突然ですがラボアジエという人物を知ってるか?

高校で化学の勉強をしていると「聞いたことはあるけど…」という感じでしょうか。この人物は近代化学の父とも呼ばれ「すべての物質は元素から構成される」という考え方を始めて提唱した人物です。質量保存の法則でも有名です。

そんな彼の人生と業績について国立大学の理系出身で環境科学を学び、学生時代世界史も得意だったライターNaohiroが一緒に解説していきます。

ライター/Naohiro

国立大学の理系出身で環境科学を専攻していた。学生時代は世界史も得意で、特にラボアジエの生きた近世ヨーロッパ史にも詳しい。

1. ラボアジエって誰?何をした人?

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ラボアジエというのは一体誰で、何をした人なのでしょう。この記事ではラボアジエの人生とその業績について解説していきますね。

1-1. アントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジエ

David - Portrait of Monsieur Lavoisier (cropped).jpg
ジャック=ルイ・ダヴィッド - メトロポリタン美術館, online database: entry 436106 (accession number: 1977.10), パブリック・ドメイン, リンクによる

ラボアジエのフルネームはアントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier)といいます。日本語ではラボアジェとかラヴォアジエと表記されることもありますが以下ラボアジエとしますね。ラボアジエは1743年8月26日フランス王国パリで、裕福な法律家(弁護士)の子として生まれました。

image by Study-Z編集部

その後彼は化学、植物学、天文学、数学を学んだ後パリ大学法学部に進学、弁護士試験に合格しています。その後科学者の活動も行いつつ1768年から市民から税金の取り立てを行う徴税請負人の仕事を開始、その後四元素説とフロギストン説の打破、質量保存の法則の発見、33元素の提唱といった目覚ましい活躍を遂げていくのです。

1-2. ラボアジエの生きた時代

Grand Royal Coat of Arms of France & Navarre.svg
Sodacan, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

次にラボアジエが生きた時代についてみていきましょう。ラボアジエが生きたフランス王国は1589年から1792年まで続いたブルボン朝時代の後期で、対外戦争に対して出兵することで膨大な軍事費を課税で賄うことで市民のフランス王国に対する不満がピークに達している時期でもありました。その結果1789年フラン革命が起こり、その結果ラボアジエは後述の通り不遇な最後を遂げることとなるのです。

また、彼と同時代を生きた科学者としてはイギリスの牧師で化学者のジョセフ・プリーストリー(Joseph Priestley)がいました。彼は気体の研究を主とし、酸素の発見者でもあったのでラボアジエに大きな影響を与えました。また18世紀最大の数学者と言われているジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange)も同じ時代、王妃マリー・アントワネットの数学教師を行っていたことでも有名です。

\次のページで「2. ラボアジエの業績」を解説!/

2. ラボアジエの業績

さてそんな18世紀のフランスを生きたラボアジエですが、彼のあげてきた大きく4つにわけることができます。それは四元素(しげんそ)説の打破フロギストン説(熱素説)の打破質量保存の法則の発見、そして『化学物質の命名法』『化学要論』における化学物質の命名法の確立と33元素の提唱です。一つずつみていきましょう。

2-1. 四元素説の打破

Eléments Zones1 ja.jpg
MICCAgo - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

四元素説(しげんそせつ)というのはすべてのものは土・水・空気(風)・火の4つの要素から成り立つという考えで、なんと紀元前の古代ギリシア時代から1700年以上経ったラボアジエの時代でも多くの科学者たちに信じられていたのです。それに疑問をもったのが1768年、当時まだ25歳になったばかりのラボアジエでした。

四元素説を信じる科学者たちは水を長い間沸騰させると沈殿物が生じることから、熱せられた水は土に変わると考えていたのです。そこでラボアジエはガラス容器に入れた水を101日間熱しました。その結果沈殿物は確かに生じたのですが、沈殿物が生じた分だけガラス容器の重さも減っていることに気が付きいたのです。そこから水が沈殿物(土)に変わるという四元素説の矛盾を突くことで、1700年以上も人々が信じてきた常識を覆したのですね。

2-2. フロギストン説(熱素説)の打破

フロギストン説というのはドイツの医師であったゲオルク・エルンスト・シュタールが1697年の著書『化学の基礎』で確立した理論で、燃焼をつかさどる元素としてフロギストン(phlogiston)が存在するということが当時ほとんどの科学者達に信じられていました。フロギストンの考え方を簡単に示すと次のようになります。

金属 → 金属灰 + フロギストン

木炭 →  灰  + フロギストン

金属灰というのは鉄が燃焼して(さびて)酸化鉄になるイメージをもってもらうとわかりやすいと思いますが、ここで大きな疑問がわいてしまいます。それは金属灰がもとの金属よりも重くなる、つまり金属の燃焼ではマイナスの重量のフロギストンが発生するということになるのです。その矛盾に疑問をもったラボアジエは1772年頃から燃焼の実験を始めます。その実験内容は密閉したガラス容器の中で、集光レンズを使ってダイヤモンドとスズをそれぞれ燃焼させたのです。

実験の結果ダイヤモンドとスズどちらの密閉容器も加熱の前後で全体の重さは変わらなかったのですが、スズを加熱した容器のフタを開けたところ金属の中からフロギストンが飛び出すのとは逆に「空気中の何か」をスズが吸収して加熱前よりも重くなりました。こうして「空気中の何か」を証明することで70年以上信じられていたフロギストン説を打破するに至ったのです。

2-3. 質量保存の法則の発見

2-3. 質量保存の法則の発見

image by Study-Z編集部

フロギストン説を覆した時の実験でガラス容器を含む全体の重さがまったく変わらなかったことはまさに質量保存の法則を示していましたが、当時まだ気体の正体は掴みきれていない状態でした。そんな中ラボアジエは1774年にパリを訪問していた気体の研究者で酸素の発見者として知られていたイギリスの化学者プリーストリーと会い話をする機会を得ました。

ラボアジエはプリーストリーとの会話の中で燃焼反応における酸素の重要性に直ちに気が付き、空気が燃焼に役立つ気体(酸素)と燃焼に役立たない気体(窒素)で成り立っているということに気が付きます。そして燃焼や金属さびの生成が酸素との化合つまりは酸化にほかならないことを明らかにしたのです。

\次のページで「2-4. 化学物質の命名法の確立と33個の元素の提唱」を解説!/

2-4. 化学物質の命名法の確立と33個の元素の提唱

ラボアジエと同じ時代のプリーストリー、イギリスのキャベンディッシュ(水素の燃焼で水ができることを発見)の活躍もあり気体の正体が徐々にわかり始めていたことを背景に、1787年に『化学物質の命名法』により例えば食塩を塩化ナトリウムと呼ぶ今でも使われる命名法を、1789年に『化学要論』の中でそれまでの理論を体系的にまとめ当時知られていた33の元素を表にまとめました

もっともこの元素表の中には光やカロリック(熱素)が含まれていたりマグネシウム、アルミニウム、ケイ素、カルシウム、バリウムが全て酸化物として掲載されるといった間違いはありましたがその後の化学の発展に大きく寄与したことは疑いようもありません。

3. ラボアジエの最後

Marie Antoinette Execution.jpg
不明 - private collection of de:Benutzer:Henryart, パブリック・ドメイン, リンクによる

以上化学において多大なる貢献を果たしたラボアジエですが、貴族として裕福な家庭に生まれたにも関わらず実験の費用は自らの稼ぎから捻出するという考えをもっていました。そのために彼は市民から税の取り立てを行う徴税請負人という仕事をしていたことが原因で1794年5月8日、「共和国は科学者を必要としない」として彼はギロチンにかけられることとなりました。当時ロベスピエールをはじめとしたジャコバン派による恐怖政治が展開されたのはテルミドール9日のクーデターが起こる1794年7月27日まででしたので、たった2ヶ月半の差でフランスはその世界最高の頭脳を失うこととなってしまったのです。

同じくフランスを生きた天才数学者、天文学者であるジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange)はラボアジエの死を嘆いてこう言いました。「彼の頭を打ち落とすにはほんの一瞬の時間しか必要ではなかったが、彼と同じ頭脳を生み出すには100年以上を必要とするであろう」と。ラボアジエの死を惜しんだフランス人は、彼の死から2年後にその胸像を建て、盛大な葬儀を執り行うことで彼の偉業をしのんだのです。

壮絶な最後を迎えた近代化学の父ラボアジエ

アントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier)は1743年8月26日フランス王国(当時)パリ出身の貴族で、化学者です。

彼は精密な測定による実験に強い興味を抱きギリシア時代から続く四元素説とフロギストン説(燃素説)の打破、質量保存の法則の発見、『化学要論』における化学物質の命名法の確立と33個の元素の提唱といった輝かしい実績を残しました。

しかし徴税請負人という仕事をしていたこと、当時の恐怖政治の真っただ中にあったことで若干50歳という若さで処刑されこの世を去ることとなったのです。

イラスト使用元:いらすとや

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化学原子・元素物質の状態・構成・変化理科

3分で簡単「ラボアジエ」!近代化学の父の壮絶な最後とは?理系ライターがわかりやすく解説

突然ですがラボアジエという人物を知ってるか?

高校で化学の勉強をしていると「聞いたことはあるけど…」という感じでしょうか。この人物は近代化学の父とも呼ばれ「すべての物質は元素から構成される」という考え方を始めて提唱した人物です。質量保存の法則でも有名です。

そんな彼の人生と業績について国立大学の理系出身で環境科学を学び、学生時代世界史も得意だったライターNaohiroが一緒に解説していきます。

ライター/Naohiro

国立大学の理系出身で環境科学を専攻していた。学生時代は世界史も得意で、特にラボアジエの生きた近世ヨーロッパ史にも詳しい。

1. ラボアジエって誰?何をした人?

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ラボアジエというのは一体誰で、何をした人なのでしょう。この記事ではラボアジエの人生とその業績について解説していきますね。

1-1. アントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジエ

David - Portrait of Monsieur Lavoisier (cropped).jpg
ジャック=ルイ・ダヴィッドメトロポリタン美術館, online database: entry 436106 (accession number: 1977.10), パブリック・ドメイン, リンクによる

ラボアジエのフルネームはアントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier)といいます。日本語ではラボアジェとかラヴォアジエと表記されることもありますが以下ラボアジエとしますね。ラボアジエは1743年8月26日フランス王国パリで、裕福な法律家(弁護士)の子として生まれました。

image by Study-Z編集部

その後彼は化学、植物学、天文学、数学を学んだ後パリ大学法学部に進学、弁護士試験に合格しています。その後科学者の活動も行いつつ1768年から市民から税金の取り立てを行う徴税請負人の仕事を開始、その後四元素説とフロギストン説の打破、質量保存の法則の発見、33元素の提唱といった目覚ましい活躍を遂げていくのです。

1-2. ラボアジエの生きた時代

次にラボアジエが生きた時代についてみていきましょう。ラボアジエが生きたフランス王国は1589年から1792年まで続いたブルボン朝時代の後期で、対外戦争に対して出兵することで膨大な軍事費を課税で賄うことで市民のフランス王国に対する不満がピークに達している時期でもありました。その結果1789年フラン革命が起こり、その結果ラボアジエは後述の通り不遇な最後を遂げることとなるのです。

また、彼と同時代を生きた科学者としてはイギリスの牧師で化学者のジョセフ・プリーストリー(Joseph Priestley)がいました。彼は気体の研究を主とし、酸素の発見者でもあったのでラボアジエに大きな影響を与えました。また18世紀最大の数学者と言われているジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange)も同じ時代、王妃マリー・アントワネットの数学教師を行っていたことでも有名です。

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