃を開始。市街に住む住民が被害を受けました。その結果、ヴァスコ・ダ・ガマに対する不信感がつのり、カレクト王国との交渉は決裂します。

カレクト以外の港町との貿易は進展

カレクト王国との交渉は決裂したものの、他のエリアとは友好関係を築きます。インドの南西部にあるカナノールは、香辛料の取り引きは不調に終わるものの、友好な関係を築くことに成功。インド南部にあるコチンでは、国王に謁見して友好な関係を持つに至りました。

最終的にヴァスコ・ダ・ガマは、友好関係にあるコチンにて交易品を得ます。ここでポルトガルに持ち帰ったのは、コショウ、ニッケイ、ソボク、チョウジ、ショウガなどのスパイスや生薬。これらを携えてポルトガルに戻りました。

ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルの超富裕層に

image by PIXTA / 48152479

第1回、第2回の航海の成果が高く評価されたヴァスコ・ダ・ガマは、ポルトガル国王からたくさんの褒美や名誉を貰います。そして一気にポルトガルの超富裕層にのぼりつめました。

キルワの降伏が高く評価される

とくに高く評価されたのはキルワを降伏させ、朝貢国のひとつにしたこと。以前からポルトガルはキルワを支配下に置くため通商条約の締結を求めていましたが、それを拒否し続けていました。

キルワを降伏させることに成功したポルトガルですが、実際の支配関係は長続きしませんでした。すぐにキルワは貢ぎ物を治めることを拒否。友好関係は瞬く間に終わりを迎えます。

\次のページで「ヴァスコ・ダ・ガマの軍事支配に対する評価」を解説!/

ヴァスコ・ダ・ガマの軍事支配に対する評価

ヴァスコ・ダ・ガマは大航海時代の立て役者のひとり。しかし、彼の強硬な姿勢により被害を受けたエリアも少なくありません。キルワは、農作物の生産と貿易により栄えていたものの、ポルトガル船による破壊活動のあとは衰退の一途をたどります。

イスラム商人を一方的に排除する、カレクト王国の市街地に砲撃を加えるなど、軍事力を使ってひれ伏させようとするのがポルトガルのやり方。大航海時代の航海者による破壊と略奪は知られていますが、ヴァスコ・ダ・ガマの攻撃性はかなり強力でした。

3回目の航海でヴァスコ・ダ・ガマの病状悪化

Asia oceania anonymous c1550.jpg
By Câmara - english wikpedia (image:Asia oceania anonymous c1550.JPG), Public Domain, Link

インド洋にて功績を挙げてきたヴァスコ・ダ・ガマですが、3回目の航海にて健康状態が悪化。最後まで意欲的に一団を指揮しましたが、異国の地で人生を終えました。

威嚇活動を繰り返す最中に亡くなる

ポルトガルはインド周辺の各地に拠点をつくり、交易のみならず軍事的にも力を強めていきました。支配をさらに確固たるものにするためヴァスコ・ダ・ガマは威嚇活動を繰り返し、諸国を恐れさせます。

同時にヴァスコ・ダ・ガマの健康状態は徐々に悪化。自らの死を悟った彼は、業務の引き継ぎ書や死後の命令書を作成します。その後、彼はコチンにて息を引き取り、現地の修道院にて葬儀が行われ、遺体はポルトガルに戻りました。

インド支配に関わった息子たち

ヴァスコ・ダ・ガマが亡くなったあと、父親が確立させたインドにて、息子たちが支配に関わります。長男はヴァスコ・ダ・ガマの遺産と称号を継承。次男はインド総督に就任します。

三男もまた、父親が支配の土台をつくったインドに赴任。四男は戦死しますが、五男と六男はマラッカ長官に任命されています。

ヴァスコ・ダ・ガマから大航海時代の多様な側面を学ぶ

大航海時代というと、勇気ある探検家たちが大海原を渡って、未知の大陸を探しに行くロマンを想像する人も多いでしょう。実際は、大航海時代の背景には、交易で利益をあげたい国の思惑があります。そのため、ポルトガルのように強硬な手段を使って、他国を支配下に置くというケースも少なくありません。そのため、政治や軍事力の存在も考えながら、大航海時代について学んでいくことが大切です。

" /> 「ヴァスコ ダ ガマ」って誰?ポルトガル植民地政策の基礎をつくった重要人物を元大学教員が5分でわかりやすく解説 – Study-Z
ヨーロッパの歴史世界史植民地時代

「ヴァスコ ダ ガマ」って誰?ポルトガル植民地政策の基礎をつくった重要人物を元大学教員が5分でわかりやすく解説

世界史の分野で大航海時代について学ぶとき、ヴァスコ・ダ・ガマの名前が必ずと言っていいほど登場する。彼はポルトガル出身の航海者で、ヨーロッパ人として初めてインドへの航路の「発見者」と位置づけられている。アフリカの南端近くにある喜望峰の通過に成功したのも同じくヴァスコ・ダ・ガマです。

彼のチャレンジは、ヨーロッパ人の航路開拓に貢献すると同時に、ポルトガル植民地政策の基礎をつくった。そんな彼に関連する情報を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。個人的に大航海時代に興味があり、情報が限定されているヴァスコ・ダ・ガマが気になった。彼の航海によりポルトガルの貿易スポットが世界中にできる。その周辺の文化にも影響を与えた彼の航海について、これを機会にと調べてみた。

ヴァスコ・ダ・ガマとはどんな人物?

image by PIXTA / 65902995

ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガル生まれの航海者。バスコ・ダ・ガマと呼ばれることおあります。航海術の才能にあふれていることからインドへ向かう航路の開拓というミッションを課せられ、それを成し遂げました。

大航海時代に活躍したポルトガル人航海者

ヴァスコ・ダ・ガマが活躍したのは、コロンブスやマゼランと同じ大航海時代。コロンブスとマゼランはスペインの支援を受けているのに対して、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルがスポンサーです。そのためふたりはライバル関係にありました。

ヴァスコ・ダ・ガマは、世界史の教科書ではインド航路を「発見」したと言われます。ただし「発見」したのはヨーロッパ人として。インド航路を開拓するなかで、ポルトガルの植民地政策の基礎を築いたと言ったほうがいいでしょう。

リスボン地震のあと記録が消失

ヴァスコ・ダ・ガマの幼少期についてはほとんど分かりません。その理由が1755年に発生したリスボン地震。王立図書館に保管された記録が津波で流されたことで、関連する史料がなくなったと言われています。

ヴァスコ・ダ・ガマの3回の航海についても公式な記録はなし。第一回については、船の一隻に乗っていた兵士の記録がありますが、ひとりの兵士の記録にすぎないため詳細のフォローは困難。そのほか、いくつかの著作から見ていく形になるようです。

ポルトガルにより司令官に選出されたヴァスコ・ダ・ガマ

image by PIXTA / 33096691

ヴァスコ・ダ・ガマの生い立ちはほとんど不明。ポルトガルの港町であるシーネスで生まれ育ったことから、その地で航海に関する知識や技術を身に付けたと思われます。そんなヴァスコ・ダ・ガマは、ポルトガル王により司令官に任命され、1497年にリスボンを出発しました。

財政難から香辛料を求めるポルトガル

ポルトガルがヴァスコ・ダ・ガマをインドに向けて派遣した理由は香辛料。ヨーロッパの国々は財政がひっ迫しており、黄金や香辛料で解決しようとしていました。

ヨーロッパ諸国が目指していたのが、今のインドや中国を指すインディアスです。スペインの支援をうけてインディアスを目指したコロンブスがアメリカ大陸に到達。そのためポルトガルは、アフリカの喜望峰経由の航路を開拓を急ぎます。

\次のページで「喜望峰を通過してインドに到達」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: