古代のヨーロッパで繁栄したローマ帝国、その最も安定した時期が「五賢帝」の時代です。そのなかでも「ハドリアヌス」は領土拡大戦争をやめてローマ国内の安定に努めた特別な皇帝として高い評価を得ている。
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「ハドリアヌス」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回の記事は古代ローマ帝国皇帝のひとり「ハドリアヌス」についてまとめた。

1.地中海世界を支配したローマ帝国

Roman Empire Trajan 117AD.png
Tataryn - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ハドリアヌスを解説する前に、まずはローマ帝国についてさらっと説明していきましょう。

イングランドからメソポタミアまで

まずはなんといっても、その広大な領土です。ローマは古くから強力な軍事力を背景に領土を獲得し、五賢帝の一人「トラヤヌス」の代に最大領土となりました。その領土は、イングランド・ウェールズのブリタニア、属州ガリア、エジプト、アフリカ北岸、小アジア、シリア、メソポタミア、イベリア半島にまで及んだのです。

地中海世界の平和をもたらす大国

アウグストゥスがローマに元首政を確立した紀元前27年から、五賢帝の時代までの約200年間を「ローマによる平和(パックス・ロマーナ)」といいました。これはローマが地中海周辺の国々を属州にし、またローマの政治事体が安定したことで支配地域に安定をもたらしたことによります。

安定した五賢帝の時代はローマ帝国の最盛期となったのです。

共和政から元首政へ移行

ローマが帝国となり、ヨーロッパに君臨する前のローマの政治は「共和政治」。最初こそ「執政官(コンスル)」を中心にした貴族共和政でした。けれど、やがて市民だけで構成する「平民会」と、そこから選出された「護民官」が置かれ、執政官や元老院の決定を拒否できる権利を持つようになます。つまり、ローマの政治は貴族のみの共和政から市民が参加できる共和政国家となったんですね。

また、このふたつとは別に貴族から選出された「元老院」という機関がありました。元老院は執政官の諮問機関でしたが、しかし、時代が進むにつれて元老院の影響力が大きくなり、そのうちに元老院は外交、財政などの決定権を持ったローマの統治機関となったのです。

その政治形態を変えたのが紀元前1世紀に登場した「ユリウス・カエサル」でした。カエサルは軍事力を背景に元老院を抑え「独裁官(ディクタトル)」となります。「独裁官」の字の通り、政治はカエサルの独裁となり、従来の共和政が失われていきました。

しかし、もともと共和政のもとに生まれてきたローマ市民たちはカエサルの独裁を許せません。そうして、カエサルは不満を抱いた反カエサル派の人々によって暗殺されてしまったのです。

カエサルを暗殺したまではいいのですが、しかし、このころになると政治を主導するはずだった元老院にその力は残っていませんでした。その代りとなったのが、カエサルの後継者争いを勝ち抜いた「アウグストゥス」です。アウグストゥスはローマの初代皇帝となり、共和政を下敷きにしつつ、元首(皇帝)を頂点とする「元首政(プリンキパトゥス)」という新しい政治形態をつくりました。

ローマの最盛期「五賢帝時代」

アウグストゥスから時代を下った96年から180年までの約100年間を「五賢帝時代」といいます。その名前の通り、この時代はネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの五人の賢帝によって治められた時代です。五人の優れた皇帝たちによって安定し、さらにローマ帝国は最大領土となった、ローマ帝国の最盛期でした。

前27年のアウグストゥスから、五賢帝の時代の終わりまでの約200年間、ローマ帝国が支配する地中海世界の平和を指して「ローマによる平和(パクス・ロマーナ)」といいます。

今回のテーマとなる「ハドリアヌス」はこの五賢帝のひとりです。

2.ローマ帝国の安定をもたらすハドリアヌス

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ここからはいよいよハドリアヌスについて詳しい解説をしていきます。

\次のページで「先帝トラヤヌスとハドリアヌス」を解説!/

先帝トラヤヌスとハドリアヌス

五賢帝時代となり、二代目皇帝となった「トラヤヌス」。彼は軍人出身の皇帝であり、皇帝となってなお領土拡大の戦争を続けました。そうして、トラヤヌスが60歳を越えたころ、113年に東のパルティア(古代イラン王朝)へ遠征します。トラヤヌスがパルティアとの戦争に勝った結果、ローマの領土はメソポタミアの南部まで拡大し、ローマ帝国は最大領土となりました。

しかし、このパルティア戦争の帰り道の途中でトラヤヌスは病没してしまいます。このとき、実子のいないトラヤヌスは死の直前に「プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス(以下ハドリアヌス)」を次の皇帝に指名しました。

しかし、この指名には疑惑は付きまといます。というのも、トラヤヌスの遺言を聞いたのは、彼の皇后・ポンペイア。ハドリアヌスは彼女が支援する男性だったのです。たとえトラヤヌスが違う人物の名前を言ったとしても、ポンペイアはそれを握りつぶして自分が推すハドリアヌスを皇帝にしてしまうことができた、ということですね。

疑惑がありつつ、しかし、ハドリアヌスは軍隊の支持を受けて五賢帝時代三人目の皇帝として権力を把握しました

ハドリアヌス最初の仕事「戦争中止」

トラヤヌスと同じく、ハドリアヌスは軍人出身の皇帝で、皇帝となる前は軍人としてガリアやギリシアなどの戦地を転々と渡り歩いてきた歴戦の猛者です。その経緯を聞くと、彼もまたトラヤヌスと同じように戦争を続けそうなものですよね。しかし、彼はその真逆。

ハドリアヌスが最初に行った仕事は、ローマとパルティアの戦争を中止することでした。ハドリアヌスは兵たちを帰国させ、さらにトラヤヌスが奪ったメソポタミアをパルティアは返還したのです。

せっかくローマのものとなった土地を、なぜハドリアヌスは返してしまったのでしょうか。それは、ローマの領地があまりにも広くなってしまったからです。

先帝トラヤヌス以前にも、戦争によってローマは着々と領土を増やしてきました。先述した通り、北はイングランドから、西のイベリア半島、南はエジプト、そして東のメソポタミアまでのあまりに広大すぎる領土を有してきたのです。

これだけ広いと、ローマ本国から国境まではとんでもない距離になりますよね。現代と違って、古代のローマにはインターネットや電話なんて便利なものはありません。なので、いざ敵国が攻めてきたときに、そのことを知らせる情報も、対応の通達も遅くなってしまいます。さらに、そんな広大な領土のなかで支配されている属州の方々で一斉に反乱を起こしたとしら、もう手の付けようがありません。

ハドリアヌスはそうした最悪事態を防ぎ、ローマ全土にきちんと統治を行き渡らせるために、領土拡大戦争の中止を選択したのでした。そうして、現在治めている領土と属州を維持、安定させることに力を注ぐことにしたのです

3.ハドリアヌスの建築

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次にハドリアヌスの建築についてみていきましょう。

強固な防衛戦を築く

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ハドリアヌスは軍人時代から各地を転々とる日々をおくっていましたが、威厳ある皇帝に即位したのちに何度も大きな旅行を行ってローマ帝国領土、属州のほぼすべてを訪れました。彼は視察の旅で現地の兵士たちの訓練を見学し、自ら訓練を指示をしたといわれています。

また、ハドリアヌスが行ったローマの平和を維持する政策のひとつとして、彼は外からやってくる侵略者に対して防衛力の強化を指示しました。そうして外敵の脅威が高い土地には防壁が築かれたのです。

対ゲルマン人対策に築かれたライン川、ドナウ川の防壁や、アフリカなど、ハドリアヌスはさまざまな場所に防壁を築きました。防壁のなかでも、カレドニア人との戦いが続いていたブリテン島北部にハドリアヌス自らの指示でつくられた防壁が「ハドリアヌスの長城」です。当時、たくさんの防壁がつくられましたが、この「ハドリアヌスの長城」は現在まで残り続け、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

\次のページで「ローマの新しい都市計画」を解説!/

ローマの新しい都市計画

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国境の防御を強化する一方、ハドリアヌスは人口増加と経年劣化で整備が必要になったローマのために、解放奴隷のアエリウス・フレゴンに新しい都市計画を立てさせました。

そして、ローマ市内にあったパンテオン神殿(万神殿)を再建。パンテオン神殿はローマ神話の神々を祀る重要な神殿です。現在のローマに残るパンテオン神殿は、ハドリアヌスに再建されたものなんですよ。

さらに、ローマに女神ウェヌスと女神ローマを祀る古代ローマ最大の「ウェヌスとローマ神殿」の設計図を自ら制作し、造営を開始します。ローマはふたりの女神に守られているという一種の強調でもありました。ウェヌスとローマ神殿が完成したのはハドリアヌスの次の皇帝「アントニヌス・ピウス」の時代。アントニヌス・ピウスもまたハドリアヌスの実子ではありませんでした。彼はハドリアヌスの死後に、ハドリアヌスを神格化するように元老院に訴えたことから、「敬虔なアントニヌス(アントニヌス・ピウス)」と呼ばれるようになったのです。

エルサレムをローマ風にしてユダヤ戦争勃発

ハドリアヌスはギリシャ文化にも通じた文化人といわれています。当時、彼は荒廃していたアテネ(ギリシャ)の復興に乗り出し、そこで600年間完成されていなかったゼウス神殿を完全な姿にしました。その功績はアテネの人々から敬われ、ハドリアヌスを称える「ハドリアヌスの凱旋門」がアテネの東側に建設されます。

ローマ帝国内を旅した皇帝ハドリアヌス。しかし、その旅がすべて受け入れられるものだったわけではありません。ギリシャのゼウス神殿を完成させた一方で、彼はエルサレムでは真反対のことを行ったのです。

それは131年のこと。ハドリアヌスは属州になっていたエルサレムをローマ風の都市に作り替えようとしてヤハウェ神殿を破壊してしました。ヤハウェ神殿を破壊されたユダヤ人たちは大激怒し、彼らの反乱を招いてしまいます。

この反乱は「バル・コクバの乱」と呼ばれ、非常に大規模な戦いになったのです。バル・コクバの乱を鎮圧するため、ハドリアヌスはローマの大軍を投入。多くの犠牲を払うことになったのでした。おまけに、戦いでエルサレムは廃墟となり、このためにユダヤ人たちの離散が進んでしまういます。

晩年のハドリアヌスの大きな苦悩はユダヤ人との戦争だけではありません。先帝トラヤヌスと同じように、ハドリアヌスにも実子がおらず、さらに最初に後継者に有力視していた人物も彼よりも先に亡くなってしまいます。翌年にようやく南フランス出身の執政官・アントニウス・ピウスを養子に迎えたときはほっとしたことでしょうね。

そうして、138年、62歳のハドリアヌスは別荘で亡くなったのでした

戦争から国内安定へ路線変更を行った皇帝

先帝トラヤヌスからローマ帝国を引き継いだ「ハドリアヌス」。彼は反乱の火が冷めやらぬローマ国内の状況を鑑みて、古くからおこなわれてきた領土拡大戦争をやめることにしました。そうして、国内の安定へと路線を変更し、広すぎるローマの維持に努めます。

自らの足で広大なローマ国内を旅したハドリアヌスは、各地に防壁を築いて他国との防衛線を強化するなどローマの外へも鋭く目を光らせました。また、ローマの新たな都市計画を立て、パンテオン神殿、ウェヌスとローマ神殿を建造。そして、アテネのゼウス神殿の完成なども行っています。その一方で、エルサレムではヤハウェ神殿を壊してユダヤ人の反感を買うなど、すべてうまくいっていたわけではありません。

しかし、ハドリアヌスは軍人としての活躍に、皇帝となってからは多くの建築物を残した多彩な人物でした。

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イタリアヨーロッパの歴史ローマ帝国世界史古代ローマ

3分で簡単「ハドリアヌス」なぜ領土拡大戦争中止した?歴史オタクがわかりやすく解説!

古代のヨーロッパで繁栄したローマ帝国、その最も安定した時期が「五賢帝」の時代です。そのなかでも「ハドリアヌス」は領土拡大戦争をやめてローマ国内の安定に努めた特別な皇帝として高い評価を得ている。
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「ハドリアヌス」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回の記事は古代ローマ帝国皇帝のひとり「ハドリアヌス」についてまとめた。

1.地中海世界を支配したローマ帝国

Roman Empire Trajan 117AD.png
Tataryn投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ハドリアヌスを解説する前に、まずはローマ帝国についてさらっと説明していきましょう。

イングランドからメソポタミアまで

まずはなんといっても、その広大な領土です。ローマは古くから強力な軍事力を背景に領土を獲得し、五賢帝の一人「トラヤヌス」の代に最大領土となりました。その領土は、イングランド・ウェールズのブリタニア、属州ガリア、エジプト、アフリカ北岸、小アジア、シリア、メソポタミア、イベリア半島にまで及んだのです。

地中海世界の平和をもたらす大国

アウグストゥスがローマに元首政を確立した紀元前27年から、五賢帝の時代までの約200年間を「ローマによる平和(パックス・ロマーナ)」といいました。これはローマが地中海周辺の国々を属州にし、またローマの政治事体が安定したことで支配地域に安定をもたらしたことによります。

安定した五賢帝の時代はローマ帝国の最盛期となったのです。

共和政から元首政へ移行

ローマが帝国となり、ヨーロッパに君臨する前のローマの政治は「共和政治」。最初こそ「執政官(コンスル)」を中心にした貴族共和政でした。けれど、やがて市民だけで構成する「平民会」と、そこから選出された「護民官」が置かれ、執政官や元老院の決定を拒否できる権利を持つようになます。つまり、ローマの政治は貴族のみの共和政から市民が参加できる共和政国家となったんですね。

また、このふたつとは別に貴族から選出された「元老院」という機関がありました。元老院は執政官の諮問機関でしたが、しかし、時代が進むにつれて元老院の影響力が大きくなり、そのうちに元老院は外交、財政などの決定権を持ったローマの統治機関となったのです。

その政治形態を変えたのが紀元前1世紀に登場した「ユリウス・カエサル」でした。カエサルは軍事力を背景に元老院を抑え「独裁官(ディクタトル)」となります。「独裁官」の字の通り、政治はカエサルの独裁となり、従来の共和政が失われていきました。

しかし、もともと共和政のもとに生まれてきたローマ市民たちはカエサルの独裁を許せません。そうして、カエサルは不満を抱いた反カエサル派の人々によって暗殺されてしまったのです。

カエサルを暗殺したまではいいのですが、しかし、このころになると政治を主導するはずだった元老院にその力は残っていませんでした。その代りとなったのが、カエサルの後継者争いを勝ち抜いた「アウグストゥス」です。アウグストゥスはローマの初代皇帝となり、共和政を下敷きにしつつ、元首(皇帝)を頂点とする「元首政(プリンキパトゥス)」という新しい政治形態をつくりました。

ローマの最盛期「五賢帝時代」

アウグストゥスから時代を下った96年から180年までの約100年間を「五賢帝時代」といいます。その名前の通り、この時代はネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの五人の賢帝によって治められた時代です。五人の優れた皇帝たちによって安定し、さらにローマ帝国は最大領土となった、ローマ帝国の最盛期でした。

前27年のアウグストゥスから、五賢帝の時代の終わりまでの約200年間、ローマ帝国が支配する地中海世界の平和を指して「ローマによる平和(パクス・ロマーナ)」といいます。

今回のテーマとなる「ハドリアヌス」はこの五賢帝のひとりです。

2.ローマ帝国の安定をもたらすハドリアヌス

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