
彼のチャレンジは、ヨーロッパ人の航路開拓に貢献すると同時に、ポルトガル植民地政策の基礎をつくった。そんな彼に関連する情報を、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- ヴァスコ・ダ・ガマとはどんな人物?
- 大航海時代に活躍したポルトガル人航海者
- リスボン地震のあと記録が消失
- ポルトガルにより司令官に選出されたヴァスコ・ダ・ガマ
- 財政難から香辛料を求めるポルトガル
- 喜望峰を通過してインドに到達
- インド上陸のあとのヴァスコ・ダ・ガマ
- 宮殿にてカレクト国王との謁見に成功
- ヴァスコ・ダ・ガマ帰国後に多額の報酬を得る
- インド支配の土台をつくったヴァスコ・ダ・ガマ
- ポルトガルはインド支配のための貴族を派遣
- キルワ王国を攻撃して朝貢国とする
- イスラム商人との関係が課題となるヴァスコ・ダ・ガマ
- イスラム商人の排除を交渉するも決裂
- カレクト以外の港町との貿易は進展
- ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルの超富裕層に
- キルワの降伏が高く評価される
- ヴァスコ・ダ・ガマの軍事支配に対する評価
- 3回目の航海でヴァスコ・ダ・ガマの病状悪化
- 威嚇活動を繰り返す最中に亡くなる
- インド支配に関わった息子たち
- ヴァスコ・ダ・ガマから大航海時代の多様な側面を学ぶ
この記事の目次

ライター/ひこすけ
アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。個人的に大航海時代に興味があり、情報が限定されているヴァスコ・ダ・ガマが気になった。彼の航海によりポルトガルの貿易スポットが世界中にできる。その周辺の文化にも影響を与えた彼の航海について、これを機会にと調べてみた。
ヴァスコ・ダ・ガマとはどんな人物?

ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガル生まれの航海者。バスコ・ダ・ガマと呼ばれることおあります。航海術の才能にあふれていることからインドへ向かう航路の開拓というミッションを課せられ、それを成し遂げました。
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大航海時代に活躍したポルトガル人航海者
ヴァスコ・ダ・ガマが活躍したのは、コロンブスやマゼランと同じ大航海時代。コロンブスとマゼランはスペインの支援を受けているのに対して、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルがスポンサーです。そのためふたりはライバル関係にありました。
ヴァスコ・ダ・ガマは、世界史の教科書ではインド航路を「発見」したと言われます。ただし「発見」したのはヨーロッパ人として。インド航路を開拓するなかで、ポルトガルの植民地政策の基礎を築いたと言ったほうがいいでしょう。
リスボン地震のあと記録が消失
ヴァスコ・ダ・ガマの幼少期についてはほとんど分かりません。その理由が1755年に発生したリスボン地震。王立図書館に保管された記録が津波で流されたことで、関連する史料がなくなったと言われています。
ヴァスコ・ダ・ガマの3回の航海についても公式な記録はなし。第一回については、船の一隻に乗っていた兵士の記録がありますが、ひとりの兵士の記録にすぎないため詳細のフォローは困難。そのほか、いくつかの著作から見ていく形になるようです。
ポルトガルにより司令官に選出されたヴァスコ・ダ・ガマ

ヴァスコ・ダ・ガマの生い立ちはほとんど不明。ポルトガルの港町であるシーネスで生まれ育ったことから、その地で航海に関する知識や技術を身に付けたと思われます。そんなヴァスコ・ダ・ガマは、ポルトガル王により司令官に任命され、1497年にリスボンを出発しました。
財政難から香辛料を求めるポルトガル
ポルトガルがヴァスコ・ダ・ガマをインドに向けて派遣した理由は香辛料。ヨーロッパの国々は財政がひっ迫しており、黄金や香辛料で解決しようとしていました。
ヨーロッパ諸国が目指していたのが、今のインドや中国を指すインディアスです。スペインの支援をうけてインディアスを目指したコロンブスがアメリカ大陸に到達。そのためポルトガルは、アフリカの喜望峰経由の航路を開拓を急ぎます。
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