マスタードガスという毒ガスを聞いたことがあるか。マスタードガスは第一次世界大戦で初めて使用された毒ガスで、戦争で数多くの人の命を奪った恐ろしい化学兵器です。
今日はマスタードガスの歴史、そしてマスタードガスがなぜ人の身体を傷つけるのかという点を学んでいこう。説明するのは化学メーカーで化学物質の安全性、毒性を調査した経験もある珈琲マニアです。

ライター/珈琲マニア

京都大学で化学を学び、今はメーカーの研究員として勤務。企業で化学品の安全性、毒性を調査した経験もあり、化学物質の毒性に関する知見も豊富。

1.マスタードガスの歴史と人々に与えた被害とは

マスタードガスは第一次世界大戦で初めて使用された毒ガスであり、これまで戦争で数多くの命を奪った恐ろしい化学兵器です。マスタードガスの恐ろしさとして、口や鼻、皮膚から吸収されやすい上に回復しても後遺症が残る可能性があるという点が挙げられます。

ではなぜこのような恐ろしい兵器が誕生したのでしょうか。最初にマスタードガスの歴史や毒ガスが人々に与えた被害を学び、その後に毒ガス、化学兵器は今でも使用されているのか見ていきましょう。

1-1.マスタードガスが大量に使われた第一次世界大戦

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マスタードガスが初めて使われたのは第一次世界大戦中の1915年、ベルギーのイーペルという場所でした。ちなみにマスタードガスはイーペルという場所に由来する「イペリット」という別名を持っています。

イーペルはドイツ軍と連合国軍の最前線の戦場であり、毎日激しい戦闘が行われていました。そのように膠着した戦況を打破するためにドイツ軍は当時の最新の産業である化学工業を利用して毒ガスを工場で大量に生産、戦場へ投入するようになりました。毒ガスの種類としてはマスタードガスのほか、塩素やホスゲンなどがあり、第一次世界大戦だけでも100トン以上の毒ガスが使われたようです。

1-2.マスタードガスが人々に与えた被害

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マスタードガスの「戦果」は非常に大きなものであり、マスタードガスに触れたり、吸い込んだ兵士は次々と倒れて、連合国軍は壊滅状態になりました。マスタードガスなどの毒ガスは直接的な被害だけではなく、「目に見えないガスに殺されるかもしれない」という精神的なストレスも兵士たちに与えました。

その後、連合国軍側もドイツ軍に対抗してマスタードガスを大量に生産して戦場で使用し続けました。この毒ガス攻撃の応酬は第一次世界大戦中に何度も繰り返され、噴射された毒ガスは風に流されて戦場の近くに住んでいる一般市民の命も奪いました。戦争中に毒ガスが使われた地域では今でも毒ガスが入った不発弾が発見されることもあり、戦争から100年経った現在でも市民に恐怖を与えています。

1-3.マスタードガスの規制の歴史

第一次世界大戦では毒ガスは重要な兵器の一つとして使われましたが、非人道的な兵器は規制する必要があるという声も各国から上がりました。そこで1925年のジュネーブ議定書で化学兵器の使用を禁止する議定書が作成されました。しかしこの議定書では化学兵器の開発や所有を禁止する項目は設けられておらず、実際は規制としての役割を果たしていませんでした。

その結果、第二次世界大戦やイラン・イラク戦争などでもマスタードガスなどの化学兵器は使用され続けました。しかし、1997年に制定された化学兵器禁止条約によって化学兵器の開発、生産、所持などが禁じられてようやく化学兵器の全面撤廃に向けた流れが作られました。

一方で化学兵器は別名「弱者の核兵器」とも言われており、核兵器などの大量破壊兵器に比べて製造コストが安く、化学に関する知識があれば作ることが可能です。そのため、最近ではテロリストがマスタードガスなどの毒ガスを開発、使用する危険性も指摘されています。

2.マスタードガスが身体を壊すメカニズム

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Ben Mills - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

マスタードガスの主な成分は正式にはビス(2-クロロエチル)スルフィドと呼ばれる硫化物の一種であり、化学構造は上記の通りです。硫黄を含むことからサルファマスタードとも言われています。

このような単純な化学構造を持ったマスタードガスがなぜ人の身体に大きな被害を与えるのでしょうか。この章ではマスタードガスが身体に入ると人はどうなるのか、吸い込んだ直後の障害、そして後遺症などの時間が経過した後の障害を学んでいきましょう。

2-1.マスタードガスに触れた人はどうなる?

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マスタードガスは皮膚などの身体の組織を壊してしまう毒ガスであり、びらん剤と呼ばれる毒ガスの一種です。ちなみに「びらん」とは皮膚がただれること、すなわち皮膚の表面が破壊された状態を意味しており、想像するだけで痛そうですね…。マスタードガスが触れた皮膚は水疱を生じた後に破壊されて激しい痛みを引き起こすうえ、特効薬は存在せず痛みを軽くする薬しかありません。

マスタードガスを吸引した場合、皮膚と同じように呼吸器や肺が大きく損傷を受けてしまい、呼吸を行うことができなくなります。実際にマスタードガスを吸引して亡くなる人の主な死因は呼吸器の損傷による呼吸困難のようです。

\次のページで「2-2.マスタードガスが身体と起こす化学反応」を解説!/

2-2.マスタードガスが身体と起こす化学反応

マスタードガスがこのような恐ろしい症状を引き起こす理由を考えるため、マスタードガスが身体に入った後の様子を調べてみましょう。人の身体も原子、分子からできた化学物質であるためマスタードガスと人の身体で「化学反応」が起こります。この化学反応によって人の身体に被害が生じてしまうのです。

マスタードガスは炭素原子の割合が多く、油となじみやすい「疎水性」と呼ばれる性質を持っています。疎水性の物質は皮膚から吸収されやすい傾向があり、人の身体はマスタードガスが触れても弾くことはできません。そして身体に入ったマスタードガスは体内で末端の塩素を外します。この塩素が外れたマスタードガスの反応性は非常に高く、体内で細胞やタンパク質などを攻撃、その結果人体に大きな損傷を与えてしまうのです。

2-3.マスタードガスは発がん性物質

マスタードガスが体内で攻撃する対象はタンパク質や細胞だけではなく、より小さい視点で見るとDNAやRNAなども攻撃します。DNAを攻撃することでがんが引き起こされることが確認されており、マスタードガスは発がん性物質の一つです。

海外では今でもマスタードガスによる皮膚や呼吸器、目の損傷の後遺症に苦しむ人やマスタードガスの接触によるがんの発症で苦しんでいる人は多くいます。

3.マスタードガスをヒントに作られた初期の抗がん剤

image by iStockphoto

これまでマスタードガスが人体に取り込まれた後の化学反応を学び、マスタードガスは体内で塩素原子が外れてタンパク質などを攻撃するため有害であるということを学びました。この攻撃対象をがん細胞に絞ることができたらがんの治療になるのではないか、その考えのもとに生まれたのが初期の抗がん剤です。

薬学者の研究によってマスタードガスの硫黄原子を窒素に置き換えることで正常な細胞への攻撃力を下げて、かつがん細胞への攻撃力は維持できることがわかりました。この化合物は「ナイトロミン」という名前で販売され、初期の抗がん剤として利用されてきました。

一方でナイトロミンも正常な細胞を攻撃してしまうため、副作用はゼロではありません。そのため、今ではナイトロミンのような「アルキル化剤」と呼ばれる抗がん剤以外の、身体に掛かる負担が少ない薬の開発が進められています。

毒ガスを作るのも薬を作るのも化学に携わる人や団体の倫理次第

マスタードガスは皮膚や肺などの体の組織を破壊する恐ろしい兵器です。このようなガスが生まれ、戦争で大量に使われてしまったことを私たちは忘れてはいけません。一方で抗がん剤のようにマスタードガスがなぜ身体に悪いのか、という毒性を理解することで身体にとって有益な薬を生み出すこともできます。

化学反応は毒も薬も生み出すことが可能です。だからこそ化学に携わる一人ひとりが適切な倫理観を持って研究、開発を行い、人々の生活をより豊かにしていくものを作り出していきたいものですね。

イラスト使用元:いらすとや

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化学有機化合物理科

3分で簡単にわかる「マスタードガス」毒性や症状も京大卒の研究者がわかりやすく解説!

2-2.マスタードガスが身体と起こす化学反応

マスタードガスがこのような恐ろしい症状を引き起こす理由を考えるため、マスタードガスが身体に入った後の様子を調べてみましょう。人の身体も原子、分子からできた化学物質であるためマスタードガスと人の身体で「化学反応」が起こります。この化学反応によって人の身体に被害が生じてしまうのです。

マスタードガスは炭素原子の割合が多く、油となじみやすい「疎水性」と呼ばれる性質を持っています。疎水性の物質は皮膚から吸収されやすい傾向があり、人の身体はマスタードガスが触れても弾くことはできません。そして身体に入ったマスタードガスは体内で末端の塩素を外します。この塩素が外れたマスタードガスの反応性は非常に高く、体内で細胞やタンパク質などを攻撃、その結果人体に大きな損傷を与えてしまうのです。

2-3.マスタードガスは発がん性物質

マスタードガスが体内で攻撃する対象はタンパク質や細胞だけではなく、より小さい視点で見るとDNAやRNAなども攻撃します。DNAを攻撃することでがんが引き起こされることが確認されており、マスタードガスは発がん性物質の一つです。

海外では今でもマスタードガスによる皮膚や呼吸器、目の損傷の後遺症に苦しむ人やマスタードガスの接触によるがんの発症で苦しんでいる人は多くいます。

3.マスタードガスをヒントに作られた初期の抗がん剤

image by iStockphoto

これまでマスタードガスが人体に取り込まれた後の化学反応を学び、マスタードガスは体内で塩素原子が外れてタンパク質などを攻撃するため有害であるということを学びました。この攻撃対象をがん細胞に絞ることができたらがんの治療になるのではないか、その考えのもとに生まれたのが初期の抗がん剤です。

薬学者の研究によってマスタードガスの硫黄原子を窒素に置き換えることで正常な細胞への攻撃力を下げて、かつがん細胞への攻撃力は維持できることがわかりました。この化合物は「ナイトロミン」という名前で販売され、初期の抗がん剤として利用されてきました。

一方でナイトロミンも正常な細胞を攻撃してしまうため、副作用はゼロではありません。そのため、今ではナイトロミンのような「アルキル化剤」と呼ばれる抗がん剤以外の、身体に掛かる負担が少ない薬の開発が進められています。

毒ガスを作るのも薬を作るのも化学に携わる人や団体の倫理次第

マスタードガスは皮膚や肺などの体の組織を破壊する恐ろしい兵器です。このようなガスが生まれ、戦争で大量に使われてしまったことを私たちは忘れてはいけません。一方で抗がん剤のようにマスタードガスがなぜ身体に悪いのか、という毒性を理解することで身体にとって有益な薬を生み出すこともできます。

化学反応は毒も薬も生み出すことが可能です。だからこそ化学に携わる一人ひとりが適切な倫理観を持って研究、開発を行い、人々の生活をより豊かにしていくものを作り出していきたいものですね。

イラスト使用元:いらすとや

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