
ローマの新しい都市計画

国境の防御を強化する一方、ハドリアヌスは人口増加と経年劣化で整備が必要になったローマのために、解放奴隷のアエリウス・フレゴンに新しい都市計画を立てさせました。
そして、ローマ市内にあったパンテオン神殿(万神殿)を再建。パンテオン神殿はローマ神話の神々を祀る重要な神殿です。現在のローマに残るパンテオン神殿は、ハドリアヌスに再建されたものなんですよ。
さらに、ローマに女神ウェヌスと女神ローマを祀る古代ローマ最大の「ウェヌスとローマ神殿」の設計図を自ら制作し、造営を開始します。ローマはふたりの女神に守られているという一種の強調でもありました。ウェヌスとローマ神殿が完成したのはハドリアヌスの次の皇帝「アントニヌス・ピウス」の時代。アントニヌス・ピウスもまたハドリアヌスの実子ではありませんでした。彼はハドリアヌスの死後に、ハドリアヌスを神格化するように元老院に訴えたことから、「敬虔なアントニヌス(アントニヌス・ピウス)」と呼ばれるようになったのです。
エルサレムをローマ風にしてユダヤ戦争勃発
ハドリアヌスはギリシャ文化にも通じた文化人といわれています。当時、彼は荒廃していたアテネ(ギリシャ)の復興に乗り出し、そこで600年間完成されていなかったゼウス神殿を完全な姿にしました。その功績はアテネの人々から敬われ、ハドリアヌスを称える「ハドリアヌスの凱旋門」がアテネの東側に建設されます。
ローマ帝国内を旅した皇帝ハドリアヌス。しかし、その旅がすべて受け入れられるものだったわけではありません。ギリシャのゼウス神殿を完成させた一方で、彼はエルサレムでは真反対のことを行ったのです。
それは131年のこと。ハドリアヌスは属州になっていたエルサレムをローマ風の都市に作り替えようとしてヤハウェ神殿を破壊してしました。ヤハウェ神殿を破壊されたユダヤ人たちは大激怒し、彼らの反乱を招いてしまいます。
この反乱は「バル・コクバの乱」と呼ばれ、非常に大規模な戦いになったのです。バル・コクバの乱を鎮圧するため、ハドリアヌスはローマの大軍を投入。多くの犠牲を払うことになったのでした。おまけに、戦いでエルサレムは廃墟となり、このためにユダヤ人たちの離散が進んでしまういます。
晩年のハドリアヌスの大きな苦悩はユダヤ人との戦争だけではありません。先帝トラヤヌスと同じように、ハドリアヌスにも実子がおらず、さらに最初に後継者に有力視していた人物も彼よりも先に亡くなってしまいます。翌年にようやく南フランス出身の執政官・アントニウス・ピウスを養子に迎えたときはほっとしたことでしょうね。
そうして、138年、62歳のハドリアヌスは別荘で亡くなったのでした。
戦争から国内安定へ路線変更を行った皇帝
先帝トラヤヌスからローマ帝国を引き継いだ「ハドリアヌス」。彼は反乱の火が冷めやらぬローマ国内の状況を鑑みて、古くからおこなわれてきた領土拡大戦争をやめることにしました。そうして、国内の安定へと路線を変更し、広すぎるローマの維持に努めます。
自らの足で広大なローマ国内を旅したハドリアヌスは、各地に防壁を築いて他国との防衛線を強化するなどローマの外へも鋭く目を光らせました。また、ローマの新たな都市計画を立て、パンテオン神殿、ウェヌスとローマ神殿を建造。そして、アテネのゼウス神殿の完成なども行っています。その一方で、エルサレムではヤハウェ神殿を壊してユダヤ人の反感を買うなど、すべてうまくいっていたわけではありません。
しかし、ハドリアヌスは軍人としての活躍に、皇帝となってからは多くの建築物を残した多彩な人物でした。