古代ローマ帝国の「コンスタンティヌス1世」はキリスト教を公認した最初の皇帝として有名です。「ミラノ勅令」「ミケーネ公会議」はヨーロッパ史上のキーワードとなっているぞ。しかし、コンスタンティヌスのすごいところはそれだけじゃない。
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「ハドリアヌス」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回の記事は古代ローマ帝国皇帝のひとり「コンスタンティヌス1世」についてまとめた。

1.二つに分かたれたローマ帝国

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今回のテーマは古代ローマ帝国の「コンスタンティヌス1世」。その解説に入る前にローマ帝国についての時代背景をみていきましょう。

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「三世紀の危機」の到来

紀元前より領土を拡大し続け、地中海一帯を掌中に収めたローマ帝国。その領地は広大で、最盛期の五賢帝の時代にはイングランド・ウェールズのブリタニア、属州ガリア、エジプト、アフリカ北岸、小アジア、シリア、メソポタミア、イベリア半島にまで及びます。

しかし、盛者必衰とはよく言ったもので、いかに強大なローマ帝国とは言え、衰退はつきもの。五賢帝時代が終わると、ローマ各地で「自分こそが皇帝である」と名乗るものが現れ、帝位を巡る争いが起こりました。そして、その戦いを勝ち抜いた「セティウス・セウェルス」が193年に皇帝となり、セウェルス朝の支配が始まります。ところが、疫病や反乱によるローマ軍の人手不足や、ローマ市民権拡大によってますますローマ帝国は弱体化していくことに。

そうして、ローマ帝国の力が衰えたことで「三世紀の危機」と呼ばれる動乱の時代が訪れたのでした。

軍人皇帝ディオクレティアヌス

内紛が続いたことにより、235年にセウェルス朝最後の皇帝が暗殺されてしまいました。セウェルス朝が断絶したことで、軍団が推薦する軍人が皇帝につく「軍人皇帝」の時代が到来します。軍人皇帝の力は皇帝を推薦した軍団の力に左右され、しかも、たった一年から二年ほどで皇帝が暗殺されるという不安定な状況が続きました。簡単に皇帝が入れ替わるような状況下では、ローマ皇帝の権威は低下していくばかり。そんな時代に現れたのが、「ディオクレティアヌス」でした。

ディオクレティアヌスはカリヌス帝を倒して即位すると、これまでの政治を覆す大仕事に取り掛かったのです。まず、改革を機にアウグストゥスの時代から行われてきた「元首政(プリンキパトゥス)」から「専制君主制(ドミナートゥス)」へと切り替えます。

ディオクレティアヌスは「専制君主制」によって皇帝を神として崇拝するよう人々に強要しました。それを強く拒絶したのがキリスト教徒たちです。そのため、ディオクレティアヌスは最大のキリスト教迫害を行いました。

四分統治制でローマを二分

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改革を進めたディオクレティアヌスは、ついには広大なローマ帝国を二分して、東西のそれぞれに皇帝と副帝で治める「四分統治制(テトラルキア)」を開始します。こうすることで、帝国内の反乱や外敵の侵攻に対して素早く行動できるようにしたのです。

その上で、ディオクレティアヌス自身は東の皇帝となり、実質的な決定権と独裁権は彼が持つようにしました。あとの三人の皇帝・副帝たちはディオクレティアヌスの代わりに統治をするだけの存在です。四分統治制は権力を一人に集中しつつ、国家の防衛に鋭敏に対応できる良い政策だと思われました。ところが、ディオクレティアヌスが崩御すると、四人の皇帝が互いにローマ帝国の主導権を主張したことで内紛に発展してしまいます。

その内紛を勝ち抜き、のちにローマを再統一したのが「コンスタンティヌス1世」でした

2.ローマを再び一つにしたコンスタンティヌス

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では、コンスタンティヌスについて細かく解説していきましょう。

西の皇帝コンスタンティヌス

人の皇帝・副帝たちのひとりだったコンスタンティヌス1世。西の皇帝だった父・コンスタンティウス・クロルスと、キリスト教徒の母親の間に生まれたコンスタンティヌスは、人質として東の皇帝のもとで子ども時代を過ごします。大人になってからは父のもとへ行き、武将として活躍しました。そうして、亡き父のあとに軍団に推薦されて西の皇帝になります。

ディオクレティアヌスの死後に始まった内紛では、皇帝を自称する他の三人と20年ものあいだ戦い続けました。そうして、312年にミルウィヌス橋の戦いで勝利すると、元老院から正式に西の皇帝と認められます。その在位は歴代皇帝の中で最も長く、306年から337年までの約30年間。

また、このとき彼の威光を現すローマ最大の「コンスタンティヌスの凱旋門」を建設しました。

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「ミラノ勅令」でキリスト教公認へ

先帝ディオクレティアヌスは、皇帝崇拝を人々に強要し、それを拒んだキリスト教徒たちが迫害にあいました。しかし、コンスタンティヌスの母はキリスト教徒。はっきりした理由は記録に残されていませんが、彼はキリスト教を庇護し、また後にコンスタンティヌス自身もキリスト教へと改宗し、洗礼を受けます。ただし、改宗したからといって、コンスタンティヌスがローマの神々を捨て去ったわけではありません。そんなことをすれば、ローマの人々の怒りを買ってしまいますからね。彼はキリスト教徒となりながらも、ローマの神々には厚い配慮を行って神殿などを取り壊したり、無理に教会を作ったりということはしませんでした。

さらに、他の皇帝と争っていた時分には、競争相手であるリキニウスと会談して同盟を結んだ折に、キリスト教公認と取り決めます。リキニウスが東の皇帝となり、ローマ帝国はキリスト教を公認することになりました。これを「ミラノ勅令」といいます。

東西のローマを統一

しかし、西の皇帝コンスタンティヌスと東の皇帝となったリキニウスは、副帝を誰にするかで対立。さらに、リキニウスが「ミラノ勅令」を破ってキリスト教徒を迫害することになります。戦闘と和平交渉の末、再び両者の関係が悪化。そうして、324年の「アドリアノープルの戦い」で決着をつけることになりました。その結果、コンスタンティヌスはリキニウスを倒し、ディオクレティアヌスの「四分統治制」以来初の単独の皇帝となったのです。

また、コンスタンティヌスた単独皇帝になったことで、ローマ全土でキリスト教が公認されることとなりました。

「ニケーア公会議」キリスト教の教義の統一

コンスタンティヌスが皇帝となった翌325年。今度は、キリスト教の教義を統一する会議が小アジアのニケーアで開かれました(「ニケーア公会議」)。これはキリスト教で最初の正統教義を決める重要な会議です。

キリスト教が誕生して300年以上経過していますから、その間に多くの人に受け継がれたキリストの教えは、さまざまな解釈を持たれるようになっていました。大国ローマによって大々的に信仰が認められた手前、人によって教義の解釈が異なっていては、いろいろと不都合が生じるというもの。今回はそれをきっちり一本化してしまおうという会議だったのです。そうして、ニケーアに300人の司教が集められ、コンスタンティヌスが自ら議長を務めました。

この会議でもっとも大きな議論を呼んだのは、「イエス・キリスト自身の神性を認めるか」という議題です。

この議題は、「イエス・キリストは本質において神性を持ち、父なる神と同質の存在だ」と主張するアタナシウス派と、「父なる神の神性の分割はありえないためイエス・キリストは神聖だが神に帰属する。神ではなく人間だ」と主張するアリウス派が激しく対立しました。

せっかくキリスト教が公認されたのに、司教の間で対立があればいつ分裂するかわかりません。このよろこばしくない状況をなんとかするためにコンスタンティンヌスが仲裁に立ったのでした。二ヶ月に渡った議論の結果、アタナシウス派が多くの支持を集めて正統な教義となります。破れたアリウス派は異端となり、ローマから追放されてしまいました。

しかし、「ニケーア公会議」でアタナシウス派を正統としましたが、その後もコンスタンティヌスはアリウス派との妥協点を探し続けます。そうして327年に再び開かれた公会議にて、アリウス派の教会復帰を認めたのです。

キリスト教「公認」であって「国教化」ではない

間違いやすいのですが、コンスタンティヌスはキリスト教を「公認」したのみで、「国教」にしたわけではありません。キリスト教がローマの国教となったのは70年後の394年。テオドシウス帝の時代です。また、キリスト教の重要な教義となっている「三位一体説」もテオドシウス帝の「コンスタンティノープル公会議」で正統教義とされます。

キリスト教の建築物をつくる

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キリスト教を公認したコンスタンティヌスは、また、キリスト教系の建築を多く残しました。最初に造営したのは、世界遺産サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の前身となる「救世主のバシリカ」です。さらに、サン=ピエトロ大聖堂のもとになった使徒ペテロの墓所(礼拝所)に教会を建設しました。

ただし、これらの建築物はローマの中心地からは離れて建設され、コンスタンティヌスはローマの神々への配慮を行ったのだとされています。

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3.コンスタンティヌスの内政

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ここからはコンスタンティヌスの内政についてになります。

首都を東のコンスタンティノープルへ

「ニケーア公会議」後の330年、コンスタンティヌスは、黒海の出入口に位置する「ビュザンティオン(現在のイスタンブール)」を「第二のローマ」として遷都を決め、都市の名前を「コンスタンティノープル」と改めます。ビュザンティオンは、古くはギリシア人の植民市とした場所で、さらに黒海とマルマラ海を結ぶボスフォラス海峡に面した交通の要所でした。

前述通り、コンスタンティノープルはもともとローマ帝国の首都だったローマのはるか東。首都が東へ移ったことで、帝国の基盤はローマよりもむしろ東地中海のギリシアや小アジアへと比重が動くことになります。

金貨の発行と小作人の異動禁止

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「三世紀の危機」を乗り越えた先帝ディオクレティアヌスでしたが、依然として経済的混乱は収まりきりませんでした。そんななか、コンスタンティヌスがつくったのが、高純度の金を含む質の高い「ソリドゥス金貨(ノミスマ)」です。ソリドゥス金貨はローマ帝国の経済的統一を維持するのに活躍し、地中海周辺で最も信頼のある金貨となりました。

また、そのために国家の財政を強化する必要が強くなり、国庫を安定させるための税収が求められるようになります。その問題を解決するため、コンスタンティヌスは小作人(コロヌス)を土地に縛り付ける異動禁止令を出し、「小作制度(コロナトゥス)」を強化しました。

コンスタンティヌスの晩年

年齢を重ねたコンスタンティヌスは、自分の三人の子どもたちをそれぞれ副帝に任命して、帝国を分割統治するようになります。先帝ディオクレティアヌスの「四分統治制」と似た政策ですね。

しかし、まずいことにこれがコンスタンティヌスがニコメディア近郊の離宮で亡くなって以後、父の統制を失った子どもたちは、誰が皇帝を継承するかで争うようになってしまうのです。その結果、継承争いを勝ち抜いたコンスタンティヌスの息子「コンスタンティウス2世」が、コンスタンティヌスの異母弟ユリウスの子「ユリアヌス」に父の仇として殺害され、ユリアヌスが皇帝となったのでした。

そして、ユリアヌスはコンスタンティヌスが行ったキリスト教の公認を否定するなど、コンスタンティヌスの政策を次々に転換させていったのです。

コンスタンティヌス“大帝”

ディオクレティアヌス帝の「四分統治制」によって東西に割れたローマを再び一つに統一したコンスタンティヌス1世。そして、それまで迫害を受けていたキリスト教を庇護して公認した功績は非常に大きく、その後のヨーロッパ世界に大きな影響を与えました。

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3分で簡単「コンスタンティヌス1世」キリスト教を公認したってどういうこと?歴史オタクがわかりやすく解説

古代ローマ帝国の「コンスタンティヌス1世」はキリスト教を公認した最初の皇帝として有名です。「ミラノ勅令」「ミケーネ公会議」はヨーロッパ史上のキーワードとなっているぞ。しかし、コンスタンティヌスのすごいところはそれだけじゃない。
今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にそんな「ハドリアヌス」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回の記事は古代ローマ帝国皇帝のひとり「コンスタンティヌス1世」についてまとめた。

1.二つに分かたれたローマ帝国

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今回のテーマは古代ローマ帝国の「コンスタンティヌス1世」。その解説に入る前にローマ帝国についての時代背景をみていきましょう。

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