関東大震災は大正12年9月に発生した地震災害のこと。震災の被害にはいろいろなパターンがある。この震災の特徴は火災が家屋に燃え広がり多数の死者が出たことです。今でも大きな地震が起こるたびに関東大震災の話が引用されるほど、忘れがたい過去として記憶されている。

関東大震災の震源、余震の影響、その後の防災政策など、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。東日本大震災のときは茨城県で被災。当時、津波の被害を伝える映像を見て恐怖を感じたことを覚えている。かつて関東エリアを襲った関東大震災は私たちにどんな教訓を残したのだろうか。被害が広がった原因や復興の過程をまとめてみた。

関東大震災の全体像

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関東大震災が起こったのは大正12年9月1日。発生時間は11時58分32秒ごろとされています。お昼どきに発生したこともあり火災も発生。延焼により被害が広がりました。

関東全域に被害をもたらした大地震

関東大震災の被害がおよんだ地域はおもに東京と神奈川。そのほか、茨城や千葉など関東全域、さらには静岡にも影響が及びました。関東大震災は、内陸部だけではなく沿岸にも広がるなど、エリアをまたいで影響が出たことが特徴です。

被害とひとことで言っても、その内容はさまざま。揺れによる倒壊に加え、津波、火災、列車事故など、複数の被害がからみあって広がりました。大正時代は大規模な洋館が増加。そのような様式を採用していた官公庁、大学、デパートなどの建物が倒壊します。

東日本大震災以前の最大規模の被害

関東大震災は、東日本大震災が平成23年に発生する以前の、最大規模の被害をもたらした地震災害とされています。地震が直撃したのが政府機能が集中している東京。官公庁の建物自体が被害にあっていることから、一時期は政府機能が麻痺したと言われています。

地震が発生する8日前、内閣総理大臣であった加藤友三郎が偶然にも亡くなっていました。そのため外務大臣が内閣総理大臣を兼務している状況。震災当日は兼務のまま対応、次の日に海軍大将である山本権兵衛が内閣総理大臣に就任しました。

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関東大震災発生時の避難の状況

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不明 - 『1億人の昭和史11 昭和への道程―大正』(1976年、毎日新聞社), パブリック・ドメイン, リンクによる

関東大震災が発生したときはちょうどお昼どき。昼食を準備している家庭が多かったこともあり、地震発生直後は大混乱となりました。住みかを失った人々はバラックで寝泊まり。治安が悪くなるなど社会不安にもおそわれます。

公園は瞬く間にバラックで埋め尽くされる

現在の東京23区に相当するのが東京市。このエリアは関東大震災により約6割の家屋が被害を受けました。そのため多数の被災者が集団避難地に移動することに。当時の非難所は、もっとも多いのが寺社、続いて学校が指定されました。

最初は陸軍から借りたテントに避難し、徐々にバラックが建てられていきました。とくに大量のバラックが出現したのが日比谷公園や明治神宮。小学校にも小規模なバラックが建てられました。

軍隊が救援活動や治安維持に取り組む

各地に出現したバラックに殺到した避難民は密集した状態で生活することに。そのため瞬く間に避難所の治安が悪化しました。避難民同士でいさかいが多発するのみならず、犯罪者が紛れ込むようになります。

治安悪化に対応するために軍隊が出動することも。避難所の治安悪化を解消するために自治体は段階的にバラックの撤去を開始します。義援金などを活用して、代わりに小さな住宅を建てて避難民を住まわせました。

関東大震災がもたらした被害の概略

本所石原方面大旋風之真景,帝都大震災画報.jpg
浦野銀次郎 - 古物商より入手, CC0, リンクによる

関東大震災の被害は関東全域に及びましたが、死亡者や行方不明者が占めているのは東京府と神奈川県。とくに被害が集中したのは震源地に近かった神奈川県でした。

被害が集中した神奈川県の状況

神奈川県は、地震の振動により建物が激しく倒壊。そのほか、震源の断層があったことから液状化現象による地盤沈下が各所で多発しました。山間部では崖崩れ、沿岸部では津波による被害に見舞われました。

とくに津波被害が大きかったのが鎌倉市由比ヶ浜。津波の高さは9メートルに達するところもありました。その結果、津波による行方不明者は300人ほど。千葉県館山市、静岡県熱海市も同様に津波の被害が出ました。

千葉の房総半島は地殻変動の痕跡あり

関東大震災の被害が広がった理由として、火を使う家庭が多いお昼どきだったこと、そして当日に強風が吹き荒れていたことが挙げられます。とくに房総半島の風が強く、津波の高さは10メートルを超えました。

房総半島は歴史的に大規模な地震に見舞われやすく、地殻変動がたびたび生じてています。関東大震災のときも同様。南房総市では東西4キロに渡って地表面が最大で2メートルずれたことが分かっています。

関東大震災の主な被害は火災

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関東大震災でもっとも揺れた地域は震度7。これまで発生した地震災害では、倒壊、津波、火災など、集中した被害の傾向が異なりました。関東大震災は、とくに火災の被害が大きかったことで知られています。

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お昼だったことが被害拡大の要因

関東で地震が発生したのは土曜日の午後。大部分の家庭ではお昼ご飯のために火を使っていました。このとき使用されていたのがかまどと七輪。地震の揺れにより家屋が倒壊したあと、かまどや七輪の火が燃え広がっていきました。

関東大震災の被害者は10万人を越えます。そのうち火災に巻き込まれた人は9万人強。87%に相当すると言われています。とくに延焼が目立ったのが木造住宅の密集地帯。大学や研究所の化学薬品が発火したケースも多々ありました。

台風の接近による強風も影響

地震発生後の火災は強風により拡大した一面もあります。このときの強風の原因は、能登半島あたりに接近していた台風。当時の天気図によると、台風の勢力はそれほど大きくなかったようですが、関東全域に風が吹き荒れていました。

台風の接近による強風に加え、災害時に都市部で起こる火災旋風も被害を広げます。大規模な火災が起きると一気に酸素を消費。それにより竜巻のような現象が起きました。火災旋風により命を落とした被害者も多かったと思われます。

関東大震災のときのメディアの対応

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関東大震災のときの主要なメディアは新聞。情報が混乱したこともあり虚報を連発。それにより暴動やパニックが拡大しました。

朝鮮人関連の虚報が目立つ

関東大震災の時期は虚報やデマが広がりましたが、とくに深刻だったのが朝鮮人関連。朝鮮人が暴動を起こしている、不穏な動きを見せているなど報道。それにより、罪がない朝鮮人や、間違われた日本人が被害にあいました。

実際に暴動があったのかは不明。そのため虚報を流したメディアの関係者の一部が免職等になります。政府はメディアに対して朝鮮人関係の報道をしないように取り決めました。

海外に対する発信は無線が活躍

関東大震災後、日本は海外から経済的・救護物資支援を受けます。このとき状況を海外に伝えるときに活躍したのが長波無線。とくに多額の支援をおこなったのがアメリカとは電話はつながらず長波無線によりやりとりしました。

このとき海外と通信できる設備を備えていたのは福島県にある電信局のみ。そこからアメリカに送った情報が、中国で準備中だった電信設備でたまたま受信します。それによりアメリカおよびヨーロッパに情報を伝えられました。

関東大震災後の日本経済

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関東大震災が起こったのは第一次世界大戦後。日本は戦争の特需景気だったものの、戦後に欧米諸国がアジア市場に過剰、景気が冷え込んでいきます。そのようななか起こった関東大震災。日本経済は大打撃を受けました。

大量の震災手形が発生

関東大震災後の日本経済を暗転させたもののひとつが震災手形。支払いができなくなった手形について政府は補償する方針を打ち出しました。被災企業や個人の手形の支払い期限を1か月猶予。決済ができなくなることを懸念し、さらなる猶予や補償を認めました。

しかしながら、もともと戦後不況で経営が悪化していた企業の手形も数多く紛れ込む自体に。日本銀行は、最大で1億円の補償する予定でしたが、最終的に4億円を超える金額を補填しなければいけない状況に陥りました。

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悪質な震災手形が日本経済を混乱させる

悪質な震災手形の大部分が貿易商社である鈴木商店のもの。鈴木商店は、戦争特需による貿易で事業を拡大させていました。しかし、戦争が終わったことで特需が終了。経営状態が著しく悪化し、震災とは関係なく決済不能の状態になっていました。

そこで政府の補償制度を利用しようとしたことから処理が混乱。本当に猶予や補償が必要な被災企業が対象外となるケースが多発しました。鈴木商店の手形の問題が明らかになり、最終的に鈴木商店は倒産するに至りました。

関東大震災後に行われた防災の対応

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関東大震災による被害の拡大は防災に対する意識を変えるきっかけとなります。現在の日本でも適用されている「耐震基準」が整備されたのもこのころ。木造住宅の密集地の延焼を防ぐために大規模な区画整理もおこなわれました。

建物の耐震基準が定められる

大正時代、都市部を中心に大規模な建築物が建てられるようになっていたましたが、その大部分がレンガ造り。揺れに弱く、倒壊による被害が続出しました。そのようななか、日本興業銀行本店の建物は倒壊を回避。耐震構造に対する関心が高まっていきます。

震災前から建築物に関する法整備が進められていましたが、震災の翌年の大正13年に耐震基準がはじめて規定されることに。昭和25年に制定された建築基準法の元になります。耐震基準を満たした建物として主婦の友社本社が竣工。洋風アパートである御茶ノ水文化アパートが続きます。

火災の延焼を防ぐために区画整理を実施

都市部を中心に木造家屋の密集地帯があったことで延焼。多数の犠牲者が出てしまいました。そこで災害時に火災が起こったとき、それが燃え広がることを避けるため、大規模な区画整理を実施します。

ここで主張されたのが「不燃化」という概念。街並みの随所に、燃えにくい建物、公園、道路などを差しはさんで延焼を防ぐ街づくりが推奨されました。さらに、震災で損傷した橋も一新。建築家を多数雇用して、デザイン性あふれる橋が新たにかけられます。

関東大震災の重要性は今も変わらない

関東大震災は昔に起こった出来事のように思われがち。当時の記憶がある人も少なくなりました。しかしながら、未曽有の震災に見舞われたとき、避難などの行動のとり方、メディア情報との向き合い方、その後に起こりうる経済の混乱など、多くの教訓を残しています。そこで、関東大震災を過去のことと思わず、現在も続く問題として考えてみるのもいいでしょう。

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大正現代社会

3分で分かる「関東大震災」当時の被害やその後の影響を元大学教員が開設

関東大震災は大正12年9月に発生した地震災害のこと。震災の被害にはいろいろなパターンがある。この震災の特徴は火災が家屋に燃え広がり多数の死者が出たことです。今でも大きな地震が起こるたびに関東大震災の話が引用されるほど、忘れがたい過去として記憶されている。

関東大震災の震源、余震の影響、その後の防災政策など、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。東日本大震災のときは茨城県で被災。当時、津波の被害を伝える映像を見て恐怖を感じたことを覚えている。かつて関東エリアを襲った関東大震災は私たちにどんな教訓を残したのだろうか。被害が広がった原因や復興の過程をまとめてみた。

関東大震災の全体像

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関東大震災が起こったのは大正12年9月1日。発生時間は11時58分32秒ごろとされています。お昼どきに発生したこともあり火災も発生。延焼により被害が広がりました。

関東全域に被害をもたらした大地震

関東大震災の被害がおよんだ地域はおもに東京と神奈川。そのほか、茨城や千葉など関東全域、さらには静岡にも影響が及びました。関東大震災は、内陸部だけではなく沿岸にも広がるなど、エリアをまたいで影響が出たことが特徴です。

被害とひとことで言っても、その内容はさまざま。揺れによる倒壊に加え、津波、火災、列車事故など、複数の被害がからみあって広がりました。大正時代は大規模な洋館が増加。そのような様式を採用していた官公庁、大学、デパートなどの建物が倒壊します。

東日本大震災以前の最大規模の被害

関東大震災は、東日本大震災が平成23年に発生する以前の、最大規模の被害をもたらした地震災害とされています。地震が直撃したのが政府機能が集中している東京。官公庁の建物自体が被害にあっていることから、一時期は政府機能が麻痺したと言われています。

地震が発生する8日前、内閣総理大臣であった加藤友三郎が偶然にも亡くなっていました。そのため外務大臣が内閣総理大臣を兼務している状況。震災当日は兼務のまま対応、次の日に海軍大将である山本権兵衛が内閣総理大臣に就任しました。

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