
先帝トラヤヌスとハドリアヌス
五賢帝時代となり、二代目皇帝となった「トラヤヌス」。彼は軍人出身の皇帝であり、皇帝となってなお領土拡大の戦争を続けました。そうして、トラヤヌスが60歳を越えたころ、113年に東のパルティア(古代イラン王朝)へ遠征します。トラヤヌスがパルティアとの戦争に勝った結果、ローマの領土はメソポタミアの南部まで拡大し、ローマ帝国は最大領土となりました。
しかし、このパルティア戦争の帰り道の途中でトラヤヌスは病没してしまいます。このとき、実子のいないトラヤヌスは死の直前に「プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス(以下ハドリアヌス)」を次の皇帝に指名しました。
しかし、この指名には疑惑は付きまといます。というのも、トラヤヌスの遺言を聞いたのは、彼の皇后・ポンペイア。ハドリアヌスは彼女が支援する男性だったのです。たとえトラヤヌスが違う人物の名前を言ったとしても、ポンペイアはそれを握りつぶして自分が推すハドリアヌスを皇帝にしてしまうことができた、ということですね。
疑惑がありつつ、しかし、ハドリアヌスは軍隊の支持を受けて五賢帝時代三人目の皇帝として権力を把握しました。
ハドリアヌス最初の仕事「戦争中止」
トラヤヌスと同じく、ハドリアヌスは軍人出身の皇帝で、皇帝となる前は軍人としてガリアやギリシアなどの戦地を転々と渡り歩いてきた歴戦の猛者です。その経緯を聞くと、彼もまたトラヤヌスと同じように戦争を続けそうなものですよね。しかし、彼はその真逆。
ハドリアヌスが最初に行った仕事は、ローマとパルティアの戦争を中止することでした。ハドリアヌスは兵たちを帰国させ、さらにトラヤヌスが奪ったメソポタミアをパルティアは返還したのです。
せっかくローマのものとなった土地を、なぜハドリアヌスは返してしまったのでしょうか。それは、ローマの領地があまりにも広くなってしまったからです。
先帝トラヤヌス以前にも、戦争によってローマは着々と領土を増やしてきました。先述した通り、北はイングランドから、西のイベリア半島、南はエジプト、そして東のメソポタミアまでのあまりに広大すぎる領土を有してきたのです。
これだけ広いと、ローマ本国から国境まではとんでもない距離になりますよね。現代と違って、古代のローマにはインターネットや電話なんて便利なものはありません。なので、いざ敵国が攻めてきたときに、そのことを知らせる情報も、対応の通達も遅くなってしまいます。さらに、そんな広大な領土のなかで支配されている属州の方々で一斉に反乱を起こしたとしら、もう手の付けようがありません。
ハドリアヌスはそうした最悪事態を防ぎ、ローマ全土にきちんと統治を行き渡らせるために、領土拡大戦争の中止を選択したのでした。そうして、現在治めている領土と属州を維持、安定させることに力を注ぐことにしたのです。
強固な防衛戦を築く

ハドリアヌスは軍人時代から各地を転々とる日々をおくっていましたが、威厳ある皇帝に即位したのちに何度も大きな旅行を行ってローマ帝国領土、属州のほぼすべてを訪れました。彼は視察の旅で現地の兵士たちの訓練を見学し、自ら訓練を指示をしたといわれています。
また、ハドリアヌスが行ったローマの平和を維持する政策のひとつとして、彼は外からやってくる侵略者に対して防衛力の強化を指示しました。そうして外敵の脅威が高い土地には防壁が築かれたのです。
対ゲルマン人対策に築かれたライン川、ドナウ川の防壁や、アフリカなど、ハドリアヌスはさまざまな場所に防壁を築きました。防壁のなかでも、カレドニア人との戦いが続いていたブリテン島北部にハドリアヌス自らの指示でつくられた防壁が「ハドリアヌスの長城」です。当時、たくさんの防壁がつくられましたが、この「ハドリアヌスの長城」は現在まで残り続け、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
\次のページで「ローマの新しい都市計画」を解説!/