ポルトガルとスペインが先陣を切った大航海時代。中国の先にある日本は莫大な富が眠る黄金の国と考えられていた。東方を目指したところアメリカに到達したことは有名な話です。探検の目的はオスマン帝国が支配する地中海を経由せずにスパイスを手に入れること。

当時のアジアの位置づけや、アメリカ大陸に到達する経緯など、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカ文化を専門とする元大学教員。大航海時代は、香辛料をめぐる貿易戦争、キリスト教の布教、アメリカの植民地化など、さまざまな歴史的出来事とリンクする。そこで大航海時代におけるヨーロッパの勢力拡大の経緯について調べてみた。

大航海時代とは?

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大航海時代とは、15世紀から17世紀にかけてヨーロッパ諸国があたらしい航路を開拓するために積極的に海に出た時代のこと。ヨーロッパ世界あるいはキリスト教世界を拡大させ、アジア、アフリカ、南北アメリカの植民地化を加速させていきました。

ヨーロッパ人による航路開拓が行われた時代

大航海時代の初期を牽引したのがポルトガルとスペイン。ふたつは勢力的にライバル関係にありました。そこで両国は、それぞれがスポンサーとなり探検隊に多額の資金を提供。それを元手にコロンブスのような探検家が海を渡ったのです。

スペインとポルトガルの勢いがなくなったあとは、オランダ、イギリス、フランスが大航海時代を牽引しました。当初は、金銀などの財宝を見つける、輸出・輸入のルートを開拓する、キリスト教の布教拠点を構築することが目的。それが徐々に、植民地として特定のエリアを支配するようになりました。

大航海時代で「発見」という言葉はNG

大航海時代について話すとき、これまで知られていなかったものを「発見」したという前提がありました。ここで「発見」という言葉を使うと、ヨーロッパの探検家が上陸する前から、その地で暮らしていた先住民の存在を無視することに。「発見」という表現は、ヨーロッパ側の目線によるものであり適切ではありません。

そのため現在は、大航海時代について語るとき「発見」と言うことはNG。アメリカ大陸に向かう航路を開拓した、インド洋をまわる航路を開拓したと表現されることが増えてきました。もしくは、勢力を拡大させたという意味で、ヨーロッパ世界の拡大と言うことも増えてきました。

大航海時代をもたらしたのは輸出・輸入の促進

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大航海時代は、探検家の夢とロマンが詰まっているイメージがあります。しかし実際のところは、輸出や輸入の促進を通じて利益を得たいという思惑がありました。輸出入の障壁となっているオスマン帝国の影響を避けるため、アジアに直接行ける海路を開拓するようになります。

アジアの香辛料が一大ブームとなったヨーロッパ

中世のヨーロッパでは肉は炙って食べるのが基本。調理方法のバリエーションはそれほど豊富ではありませんでした。そのようななか、ハーブや香辛料を多用する肉料理が大ブームになります。そこでニーズが高まったのがアジアの香辛料でした。

人気があった香辛料は、コショウ、ターメリック、ナツメグ、シナモンなど。香辛料を肉にすりこんで焼いたり、そのままなめたりしました。香辛料はアジアにある楽園のスパイスと考えられ、その刺激が楽しまれたのです。

オスマン帝国の興隆により交易ルート開拓が不可欠に

インドなどのアジアで栽培されているスパイスはヨーロッパにほとんど自生していませんでした。一部、栽培するケースはあったものの、収穫量が少なく高価になる傾向が。そのためアジア諸国との取引が必須だったのです。

しかしながら、ヨーロッパ諸国がアジアと輸出・輸入の取り引きをする場合、オスマン帝国の領土を通過する必要がありました。そこで要求されたのが多額の関税。そのためヨーロッパ諸国は、オスマン帝国を避けて海からアジアに行こうと考えました。

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大航海時代を牽引した探検家たち

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大航海時代は、多数の探検家や船員が海を渡りましたが、そのなかにも何人かの象徴的な人物が存在します。探検隊が目指したのはインドやその先にある日本。思い通りに事は進まず、結果としてあちらこちらの航路が開拓されました。

エンリケ航海王子が西アフリカに到達

エンリケは、ポルトガル王の王子であり、大航海時代の重要なパトロンのひとり。世界史の教科書では、実際に航海したように書かれていることもありますが、彼はあくまで探検事業家。実際に船に乗って航海することはありませんでした。

エンリケの資金の多くは、彼もメンバーであったキリスト騎士団により提供されたもの。キリスト教の布教も彼の航海熱を高めました。エンリケが派遣した探検隊が成功したのが西アフリカ探検。ボハドル岬の先には世界の果てがあるという迷信が打ち破られました。

喜望峰を経由したインド洋航路が開拓される

現在の南アフリカの都市ケープタウンから南へ延びるケープ半島の端っこにあるのが喜望峰。1488年にポルトガルの探検家であるバルトロメウ・ディアスが到達しました。このときの航路の開拓は、インドへ向かう香辛料の貿易ルートを一気に短縮させることに貢献します。

ディアスは、荒れ狂う海域の様子から嵐の岬と命名しました。しかしながら香辛料をもたらす夢のルートだったことから、のちにポルトガル王が希望の岬と改名。英語表記はCape of Good Hopeですが、日本では喜望峰という呼び名が定着しています。

大航海時代のシンボルとなった「新大陸発見」

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大航海時代のクライマックスのひとつが「新大陸発見」。アメリカ大陸に初期に上陸した人のひとりが、ジェノヴァ商人だったクリストファー・コロンブスです。コロンブスは、西回りのインド航路を開拓するためにスペインの支援を受けて航海に出ました。

ここで「新大陸発見」とカッコつきで書いていることには明確な理由があります。アメリカ大陸はコロンブスが来る前から存在。先住民が昔から住んでいました。そのため「新しい」「発見」という言葉はNG。今では教科書から消えつつある表現です。

インドとアメリカ大陸を間違えたコロンブス

コロンブスはアメリカ大陸に上陸したことで知られていますが、彼が探していたのは西回りのインド航路。そのためコロンブスは自分が上陸したのはインドだと信じていました。そのためカリブ海域に浮かぶ島々は西インド諸島と呼ばれるようになります。

インドとアメリカを間違えたものの、アメリカ大陸の金や銀に目をつけて先住民を虐殺。略奪行為を繰り返しました。そのため当初は英雄とされたものの、本国におけるコロンブスの評判は下がり出し、後期の航海は貧しいものでした。

南北アメリカ大陸がヨーロッパの支配下に

大航海時代の中盤を超えると、ポルトガルとスペインの力が弱まり、イギリス、フランス、オランダが勢力を増します。とくに力が入れられたのが北アメリカ探検。スペインは南アメリカの植民地経営に力を入れていたため、北アメリカは手薄な状態でした。

南アメリカの「発見者」とされるのがコロンブス。一方、北アメリカの「発見者」と言われているのがイタリア人のジョン・ガボットです。ガボットは、イギリスの支援を受けて航海を開始。カナダ東南岸やアメリカ東海岸に到達し、イギリスによる植民地化に貢献しました。

大航海時代の船乗りたちの食事

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大航海時代、船乗りたちは本当に行きつけるのか分からない状態で海に出ます。現在のように食品の保存方法が確立していないため、食糧事情は過酷なものでした。そこで船乗りたちはどんな食事をしていたのか、健康事情なども踏まえて解説します。

塩分とアルコールによる健康被害が続出

豊富な資金が提供されている場合、生きている家畜や新鮮な肉魚を船に積み、それを食べながら航海することもありました。しかしながら鮮度がいい食べ物があるのは最初の数日間のみ。基本的には塩漬けにした肉や魚を食べていましたが、最後にはウジ虫が湧いて腐敗します。

また、船に水が積まれたものの、新鮮な状態で飲めるのは最初のほうだけ。保存がきくお酒が主な飲料となりました。最初はビールやワインが中心。アメリカ大陸のサトウキビが入ってからはラム酒が飲まれるようになりました。

野菜不足により壊血病が流行

もともとヨーロッパでは野菜を積極的に食べる習慣がありませんでした。船のうえでは野菜不足がさらに深刻化。ビタミン不足により肌が弱くなり、体のあらゆるところから出血する壊血病が流行します。ヴァスコ・ダ・ガマの船では170人中100人が壊血病で命を落としました。

当時は原因不明の病気として恐れられることに。そこで大航海時代は壊血病をいかに防ぐのかが課題となり、いろいろな実験が行われます。効果を発揮したのが塩漬けにしたキャベツ。イギリスのクック船長が、このザワークラウトが壊血病の予防になることを発見します。

大航海時代が世界各国に与えた影響

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By François-Auguste Biard - 1. Originally from en.wikipedia; description page is/was here 2. The Bridgeman Art Library, Object 112033, Public Domain, Link

大航海時代によりヨーロッパの強国があらゆるところに上陸。植民地化する、拠点をつくることで、世界のありようを一気に変えました。勢力を拡大させるのみならず、各国の文化や風習を変えていきました。

ヨーロッパ諸国による植民地政策が確立

大航海時代がもたらした変化が世界の植民地化。北アメリカは主にイギリスの植民地となり、アフリカやカリブから黒人奴隷を連行し、プランテーション経営を本格化させていきました。アマゾン川流域に豊富な資源持つ南アメリカはスペインやポルトガルの支配圏となります。

砂糖の産地であるインドは、フランスと長らく争ったのちイギリスの植民地となりました。アフリカは、イギリス、フランス、オランダなどに占有され、主にダイアモンドの産地が狙われます。東南アジアもイギリスやフランスが植民地化。このように世界は大航海時代から植民地時代に突入しました。

種子島到達を契機に日本交易も開始

日本もまた大航海時代の影響を受けた国のひとつ。1543年にポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲が伝えられます。さらに1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本にやってきてキリスト教の布教を開始しました。

ポルトガルとの南蛮貿易は日本の食文化や生活習慣を大きく変えることに。ポルトガルは銀を得るために、鉄砲、火薬、時計、ガラスなどで取引します。イエズス会の影響力に危機感を感じた江戸幕府は、ポルトガルを締め出してオランダと交易を開始、鎖国政策を開始するに至りました。

大航海時代は世界の一体化を加速させたのか?

大航海時代を通じて、ヨーロッパ世界で知られていなかった大陸や航路の存在が明らかになり、世界の一体化を加速させたとも言われています。そのため、大航海時代をグローバル化のはじまりと表現されることも。たしかに大航海時代により、地球上の大陸や島々が把握され、見渡せるようになったことは事実。しかし、ヨーロッパ諸国が次々と植民地化することで、世界を分断させたことも忘れてはなりません。それから長く続く植民地支配と各国の独立の流れを合わせて見ることで、大航海時代の意味をより深く理解できるようになるでしょう。

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世界史

3分でわかる!「大航海時代」とは?航路開拓や植民地化の流れも元大学教員が簡単にわかりやすく解説

ポルトガルとスペインが先陣を切った大航海時代。中国の先にある日本は莫大な富が眠る黄金の国と考えられていた。東方を目指したところアメリカに到達したことは有名な話です。探検の目的はオスマン帝国が支配する地中海を経由せずにスパイスを手に入れること。

当時のアジアの位置づけや、アメリカ大陸に到達する経緯など、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカ文化を専門とする元大学教員。大航海時代は、香辛料をめぐる貿易戦争、キリスト教の布教、アメリカの植民地化など、さまざまな歴史的出来事とリンクする。そこで大航海時代におけるヨーロッパの勢力拡大の経緯について調べてみた。

大航海時代とは?

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大航海時代とは、15世紀から17世紀にかけてヨーロッパ諸国があたらしい航路を開拓するために積極的に海に出た時代のこと。ヨーロッパ世界あるいはキリスト教世界を拡大させ、アジア、アフリカ、南北アメリカの植民地化を加速させていきました。

ヨーロッパ人による航路開拓が行われた時代

大航海時代の初期を牽引したのがポルトガルとスペイン。ふたつは勢力的にライバル関係にありました。そこで両国は、それぞれがスポンサーとなり探検隊に多額の資金を提供。それを元手にコロンブスのような探検家が海を渡ったのです。

スペインとポルトガルの勢いがなくなったあとは、オランダ、イギリス、フランスが大航海時代を牽引しました。当初は、金銀などの財宝を見つける、輸出・輸入のルートを開拓する、キリスト教の布教拠点を構築することが目的。それが徐々に、植民地として特定のエリアを支配するようになりました。

大航海時代で「発見」という言葉はNG

大航海時代について話すとき、これまで知られていなかったものを「発見」したという前提がありました。ここで「発見」という言葉を使うと、ヨーロッパの探検家が上陸する前から、その地で暮らしていた先住民の存在を無視することに。「発見」という表現は、ヨーロッパ側の目線によるものであり適切ではありません。

そのため現在は、大航海時代について語るとき「発見」と言うことはNG。アメリカ大陸に向かう航路を開拓した、インド洋をまわる航路を開拓したと表現されることが増えてきました。もしくは、勢力を拡大させたという意味で、ヨーロッパ世界の拡大と言うことも増えてきました。

大航海時代をもたらしたのは輸出・輸入の促進

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大航海時代は、探検家の夢とロマンが詰まっているイメージがあります。しかし実際のところは、輸出や輸入の促進を通じて利益を得たいという思惑がありました。輸出入の障壁となっているオスマン帝国の影響を避けるため、アジアに直接行ける海路を開拓するようになります。

アジアの香辛料が一大ブームとなったヨーロッパ

中世のヨーロッパでは肉は炙って食べるのが基本。調理方法のバリエーションはそれほど豊富ではありませんでした。そのようななか、ハーブや香辛料を多用する肉料理が大ブームになります。そこでニーズが高まったのがアジアの香辛料でした。

人気があった香辛料は、コショウ、ターメリック、ナツメグ、シナモンなど。香辛料を肉にすりこんで焼いたり、そのままなめたりしました。香辛料はアジアにある楽園のスパイスと考えられ、その刺激が楽しまれたのです。

オスマン帝国の興隆により交易ルート開拓が不可欠に

インドなどのアジアで栽培されているスパイスはヨーロッパにほとんど自生していませんでした。一部、栽培するケースはあったものの、収穫量が少なく高価になる傾向が。そのためアジア諸国との取引が必須だったのです。

しかしながら、ヨーロッパ諸国がアジアと輸出・輸入の取り引きをする場合、オスマン帝国の領土を通過する必要がありました。そこで要求されたのが多額の関税。そのためヨーロッパ諸国は、オスマン帝国を避けて海からアジアに行こうと考えました。

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