
たえず自省を続けた皇帝
五賢帝最後の皇帝となった「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」。
彼はスペイン生まれのストア派の哲学者で、『自省録』という著作を書き残しました。この著作には主に彼自身の内面について書かれており、皇帝となってからも人間としての生き方を忘れず、たえず自省を続けた人物だったことがわかります。
パルティアとゲルマン人との戦い
アントニヌス・ピウスの時代は比較的平和だったものの、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの代になると東方のパルティアの動きが活発化してきます。パルティアは再びアルメニアに侵攻し、ローマは応戦することに。165年にパルティアとの戦争に勝ったものの、ここでは新しく領土を得ることはできず、それどころか東方から疫病を持ち帰ってしまいます。
なにひとつ得られないまま終戦したかと思うと、翌年にはローマの守りが手薄になったところを突いたゲルマン人の侵攻がはじまりました(マルコマンニ戦争)。しかし、この戦いにローマ軍は苦戦、各地で敗戦を重ねてしまいます。
一時は形勢逆転して戦いを治めますが、その後に再燃したゲルマン民族を抑えるためにマルクス・アウレリウス・アントニヌスが陣中に赴いた際に、滞在先のウィンドボナ(現在のウィーン)で病没してしまいました。
暴君コモンドゥス
マルクス・アウレリウス・アントニヌスの崩御後、帝位を継いだのは実子「コンモドゥス」でした。それまで有能な人物を養子にしていましたが、ここにきて帝位が世襲制になったのです。
しかし、賢帝だった父と違い、新帝コンモドゥスは次第に独裁的な政治を行うようになり、暴君としてローマに君臨しました。そのために、たいへん憎まれて最後には暗殺されてしまうのです。
ローマを安定させた賢帝たち
ネルウァの即位からはじまり、マルクス・アウレリウス・アントニヌスまでの五人を「五賢帝」と呼びます。その名にふさわしく、五人の皇帝たちはさまざまな方法でローマに繁栄と安定をもたらそうとしました。皇帝たちそれぞれの努力があったからこそローマは最盛期を迎えられたのです。