
疑惑の即位
トラヤヌスに子どもはなく、また生前に養子の指名をしていませんでした。死の間際になってから「ハドリアヌス」を後継者に指名したとされています。しかし、トラヤヌスの遺言を聞いたのは皇后のポンペイアで、彼女はかねてよりハドリアヌスの支援者でした。そのため、本当にトラヤヌスがハドリアヌスを指名したのかは当時より疑われていたといいます。
そんな疑惑を持つ五賢帝時代三人目の皇帝「ハドリアヌス」もまた、トラヤヌスと同じ属州ヒスパニア出身の軍人でした。即位以前はガリア(現在のフランス、ベルギーあたり)、シリア、ギリシャなどの戦地での芳しい功績を持ちます。
広大な領土を維持するのは困難
即位してハドリアヌスが最初に行ったのは、トラヤヌスが行ったパルティアとの戦争の中止です。彼は戦地から兵士たちを引き上げて、さらにはメソポタミアをパルティナに返還しました。
なぜ、ハドリアヌスは領土を諦めてしまったのでしょうか?
――それは、ローマがあまりにも広大になりすぎたからだ、と言われています。
トラヤヌスの代に最大となったローマの領土は、東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリテン島にまで及びました。これだけの領土の治安を維持する労力は計り知れません。まして、属州とした地域に反乱が起これば、鎮圧のために兵士を派遣したりと、人もお金も必要なのです。
現に、トラヤヌスが東でパルティア戦争をしたかと思えば、今度は東地中海の各地でユダヤ教徒の反乱(キトス戦争)とメソポタミアでも反乱が同時期に起こりましたよね?広大なローマのあちこちで一斉に反乱や、他国の侵攻が始まれば前線を維持することが困難になってしまいます。きちんとした統治を行き渡らせるのに、ローマは広くなりすぎてしまったんですね。
そういうわけで、ハドリアヌスはそれまでの領土拡張方針から一転して、現在の領土と属州を維持することに専念することにしました。また、メソポタミアを放棄したことで東方の国境を安定させることに成功しています。
ローマ中を旅した皇帝

即位する以前から戦地を転々としていたハドリアヌスでしたが、皇帝になってからもローマ国内を旅してまわります。その形跡はローマ帝国内に広く残され、ブリテン島、北アフリカ、小アジアにイスパニアと各地にありました。
なかでもブリテン島の属州ブリタニアには、視察に訪れたハドリアヌスの指示で島の北方に住むケルト人に備えた「ハドリアヌスの長城」が築かれます。他の地域にも防壁は建造されましたが、ハドリアヌスの長城は現代にも残り、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
また、ハドリアヌスは荒廃したアテネ(ギリシャ)の復興に取り掛かります。そこで600年間も未完成のままだったゼウス神殿を完成させたことでアテネの人々から敬われ、彼の功績を称える「ハドリアヌスの凱旋門」が建設されました。
このようなハドリアヌスは視察旅行でローマ帝国内をくまなく歩き、その結果、多くの都市とローマを結ぶ道路がつくられ、各地にローマの文化が広がったのです。現代でもイギリス各地にはローマ時代の浴場や競技場の遺跡が残されています。
しかし、良いことばかりではありません。ハドリアヌスがエルサレムにローマ風の都市にしたため、ユダヤ人の反発を買い、バル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)に発展しています。戦いはローマの勝利に終わりましたが、ローマ側の犠牲も大きく、エルサレムも廃墟となってしまったのです。

即位に疑惑はあったものの、ハドリアヌスは戦争による領土拡大方針をやめて国内に目を向けた。それで各地を視察してインフラ整備や都市の造営に勤め、平和的な国家運営を行ったんだな。
問題の起こらなかった治世
ハドリアヌスの養子となり、次の皇帝となった「アントニヌス・ピウス」。彼はフランス出身の貴族で元老院の有力議員でした。
50歳で皇帝となったアントニヌス・ピウスが治めた23年間は、問題が起こらなかったとされています。
けれど、実際に何も起こらなかったわけではありません。アントニヌス・ピウスは自分から戦争をしかけなかったのですが、北アフリカの反乱やユダヤ人、エジプト人の反抗はしっかり対応しましたし、ハドリアヌスの長城のさらに北に「アントニヌスの長城」を築くなど皇帝としての仕事はしています。
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