ローマのコロッセウムといえば世界遺産にもなっている有名なものです。とはいえ、そこでは剣闘士同士の死闘など血生臭い見世物が出されていた。今回のテーマとなる「スパルタクス」はその剣闘士……つまり、奴隷だったわけです。彼は仲間の奴隷たちと一緒に脱走し、故郷に帰るための戦いを始めるんです。
歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にその「スパルタクス」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ローマで起こった最大の奴隷反乱を指導した「スパルタクス」についてまとめた。

1.ローマ市民が要求した「パンと見世物」

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奴隷制度によって広がった貧富の差

古代のローマといえば、ヨーロッパからアフリカ北岸、小アジア、シリアに至る広大な領地を持つ「ローマ帝国」として有名ですね。紀元前一世紀半ごろには地中海全域を手中に収めていました。しかし、領土を拡大するためには戦争が不可欠。ローマは征服戦争を繰り返し、隣国を攻めては土地を奪って拡大していったのです。敗戦した国はローマの属州となります。そして、兵士や傭兵などは捕虜となり、故郷から引き離されて「奴隷」としてローマに連行されて行きました。

ローマの有力者たちは「大土地所有地(大農園、ラティフンディア)」で奴隷たちを働かせ富を蓄えていきます。しかし、そのために有力者と中小農民たちの間で貧富の差が開いていきました。

没落したその中小農民たちは、やがて田畑を捨ててローマへ保護を求めてやってくるようになります。そして、彼らはローマの政府に対して「パンと見世物(あるいは、パンとサーカス)」を要求しはじめるのです。

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共和政ローマと選挙権

没落した中小農民は「無産市民(プロレタリア)」と呼ばれ、ローマの政治家たちに「パンと見世物」を要求しました。もはや何も生産しない無産市民となってしまいましたが、彼らはもともと「ローマの市民権」を持った人々です。その市民権のなかには、「選挙権」が含まれていました。

当時のローマは共和政。王様はおらず、役人は選挙によって選ばれていた時代です。そのため、政治家たちは無産市民であっても選挙権を持つ彼らを無視することはできません。彼らの要求にこたえれば、彼らの持つ票を手に入れることができたからです。こうして、無産市民の要求は叶えられることになりました。

この「パンと見世物」ですが、「パン」はもちろん食料のこと。原料となる小麦粉が特別特価で売られたり、あるいは無料で配られたりします。

そして、「見世物(サーカス)」とは、娯楽のこと。ローマ政府が人々に提供した娯楽は、競技場での戦車競走や、闘技場(コロシアム、コロッセオ)での剣闘士試合でした。

警句「パンと見世物」

「パンと見世物」は、古代ローマの風刺詩人ユウェナリスが、詩に用いた表現です。それはもちろん、社会風刺の詩でした。

職のない無産市民に無償で食料を与えるのは、一見すると社会福祉政策のようですが、実際は「国からの福祉」ではなく、「権力者からの恩寵(ほどこし)」として周知されていました。だから、選挙の際は恩寵を与えてくれた権力者に無産市民は票を入れるわけですね。

「パンと見世物」には、「有力者から無料で与えられる食料と娯楽に、ローマの市民たちが本来持っていた知性を曇らせ、政治家の本質を見ずに投票を行っている」という痛烈な意味が込められていました。また、現代においても「愚民政策」に対する警句としてもちいられることもあります。

ローマの残酷な娯楽

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ローマ市民の娯楽として、闘技場では剣闘士同士の試合をはじめ、動物同士、あるいは動物と剣闘士の殺し合いを見世物として出します。また、キリスト教への迫害が強くなると、キリスト教徒を猛獣に襲わせて処刑するなど、非常に残酷で血生臭いことが行われていました。

キリスト教徒への迫害は四世紀のコンスタンティヌス帝が、剣闘士試合は五世紀のはじめにホノリウス帝が禁止するまで続きます。それまでの間、ローマの人々は闘技場の見世物に熱中しており、たくさんの闘技場が建てられました。

ここで試合に出場する剣闘士とは、剣奴と呼ばれる奴隷の一種です。前述したローマの征服戦争によって各地から連行されてきた奴隷の一部が、剣奴としての訓練を受けたあとに闘技場の試合へ出場させられたのでした。今回のテーマとなる「スパルタクス」もまた、そうして連れてこられた奴隷のひとりです。

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イタリアの世界遺産「コロッセオ」

イタリアの世界遺産として有名なローマの「円形闘技場(コロッセオ)」。建築当時の正式名称は「フラウィウス円形闘技場」といいます。この闘技場ができたのは80年ごろ。ウェスパシアヌス帝の指示で建設がはじまり、完成したのはその息子・ティトウスの代でした。

スパルタクスの生きた時代より、もう少しあとのことです。

共和政ローマでは選挙によって役人が選ばれた。政治家は票がほしいがために、無産市民の要求をかなえることにした。それで、剣奴(奴隷)による試合が闘技場でさかんに行われるようになったんだな。「試合」って言うと、現代のスポーツのように聞こえるが、本物の剣を使った文字通り命がけの試合だぞ。これほど残酷な娯楽もあったもんじゃないな。

2.スパルタクスの蜂起

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奴隷たちの待遇

多くの征服戦争の結果、ローマには多くの奴隷がいました。大農園で農業に従事したり、剣闘士として命がけの戦いをさせられたり、あるいは、家で家事をこなす奴隷まで。ありとあらゆる労働を奴隷たちにさせて、ローマ市民は楽に暮らしていたのです。

そんな奴隷たちの待遇は、もちろん良いものではありませんでした。彼らに人権はなく、「もの言う道具」として奴隷商人によって知らない土地へと売り飛ばされるのです。古代ローマでは「解放奴隷」といって、奴隷が合法的にその身分から解放され、ローマ市民となることができる制度がありました。ローマ市民となれば、市民会に出席することも、選挙で投票することもできるのです。

しかし、その条件はそう簡単なものではありません。さらに、人権のない奴隷たちへの搾取は非常に厳しく、紀元前二世紀ごろからはたびたび「奴隷反乱」が起こるようになりました。

紀元前135年と、紀元前104年、ローマの属州だったシチリア(イタリア南西の島)で二度にわたる奴隷反乱(第一次奴隷戦争、第二次奴隷戦争)が起こりました。どちらの奴隷反乱もローマの軍によって鎮圧されてしまいますが、ローマ社会に動揺を走らせます。

そして、紀元前73年「スパルタクス」によってローマ史上最大の奴隷反乱が起こるのです。このころはちょうど「内乱の一世紀」と呼ばれる期間であり、ローマの議会は市民会を基盤とする「民衆派」と、元老院の寡頭政治を支持する「閥族派」に割れた動乱の時代でした。

剣闘士養成所からの脱走

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彼は、トラキア(現在のバルカン半島南西部にあたる)の生まれで、奴隷としてローマに連れて来られたのです。奴隷のなかでも戦士として見込みのあるものは、剣闘士とするために剣闘士養成所へ送られました。スパルタクスは、トラキア人とガリア(現在のフランス、ベルギーあたり)人が所属するカプア(イタリア南部)の剣闘士養成所に入れられます。

そして、他の剣闘士たちと一緒に押し込められたスパルタクスと奴隷たちは、そこで脱走を計画しました。いよいよ200人の奴隷が剣闘士養成所を脱走するとなったとき、けれど、密告によって200人のうち約70人しか脱走できなかったのです。

しかし、脱走に成功したスパルタクスと仲間たちは、通りがかった馬車から武器を奪って武装化し、てヴェスヴィオス山に立て籠もって抗戦の道を選びます。このとき、彼らは自分たちのリーダーにスパルタクスを選び出したのです。スパルタクスは、武勇に優れるだけでなく、元来の性格は温和で知性があり、その才能豊かな人間性が人々を惹きつけたのでしょう。

スパルタクスたちは差し向けられた討伐隊の攻撃をしのぐどころか、見事に返り討ちにして、さらにカプアの奴隷たちを仲間に加えていきます。

スパルタクスの蜂起

首領となったスパルタクスがローマ全土の奴隷たちへ呼びかけたことにより、反乱軍はどんどん数を増していき、数万人にも膨らんだといいます。

反乱軍は元老院が派遣した鎮圧軍を再三に渡って敗走させると、南イタリアの都市をいくつか襲撃して略奪、占領をして冬をやりすごしました。そこで新たに加わった仲間の訓練を行いつつ、越冬を終えた紀元前72年に北上を開始します。

北上に際しても反乱軍による略奪が行われました。しかし、スパルタクスは略奪品はみんなに平等に分配し、個人的な財産を増やさないようにします。さらには、無用な暴行や、必要以上の略奪といった逸脱した行為は禁止して厳正に軍紀を取り締まりました。

そうして、スパルタクスたちはローマの正規軍と戦い、犠牲を出しながらもとうとう北イタリアに到着。アルプス山脈を前にしたのです。

奴隷を自由に、そして故郷へ

スパルタクスの目的は、打倒ローマ……ではなく、アルプスを越えて奴隷たちを自由にし、彼らの故郷へ帰すことでした。しかし、スパルタクスたちはアルプス山脈をこえることなく、何らかの理由で踵を返して再び南イタリアへと軍を進め始めます。

南下したスパルタクスたちの前に、今度はローマの「マルクス・リキニウス・クラッスス(以下クラッスス)」が立ちはだかりました。クラッススは政治家としてだけでなく、強力な軍人としても名をはせた人物です。

クラッススの軍団は巧みにスパルタクスと反乱軍をイタリア半島半部に追い込みます。このとき、スパルタクスらトラキア出身者たちは南から海を渡って国に帰ろうとしましたが、ガリア人たちは再び北上してアルプス山脈を越えたいと、反乱軍内部で分裂してしまいました。

さらに間の悪いことに、ヒスパニアで戦っていた「グナエウス・ポンペイウス(以下ポンペイウス)」が本国へ戻ってくると、そのまま反乱軍鎮圧に加わることになったのです。

スパルタクスの奮戦

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ヘルマン・フォーゲル - http://www.allposters.com/-sp/Slave-Revolt-in-the-Final-Battle-Crassus-Defeats-the-Slaves-and-Spartacus-is-Killed-Posters_i1879371_.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

最悪状況下、スパルタクスはポンペイウスが到着する前にクラッススに決戦を挑みます。反乱軍の人々の多くは農地から逃れた奴隷でしたが、戦闘が始まると彼らはローマの正規軍に対して勇猛果敢に戦いました。クラッススの軍団を脅かし、けれど、12000人以上が倒れ、ついには反乱軍の足並みが乱れてしまいます。

スパルタクスは反乱軍の統制が失われたとわかると、クラッススを迎え撃つために全軍を集結させました。そうして、スパルタクス最後の戦いとなる「シラルス川の戦い」が始まります。次々と反乱軍の人々が倒れていくなか、スパルタクスの奮戦はすさまじく、クラッススの軍団に大きな打撃を与えました。しかし、彼の剣はクラッススに届くことなく、戦いのさなかに戦死してしまうのです。

戦いのあと、クラッススは6000人の捕虜を見せしめとして十字架にかけ、アッピア街道に晒しました。さらに、スパルタクスと直接戦うことはなかったポンペイウスが逃亡した反乱軍の生き残り約5000人を捕縛して虐殺してしまいます。

こうして、スパルタクスの起こした大規模な奴隷反乱は幕を下ろしたのです。

奴隷の待遇改善へ

スパルタクスは戦いに敗れ、目的を成すことはできませんでした。しかし、彼の戦いはまったく無意味なことではありません。

スパルタクスの反乱以降、ローマ人の奴隷への態度は少なからず変化します。以前のように奴隷を酷使し続けるのは危険だと気付き、奴隷たちに報酬を与えたり、家族を持つことを許したのです。

さらに、「大土地所有地(大農園、ラティフンディア)」では奴隷を減らして「小作人(コロヌス)」を雇うようになります。

また、ローマに反抗するスパルタクスの雄姿は後世に残こりました。パリのルーヴル美術館に展示されている彼の彫刻(ドニ・フォヤティエ作、1827年)があり、1830年のフランス7月革命の象徴とされています。

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自由を求め、闘争した英雄

ローマの征服戦争により自由を奪われ、奴隷として酷使された無辜の人々。彼らの希望となったのが「スパルタクス」です。彼は奴隷たちを自由にして、故郷へ帰すために強大なローマと戦ったのでした。その願いはかないこそしませんでしたが、スパルタクスの奮闘によってそれまで苦しめられていた奴隷たちの暮らしは少なからず良い方へと向いて行ったのです。

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イタリアヨーロッパの歴史世界史古代ローマ

3分で簡単「スパルタクス」自由を求め、古代ローマ最大の奴隷反乱を起こした英雄を歴史オタクがわかりやすく解説

ローマのコロッセウムといえば世界遺産にもなっている有名なものです。とはいえ、そこでは剣闘士同士の死闘など血生臭い見世物が出されていた。今回のテーマとなる「スパルタクス」はその剣闘士……つまり、奴隷だったわけです。彼は仲間の奴隷たちと一緒に脱走し、故郷に帰るための戦いを始めるんです。
歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にその「スパルタクス」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ローマで起こった最大の奴隷反乱を指導した「スパルタクス」についてまとめた。

1.ローマ市民が要求した「パンと見世物」

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奴隷制度によって広がった貧富の差

古代のローマといえば、ヨーロッパからアフリカ北岸、小アジア、シリアに至る広大な領地を持つ「ローマ帝国」として有名ですね。紀元前一世紀半ごろには地中海全域を手中に収めていました。しかし、領土を拡大するためには戦争が不可欠。ローマは征服戦争を繰り返し、隣国を攻めては土地を奪って拡大していったのです。敗戦した国はローマの属州となります。そして、兵士や傭兵などは捕虜となり、故郷から引き離されて「奴隷」としてローマに連行されて行きました。

ローマの有力者たちは「大土地所有地(大農園、ラティフンディア)」で奴隷たちを働かせ富を蓄えていきます。しかし、そのために有力者と中小農民たちの間で貧富の差が開いていきました。

没落したその中小農民たちは、やがて田畑を捨ててローマへ保護を求めてやってくるようになります。そして、彼らはローマの政府に対して「パンと見世物(あるいは、パンとサーカス)」を要求しはじめるのです。

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