悪質な震災手形が日本経済を混乱させる
悪質な震災手形の大部分が貿易商社である鈴木商店のもの。鈴木商店は、戦争特需による貿易で事業を拡大させていました。しかし、戦争が終わったことで特需が終了。経営状態が著しく悪化し、震災とは関係なく決済不能の状態になっていました。
そこで政府の補償制度を利用しようとしたことから処理が混乱。本当に猶予や補償が必要な被災企業が対象外となるケースが多発しました。鈴木商店の手形の問題が明らかになり、最終的に鈴木商店は倒産するに至りました。
関東大震災後に行われた防災の対応
関東大震災による被害の拡大は防災に対する意識を変えるきっかけとなります。現在の日本でも適用されている「耐震基準」が整備されたのもこのころ。木造住宅の密集地の延焼を防ぐために大規模な区画整理もおこなわれました。
建物の耐震基準が定められる
大正時代、都市部を中心に大規模な建築物が建てられるようになっていたましたが、その大部分がレンガ造り。揺れに弱く、倒壊による被害が続出しました。そのようななか、日本興業銀行本店の建物は倒壊を回避。耐震構造に対する関心が高まっていきます。
震災前から建築物に関する法整備が進められていましたが、震災の翌年の大正13年に耐震基準がはじめて規定されることに。昭和25年に制定された建築基準法の元になります。耐震基準を満たした建物として主婦の友社本社が竣工。洋風アパートである御茶ノ水文化アパートが続きます。
火災の延焼を防ぐために区画整理を実施
都市部を中心に木造家屋の密集地帯があったことで延焼。多数の犠牲者が出てしまいました。そこで災害時に火災が起こったとき、それが燃え広がることを避けるため、大規模な区画整理を実施します。
ここで主張されたのが「不燃化」という概念。街並みの随所に、燃えにくい建物、公園、道路などを差しはさんで延焼を防ぐ街づくりが推奨されました。さらに、震災で損傷した橋も一新。建築家を多数雇用して、デザイン性あふれる橋が新たにかけられます。
関東大震災の重要性は今も変わらない
関東大震災は昔に起こった出来事のように思われがち。当時の記憶がある人も少なくなりました。しかしながら、未曽有の震災に見舞われたとき、避難などの行動のとり方、メディア情報との向き合い方、その後に起こりうる経済の混乱など、多くの教訓を残しています。そこで、関東大震災を過去のことと思わず、現在も続く問題として考えてみるのもいいでしょう。