「スパルタ」は古代ギリシアに誕生した都市国家のひとつです。「スパルタ教育」って聞いたことがあるでしょう?その由来となったところです。スパルタで子どもたちに行われた教育はまさに「スパルタ教育」で、その結果、スパルタの強力な戦士が誕生したんです。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「スパルタ」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ギリシャの有力国のひとつ「スパルタ」についてまとめた。

1.古代ギリシャの「スパルタ」

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日本では「スパルタ教育」という言葉で知られるあの「スパルタ」。その語源は、古代ギリシャのポリス(都市国家)のひとつでした。ここではスパルタ人についてやリュクルゴスの改革、重装歩兵などについてみていきましょう。

都市国家「スパルタ」の成立と住民たち

紀元前12世紀ごろにペロポネソス半島を南下したドーリア人の一派のスパルタ人(彼らは自分たちのことを「ラケダイモン」と自称しました)。スパルタ人はエウロタス河畔に定住し、「スパルタ」というポリスを成立させます。

スパルタでは少数のスパルタ人を支配階級に、たくさんの「奴隷(ヘイロータイ)」と「半自由民(ペリオイコイ)」を支配していました。半自由民は市民と奴隷の中間的な身分で、基本的には自由の身でありながら、スパルタでの参政権や市民権はありません。市民として重要なものを持っていないのに従軍義務だけがあり、ひとたび戦争が起これば戦地へ行かなければなりませんでした。

また、奴隷はスパルタ市民の所有物とされ、自由はありません。そんな扱いだったために、たびたび反乱を起こしてはスパルタ人たちに武力で鎮圧されていました。

軍国主義をつくった「リュクルゴスの改革」

先に述べた通り、スパルタはたくさんの奴隷や半自由民を抱えていたのに対して、支配階級のスパルタ人は少人数です。そして、あんまりな待遇に耐えかねた奴隷たちがたびたび反乱を起こしました。いくら奴隷とはいえ、数で押されてしまえば少ないスパルタ人でも抑え込むのは非常に苦労しそうなものです。それに、他のポリスとも緊張状態が続いていました。ところが、スパルタ人には集結した奴隷の反乱や他のポリスに負けないための秘訣があったのです。

ギリシャ各地でポリスが徐々に形成されるようになった紀元前8世紀から紀元前7世紀ごろのこと。この時代のギリシャは社会的に不安定で、その改善のためにスパルタの「リュクルゴス」が改革を始めます。

リュクルゴスの改革では、土地をスパルタ市民へ均等配分、長老会の設置、民会の設置、教育制度の制定、常備軍の創設、装飾品の禁止、スパルタ市民の共同食事制が採られました。

土地の均等配分や装飾品の禁止、共同食事制はスパルタ市民であれば誰でも平等であるという意識を持たせ、彼らの団結を高めたのです。そして、スパルタの政治は全スパルタ市民が参加する民会と、そこから選出された60歳以上の28人、そして2人のスパルタ王によって運営されることになりました。

スパルタの重装歩兵の戦術

また、スパルタと聞いて有名なのが、「スパルタの重装歩兵」ですね。重装歩兵は密集部隊(ファランクス)という戦術をもちいて戦います。彼らは左手に円形の大きな盾で身を守りつつ、右手に持った長い槍で向かって来る敵を串刺しにするのです。

このとき、槍を持つことでおろそかになる右側の守りを、右側にいる味方の盾にかばってもらうことになります。陣形の中で弱くなる一番右側には彼らのなかでも強力な精鋭が配置されるのです。そして、さらに右側の仲間を守るために、右へ展開しようとする敵を阻むよう右へズレながら戦いました。

しかし、この戦術はかなり難しく、相当な練度や団結力が必要になります。少しでも乱れると盾に隙間ができたり隊列が崩れたりしてしまえば、瞬く間に敵が付け入る隙となってしまいました。

だからこそ、リュクルゴスの改革ではスパルタ市民の一致団結、そして、子どもたちに厳しい教育を施すことによって重装歩兵の練度や強さを確かなものにしたのです。

厳しすぎる「スパルタ教育」

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子どもたちに施されたという厳しい教育。現代日本ではそういう教育方法を「スパルタ教育」といいますが、当時のスパルタの教育は現代日本では考えられないほどおそろしく厳格なものでした。

まず、生まれたスパルタ市民の赤ちゃんは集会所へ連れていかれて検査を受けます。そこでその赤ちゃんに弱点がないか調べられるのです。そして、もしも不合格となってしまえば、可哀想なことに、赤ちゃんはタイゲトス山麓の穴に落としてしまいます。それは王の子でも同じで、「スパルタ人の子どもは親のものでなく、スパルタという国家のもの」ということを示していました。

また、その検査に合格した子どもは、七歳になると国の養育所に入り、他の子どもたちと一緒に共同生活をおくりながら厳格に育てられます。女の子もまた幼い頃から厳しい体育訓練を受けました。そのために女性もまたスパルタの戦士と同じように扱われており、一生を家の奥で過ごすアテナイ(現在のアテネ)の女性や他のポリスの女性と違って、スパルタの女性は権利と地位が認められていたのです。

このような非常に厳しい軍国主義を背景に、スパルタはアテナイと並ぶ代表的なポリスとなりました。

\次のページで「2.戦争を繰り返すポリスとペルシア帝国」を解説!/

2.戦争を繰り返すポリスとペルシア帝国

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ここからは歴史上でとても有名な「テルモピュライの戦い」についてみていきましょう。

覇権を握ったスパルタ

西のメッセニアを征服し、広い領土を持つことになったスパルタ。これによってスパルタはペロポネソス半島での影響力を強めることになります。しかし、そうなると他の勢力が黙っているはずがありませんよね。そこでペロポネソス半島の対抗勢力とさらなる戦いが繰り広げられることになり、例の重装歩兵たちで見事に勝利したスパルタはペロポネソス半島の覇権を得ることになりました。

そうして、紀元前6世紀にペロポネソス半島内のポリスと組んで「ペロポネソス同盟」を結成。スパルタはその盟主となったのです。

ペルシア帝国の侵攻

エーゲ海を挟んだ向こうのアケメネス朝ペルシア帝国がギリシャに向けて侵攻を始めたのが、紀元前499年のこと。ペルシアという強大な国に対抗するため、ギリシャ人たちはアテナイを中心に各ポリスが協力する連合軍を結成しました。スパルタもアテナイと共に戦争を主導する立場として参戦します。

こうしてギリシャの連合軍対ペルシア帝国による「ペルシア戦争」が勃発したのです。

一時はアテナイが占領されるも、スパルタの重装歩兵をはじめ、アテナイの海軍などにペルシア帝国はなかなか侵攻を進めることができません。

この戦争のさなか、歴史上でとても有名な「テルモピュライの戦い」が起こります。テルモピュライはアテナイの北、山と海に挟まれた狭い道でペルシア軍を迎え撃つのに有利な場所でした。

ところが、このときスパルタはカルネイア祭というとても重要な祭りの真っ最中で、一切の軍事行動を禁止されています。本来なら戦争に行くことすらできないところを、スパルタの「レオニダス王」が300人の精鋭を率いて出撃することにしたのです。

そうして、レオニダス王の率いる300人の重装歩兵に各ポリスからやってきた兵士を加えた5000から7000人で、テルモピュライを防衛することになりました。

テルモピュライの戦い

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5000から7000人のギリシャの連合軍に対して、陸上を南下してきたペルシア軍は200万人を越えていました。ペルシア軍もこのあまりに大きな戦力差に、ギリシャ連合軍は早々に撤退するだろうと高みの見物を決め込んでいたほどです。しかし、ギリシャ連合軍は撤退はせず、予定通りテルモピュライを決戦の地とします。

こうして戦いの火ぶたが切られ、ペルシア軍が圧倒的人数有利を振りかざして寡兵のギリシャ連合軍軍へ攻撃を仕掛けました。しかし、ペルシア軍はなかなか連合軍の防衛線をを突破することができません。

このとき、先陣に立ったのはスパルタの重装歩兵たちです。彼らはテルモピュライの狭い道にずらりと密集部隊を並べ、向かって来るペルシアの兵たちを槍で突き倒したのでした。

すぐに終わると思った戦闘なのに、ギリシャ連合軍は二日に渡ってペルシアの大軍を食い止めます。一方、大打撃を受けたペルシア軍は、とうとうテルモピュライの抜け道を発見したのです。その道を使われると、ペルシア軍はギリシャ連合軍の背後に回り込め、戦況をひっくり返されてしまいます。

そうして、戦闘が始まって三日目の早朝。ペルシア軍が抜け道をやってくることを知ったギリシャ連合軍は、スパルタの重装歩兵300人とテバイ兵400人、テスピアイ兵700人を残して撤退してしまいます。彼らはたった1400人でも、ペルシアと戦うことにしたのです。

こちらもまた不利な状況にもかかわらず、スパルタの精鋭たちは奮戦し、迫りくるペルシア軍を押しとどめました。激戦の最中にレオニダス王が倒れてしまいますが、それでも戦いをやめることなく、ギリシャ連合軍は最後のひとりが戦死するまで戦い続けたのでした。

サラミス海戦とプラタイアの戦い

テルモピュライの戦いで敗北を喫したギリシャ連合軍でしたが、テルモピュライの防戦で稼いだ時間のおかげでギリシャ連合軍は海軍の準備が整います。そうして挑んだ「サラミス海戦」ではアテナイの海軍がペルシア軍を破ったのでした。

敗戦を受けたペルシアのクセルクセス1世は30万人の兵を残して帰国。残されたペルシア軍は侵攻を再開し始めます。

そして、ギリシャ連合軍はアテナイより北キタイロン山麓で再びペルシア軍と対峙しました。パウサニアス王とスパルタ兵たちは「プラタイアの戦い」で孤立してしまうのですが、その劣勢をものともせず浮足立ったペルシア軍を返り討ちにしてしまうのです。その結果、30万のペルシア軍をスパルタだけで打ち破ったといわれています。

サラミス海戦、そしてプラタイアの戦いをギリシャ連合軍が勝利をおさめたことで、ペルシア戦争はギリシャ側が勝者となったのでした。

\次のページで「3.スパルタの衰退はなぜ?」を解説!/

3.スパルタの衰退はなぜ?

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トニー=ロベール・フルーリー - http://www.politique-actu.com/philosophe/comment-enseigner-souverainete-citoyen-discours-interdit-manuel-dieguez-plus-grands-philosophes-contemporains/330197/, パブリック・ドメイン, リンクによる

ここからはスパルタ衰退の理由について解説します。

ペロポネソス戦争勃発

ペルシア戦争後、アテナイはサラミス海戦の功績によってギリシャでの影響力を強めました。そして、ペルシアの再襲来に備えてエーゲ海周辺のポリスとの間に「デロス同盟」を結んで盟主となります。

ところがこの結果、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟とデロス同盟の関係が悪化。ペルシア戦争が終わって18年後の紀元前431年、今度はギリシャ内で「ペロポネソス戦争」が勃発することになってしまったのです。

アテナイとスパルタ。ギリシャの二大ポリスによる戦争において、アテナイは籠城戦を選択します。ところが、この籠城戦中にアテナイに疫病が流行してしまっために、紀元前404年、ペロポネソス戦争はスパルタの勝利に終わりました。

こうして、スパルタはギリシャで最も強いポリスとして主導権を握ったのです。

ペルシア帝国の介入

無事に戦争をおさめたスパルタ。しかし、その背景にはペルシア帝国の金銭的援助がありました。さらに、戦争によってもたらされた富により、スパルタ市民の間に貧富の差が発生してしまいます。これは、スパルタ市民がこれまで育んできた結束力にヒビを入れ、厳格な軍国主義に大打撃を与えることになりました。

また、スパルタの勝利を快く受け取らなかったのはアテナイだけではありません。ギリシャがスパルタ一国のものになり、国としてまとまることをおそれがペルシア帝国が、他のポリスへ援助するという形で介入を始めたのです。

ペルシアはアテナイ、テバイ、コリントスなどに援助を行い、その結果、諸ポリスとスパルタが戦う「コリントス戦争」が起こりました。戦争の結果、スパルタは破れ、ペルシア帝国の目論見通りギリシャにおける主導権を失ってしまいます。

マケドニアの侵攻

アテナイ、スパルタの二大ポリスの失墜は、全体的に見ればギリシャの弱体化となりました。そうして紀元前4世紀の中盤、北方のマケドニア王国がギリシャに侵攻を開始します。

最初はアテナイとテバイがマケドニアに抵抗していました。しかし、カイロネイアの戦いで敗れるとマケドニアが主導となってコリントス同盟を結びます。マケドニアがギリシャの覇権を握った瞬間でした。

さらにマケドニアはスパルタにもコリントス同盟に加わるように持ち掛けます。しかし、スパルタはこれを拒否。反マケドニア勢力となり、決して屈しない構えをとります。

そして、マケドニアの王がアレクサンドロス3世(イスカンダル)へと代替わりし、彼が東方遠征へ出かけたのを隙をついてスパルタがマケドニアに対して兵を挙げました(メガロポリスの戦い)。けれど、スパルタはあえなく鎮圧されてしまいます。さらには、マケドニアの支配が終わったのちも侵攻してきたローマにも敗北を喫すると、もはやポリスとしての独立性を保てなくなるほどスパルタは衰退してしまったのです。そうして、紀元前146年、ギリシャ全土がローマの属州となったのでした。

ギリシャ世界にとどろく最強のスパルタ

古代ギリシャに誕生した都市国家スパルタ。うちに抱えた奴隷の反乱や周囲のポリスと戦いに勝つため、スパルタは厳格な軍国主義へと舵を取ります。その結果生まれたスパルタの重装歩兵は、200万のペルシア軍を相手に一歩も逃げ出さない強靭な戦士たちとなったのでした。

スパルタは軍事力でギリシャの覇権を握りかけますが、しかし、こちらもまたペルシア帝国の介入によって他のポリスにその地位を追われてしまいます。そして、マケドニア王国との戦いでスパルタはさらに敗北を重ね、最後にはローマの侵攻で属州になってしまったのでした。

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ギリシャ世界史古代ギリシャ歴史

3分で簡単「スパルタ」スパルタ教育の元祖?重装歩兵やテルモピュライの戦いも歴史オタクがわかりやすく解説

「スパルタ」は古代ギリシアに誕生した都市国家のひとつです。「スパルタ教育」って聞いたことがあるでしょう?その由来となったところです。スパルタで子どもたちに行われた教育はまさに「スパルタ教育」で、その結果、スパルタの強力な戦士が誕生したんです。今回は歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に「スパルタ」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ギリシャの有力国のひとつ「スパルタ」についてまとめた。

1.古代ギリシャの「スパルタ」

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日本では「スパルタ教育」という言葉で知られるあの「スパルタ」。その語源は、古代ギリシャのポリス(都市国家)のひとつでした。ここではスパルタ人についてやリュクルゴスの改革、重装歩兵などについてみていきましょう。

都市国家「スパルタ」の成立と住民たち

紀元前12世紀ごろにペロポネソス半島を南下したドーリア人の一派のスパルタ人(彼らは自分たちのことを「ラケダイモン」と自称しました)。スパルタ人はエウロタス河畔に定住し、「スパルタ」というポリスを成立させます。

スパルタでは少数のスパルタ人を支配階級に、たくさんの「奴隷(ヘイロータイ)」と「半自由民(ペリオイコイ)」を支配していました。半自由民は市民と奴隷の中間的な身分で、基本的には自由の身でありながら、スパルタでの参政権や市民権はありません。市民として重要なものを持っていないのに従軍義務だけがあり、ひとたび戦争が起これば戦地へ行かなければなりませんでした。

また、奴隷はスパルタ市民の所有物とされ、自由はありません。そんな扱いだったために、たびたび反乱を起こしてはスパルタ人たちに武力で鎮圧されていました。

軍国主義をつくった「リュクルゴスの改革」

先に述べた通り、スパルタはたくさんの奴隷や半自由民を抱えていたのに対して、支配階級のスパルタ人は少人数です。そして、あんまりな待遇に耐えかねた奴隷たちがたびたび反乱を起こしました。いくら奴隷とはいえ、数で押されてしまえば少ないスパルタ人でも抑え込むのは非常に苦労しそうなものです。それに、他のポリスとも緊張状態が続いていました。ところが、スパルタ人には集結した奴隷の反乱や他のポリスに負けないための秘訣があったのです。

ギリシャ各地でポリスが徐々に形成されるようになった紀元前8世紀から紀元前7世紀ごろのこと。この時代のギリシャは社会的に不安定で、その改善のためにスパルタの「リュクルゴス」が改革を始めます。

リュクルゴスの改革では、土地をスパルタ市民へ均等配分、長老会の設置、民会の設置、教育制度の制定、常備軍の創設、装飾品の禁止、スパルタ市民の共同食事制が採られました。

土地の均等配分や装飾品の禁止、共同食事制はスパルタ市民であれば誰でも平等であるという意識を持たせ、彼らの団結を高めたのです。そして、スパルタの政治は全スパルタ市民が参加する民会と、そこから選出された60歳以上の28人、そして2人のスパルタ王によって運営されることになりました。

スパルタの重装歩兵の戦術

また、スパルタと聞いて有名なのが、「スパルタの重装歩兵」ですね。重装歩兵は密集部隊(ファランクス)という戦術をもちいて戦います。彼らは左手に円形の大きな盾で身を守りつつ、右手に持った長い槍で向かって来る敵を串刺しにするのです。

このとき、槍を持つことでおろそかになる右側の守りを、右側にいる味方の盾にかばってもらうことになります。陣形の中で弱くなる一番右側には彼らのなかでも強力な精鋭が配置されるのです。そして、さらに右側の仲間を守るために、右へ展開しようとする敵を阻むよう右へズレながら戦いました。

しかし、この戦術はかなり難しく、相当な練度や団結力が必要になります。少しでも乱れると盾に隙間ができたり隊列が崩れたりしてしまえば、瞬く間に敵が付け入る隙となってしまいました。

だからこそ、リュクルゴスの改革ではスパルタ市民の一致団結、そして、子どもたちに厳しい教育を施すことによって重装歩兵の練度や強さを確かなものにしたのです。

厳しすぎる「スパルタ教育」

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子どもたちに施されたという厳しい教育。現代日本ではそういう教育方法を「スパルタ教育」といいますが、当時のスパルタの教育は現代日本では考えられないほどおそろしく厳格なものでした。

まず、生まれたスパルタ市民の赤ちゃんは集会所へ連れていかれて検査を受けます。そこでその赤ちゃんに弱点がないか調べられるのです。そして、もしも不合格となってしまえば、可哀想なことに、赤ちゃんはタイゲトス山麓の穴に落としてしまいます。それは王の子でも同じで、「スパルタ人の子どもは親のものでなく、スパルタという国家のもの」ということを示していました。

また、その検査に合格した子どもは、七歳になると国の養育所に入り、他の子どもたちと一緒に共同生活をおくりながら厳格に育てられます。女の子もまた幼い頃から厳しい体育訓練を受けました。そのために女性もまたスパルタの戦士と同じように扱われており、一生を家の奥で過ごすアテナイ(現在のアテネ)の女性や他のポリスの女性と違って、スパルタの女性は権利と地位が認められていたのです。

このような非常に厳しい軍国主義を背景に、スパルタはアテナイと並ぶ代表的なポリスとなりました。

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