ギリシャ世界史古代ギリシャ歴史

5分でわかる「スパルタ」スパルタ教育の元祖?300人で200万のペルシア軍に挑んだ?歴史オタクがわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ。「スパルタ」は古代ギリシアに誕生した都市国家のひとつだ。「スパルタ教育」とか聞いたことがあるだろう?その由来となったところだ。スパルタで子どもたちに行われた教育はまさに「スパルタ教育」で、その結果、スパルタの強力な戦士が誕生したんだな。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「スパルタ」について解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ギリシャの有力国のひとつ「スパルタ」についてまとめた。

1.古代ギリシャの「スパルタ」

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都市国家「スパルタ」の成立と住民たち

日本では「スパルタ教育」という言葉で知られるあの「スパルタ」。その語源は、古代ギリシャのポリス(都市国家)のひとつでした。

紀元前12世紀ごろにペロポネソス半島を南下したドーリア人の一派のスパルタ人(彼らは自分たちのことを「ラケダイモン」と自称しました)。スパルタ人はエウロタス河畔に定住し、「スパルタ」というポリスを成立させます。

スパルタでは少数のスパルタ人を支配階級に、たくさんの「奴隷(ヘイロータイ)」と「半自由民(ペリオイコイ)」を支配していました。半自由民は市民と奴隷の中間的な身分で、基本的には自由の身でありながら、スパルタでの参政権や市民権はありません。市民としてそんな重要なものを持っていないのに従軍義務だけがあり、ひとたび戦争が起これば戦地へ行かなければなりませんでした。

また、奴隷はスパルタ市民の所有物とされ、自由はありません。そんな扱いだったために、たびたび反乱を起こしてはスパルタ人たちに武力で鎮圧されていました。

軍国主義をつくった「リュクルゴスの改革」

先に述べた通り、スパルタはたくさんの奴隷や半自由民を抱えていたのに対して、支配階級のスパルタ人は少人数です。そして、あんまりな待遇に耐えかねた奴隷たちがたびたび反乱を起こしました。いくら奴隷とはいえ、数で押されてしまえば少ないスパルタ人でも抑え込むのは非常に苦労しそうなものです。それに、他のポリスとも緊張状態が続いていました。ところが、スパルタ人には集結した奴隷の反乱や他のポリスに負けないための秘訣があったのです。

ギリシャ各地でポリスが徐々に形成されるようになった紀元前8世紀から紀元前7世紀ごろのこと。この時代のギリシャは社会的に不安定で、その改善のためにスパルタの「リュクルゴス」が改革を始めます。

リュクルゴスの改革では、土地をスパルタ市民へ均等配分、長老会の設置、民会の設置、教育制度の制定、常備軍の創設、装飾品の禁止、スパルタ市民の共同食事制が採られました。

土地の均等配分や装飾品の禁止、共同食事制はスパルタ市民であれば誰でも平等であるという意識を持たせ、彼らの団結を高めたのです。そして、スパルタの政治は全スパルタ市民が参加する民会と、そこから選出された60歳以上の28人、そして2人のスパルタ王によって運営されることになりました。

スパルタの重装歩兵の戦術

また、スパルタと聞いて有名なのが、「スパルタの重装歩兵」ですね。重装歩兵は密集部隊(ファランクス)という戦術をもちいて戦います。彼らは左手に円形の大きな盾で身を守りつつ、右手に持った長い槍で向かって来る敵を串刺しにするのです。

このとき、槍を持つことでおろそかになる右側の守りを、右側にいる味方の盾にかばってもらうことになります。陣形の中で弱くなる一番右側には彼らのなかでも強力な精鋭が配置されるのです。そして、さらに右側の仲間を守るために、右へ展開しようとする敵を阻むよう右へズレながら戦いました。

しかし、この戦術はかなり難しく、相当な練度や団結力が必要になります。ちょっとでも乱れると盾に隙間ができたり、隊列が崩れたりしてしまえば、瞬く間に敵が付け入る隙となってしまいました。

だからこそ、リュクルゴスの改革ではスパルタ市民の一致団結、そして、子どもたちに厳しい教育を施すことによって重装歩兵の練度や強さを確かなものにしたのです。

厳しすぎる「スパルタ教育」

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子どもたちに施されたという厳しい教育。現代日本ではそういう教育方法を「スパルタ教育」といいますが、当時のスパルタの教育は現代日本では考えられないほどおそろしく厳格なものでした。

まず、生まれたスパルタ市民の赤ちゃんは集会所へ連れていかれて検査を受けます。そこでその赤ちゃんに弱点がないか調べられるのです。そして、もしも不合格となってしまえば、可哀想なことに、赤ちゃんはタイゲトス山麓の穴に落としてしまいます。それは王の子でも同じで、「スパルタ人の子どもは親のものでなく、スパルタという国家のもの」ということを示していました。

また、その検査に合格した子どもは、七歳になると国の養育所に入り、他の子どもたちと一緒に共同生活をおくりながら厳格に育てられます。女の子もまた幼い頃から厳しい体育訓練を受けました。そのために女性もまたスパルタの戦士と同じように扱われており、一生を家の奥で過ごすアテナイ(現在のアテネ)の女性や他のポリスの女性と違って、スパルタの女性は権利と地位が認められていたのです。

このような非常に厳しい軍国主義を背景に、スパルタはアテナイと並ぶ代表的なポリスとなりました。

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