大正平成昭和現代社会

「甲子園」の歴史とは?阪神甲子園球場との関係を元大学教員が3分でわかりやすく解説

戦後に復活するも阪神・淡路大震災に遭遇

甲子園娯楽場ができたのが昭和4年。昭和天皇の即位を記念して甲子園で開催された、御大典記念国産新興阪神大博覧会の会場跡地につくられました。浜甲子園阪神パークと改名して遊園地としての機能を充実させていきますが、太平洋戦争の激化により閉鎖を余儀なくされます。

戦争中は海軍の飛行場として利用。終戦後、一部は住宅地に変わるものの、1951年に甲子園阪神パークとして復活します。動物園、水族館、スケート場などを備えた遊園地として愛されますが、阪神・淡路大震災にて被災。利用者が減っていたこともあり、平成15年に閉園しました。

甲子園阪神パークの目玉となったレオポン

甲子園阪神パークを一躍有名にしたのが動物園で飼育されていたレオポン。ヒョウの父親とライオン母親を異種交配した動物です。はじめて生まれたのはインド。ドイツやイタリアでも交配に成功していました。とはいえ、ほとんど例がない珍獣でだったため、世界から注目されることになりました。

甲子園阪神パークで生まれたレオポンは5頭。ヒョウの父親は甲子雄。ライオンの母親は園子。2頭から生まれた子どもは、レオ吉とポン子と名付けられました。そのあとに生まれた兄弟は、ジョニー、チェリー、ディジーと命名されます。

戦争に翻弄された甲子園大運動場

image by PIXTA / 65333516

今では甲子園のシンボルとも言える阪神甲子園球場。戦前は野球を中心にいろいろなスポーツを楽しめる場として、関西エリアに住んでいる人に愛されていました。それが太平洋戦争が激しくなるにつれて状況が一転。他の施設と同じように軍に接収されることになります。

テニスの聖地でもあった甲子園

甲子園大運動場は、野球以外に、陸上競技、テニス、競泳などが楽しめる大規模なスポーツセンターのようなところ。とくに有名だったのがテニスです。甲子園国際庭球倶楽部の一面に広がるテニスコートは当時「百面コート」と呼ばれ、多くのテニス愛好家に親しまれました。

昭和初期、テニス選手であった佐藤次郎が2年連続でウィンブルドン準決勝まで進み、世界ランキング3位まで登り詰めます。彼の活躍に日本中が熱狂し、空前のテニスブームが起こりました。そこで甲子園国際庭球倶楽部では、100人以上を収容できる寮や会議室を整備し、甲子園をテニスの聖地としていきます。

戦中・戦後の甲子園は軍事利用が続く

太平洋戦争が激しくなると、プロ野球による利用が停止され、すべての球場と競技場、関連する施設が軍に接収されることに。グラウンドの外野は軍のトラックを停める駐車場に、内野は芋畑に変わりました。周辺には、海軍の養成所、航空機の倉庫、部品を作る工場、青年学校などがつくられます。軍の施設が集まっていたことから空襲のターゲットとなりました。

戦後はアメリカ軍に接収。プロ・アマ問わず野球の試合の開催は禁止されていました。1947年からグラウンドとスタンドの一部が開放。中等学校野球やプロ野球の試合が再開されます。とはいえ、すべてが開放されたわけではなく、完全な接収の解除は1954年まで待つことになりました。広大な規模を誇った甲子園大運動場ですが、戦後は住宅地に変わったところが多く、敷地面積は縮小されました。

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