大正平成昭和現代社会

「甲子園」の歴史とは?阪神甲子園球場との関係を元大学教員が3分でわかりやすく解説

遊園地や動物園の建設もすすめる

阪神電鉄は、甲子園大運動場に続いて遊園地や動物園などの娯楽施設も充実させていきます。昭和初期の日本では、利用者を増やすため鉄道沿線に遊園地をつくることが流行。阪神電鉄も同じ目的で甲子園パークをつくります。昭和4年に完成しました。

当初の名前は甲子園娯楽場。昭和7年に動物園や水族館を備えた浜甲子園阪神パークと改称します。甲子園大運動場と浜甲子園阪神パークは関西を代表するレジャー施設として成長。これらに遊びに行くことが子どもの夢となりました。

もうひとつのシンボルが甲子園ホテル

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甲子園大運動場と共に甲子園のシンボルとなったのが甲子園ホテル。太平洋戦争が激しくなったことによりホテルとして経営されたのは14年ほどでした。和の要素を取り入れた近代的な洋館で、現在は国の登録有形文化財に登録されています。

フランク・ロイド・ライトの弟子による設計

甲子園ホテルを設計したのは遠藤新。幾何学的な装飾と流動的な空間を特徴とするモダニズムの建築家でした。遠藤はアメリカを代表する建築家のひとりであるフランク・ロイド・ライトの弟子としても知られています。

遠藤はもともと帝国ホテルの設計を依頼されたフランク・ロイド・ライトのもとで働いていました。ライトは費用をかけすぎることから依頼主と衝突、途中で解雇されてしまいます。そこで遠藤らがロイドの意志を次継いで帝国ホテルを完成させました。

太平洋戦争中は軍の施設に

帝国ホテルの別名は「西の帝国ホテル」。皇族、文化人、官僚、軍人など、各界の要人が宿泊するための施設として活躍しました。しかしながら1944年、国に接収されて海軍病院として利用されるように。終戦後はアメリカの進駐軍の将校の宿舎として使われました。

10年ほど利用されたあと、アメリカ進駐軍から返還された帝国ホテルは、しばらくのあいだ旧大蔵省が管理していましたが、1965年に学校法人である武庫川学院が譲り受けます。現在は、甲子園会館という名前で教室として利用。見学者も受け入れています。

甲子園阪神パークは戦後に復活

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甲子園阪神パークは、甲子園ホテルと同じように太平洋戦争中は軍に接収され、遊園地としての役目を果たせなくなります。戦後は住宅地や公園に変わり、その姿は失われそうになるものの、1951年に復活しました。

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