甲子園と聞くと現在の阪神甲子園球場を思い出す人が多いでしょう。甲子園には野球だけではなく大正時代から続く開発の歴史があり、野球場はその一部。最近は歴史館で関連した最新の情報や写真が紹介されているので時間があるときにホームページにアクセスして欲しい。

それじゃ、甲子園の歴史について高校野球の大会のほか西宮市の開発の状況など現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカ文化を専門とする元大学教員。小さい頃の自分にとって野球選手は憧れの存在。外野スタンドで選手を応援したこともある。朝の練習帰りの生徒によく会うこともあり、今年も甲子園出場をめぐって盛り上がった。そこで甲子園に関連する企業進出や高校野球の歴史を調べてみた。

甲子園とは?

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甲子園とは、兵庫県西宮市にある地名のこと。武庫川の支流である枝川を埋め立てたところにあります。枝川は埋め立てられたことにより存在しません。現在は、阪神タイガーズのホームグラウンドとして利用されている阪神甲子園球場のことも指します。

甲子園は阪急電鉄により開発された埋立地

甲子園の開発をすすめたのは阪神電鉄。明治32年に摂津電気鉄道株式会社という社名で設立された会社です。当初の甲子園は埋め立て地だったため何もないところ。そこで阪神電鉄は、明治末期より沿線を拡張しながら、遊園地および住宅地の開発をすすめていきました。

甲子園の中心となるのが阪神甲子園球場。そこをホームグラウンドとしている阪神タイガーズは、昭和10年に阪神電鉄が自ら設立した球団です。最初は株式会社大阪野球倶楽部という名称だったようですね。

住宅地・遊園地としても発展した甲子園

阪神電鉄は家族を呼び込むために現在の甲子園線沿線の土地を取得、住宅地と遊園地の造成に着手します。当時は、甲子園線の北側に住宅地を、南側に遊園地をつくるという計画でした。実際は南側にも住宅地が開発されました。

阪神電鉄の後を追って甲子園開発に参入したのが大林組。江戸時代末期に起源をもつ建設会社で、明治末期ごろから頭角をあらわします。大林組が開発した浜甲子園健康住宅地は、緑、郊外、健康をキーワードとする住宅地。和洋折衷のおしゃれな住宅が並びました。

甲子園大運動場の建設

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甲子園のシンボルとなるのが阪神甲子園球場。このルーツとなるのが甲子園大運動場です。野球人気が高まると共に、すでにある野球場では押し寄せる観客を収容できなくなりました。そこで阪神電鉄により建設されたのが甲子園大運動場でした。

高まる野球人気に後押しされて建設

現在の全国高校野球選手権のはじまりは大正6年からはじまった全国中等学校優勝野球大会です。当初の会場は、もともと競馬場だったという鳴尾球場。競馬トラックを改造して陸上競技場、プール、テニスコート、そして野球場をつくります。

こうした経緯から野球場の規模は大きなものではありませんでした。そのため野球人気が高まると共に観客を収容することが困難に。そこで甲子園の開発に着手していた阪神電鉄は、その中心地に甲子園大運動場を建設することにします。

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遊園地や動物園の建設もすすめる

阪神電鉄は、甲子園大運動場に続いて遊園地や動物園などの娯楽施設も充実させていきます。昭和初期の日本では、利用者を増やすため鉄道沿線に遊園地をつくることが流行。阪神電鉄も同じ目的で甲子園パークをつくります。昭和4年に完成しました。

当初の名前は甲子園娯楽場。昭和7年に動物園や水族館を備えた浜甲子園阪神パークと改称します。甲子園大運動場と浜甲子園阪神パークは関西を代表するレジャー施設として成長。これらに遊びに行くことが子どもの夢となりました。

もうひとつのシンボルが甲子園ホテル

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甲子園大運動場と共に甲子園のシンボルとなったのが甲子園ホテル。太平洋戦争が激しくなったことによりホテルとして経営されたのは14年ほどでした。和の要素を取り入れた近代的な洋館で、現在は国の登録有形文化財に登録されています。

フランク・ロイド・ライトの弟子による設計

甲子園ホテルを設計したのは遠藤新。幾何学的な装飾と流動的な空間を特徴とするモダニズムの建築家でした。遠藤はアメリカを代表する建築家のひとりであるフランク・ロイド・ライトの弟子としても知られています。

遠藤はもともと帝国ホテルの設計を依頼されたフランク・ロイド・ライトのもとで働いていました。ライトは費用をかけすぎることから依頼主と衝突、途中で解雇されてしまいます。そこで遠藤らがロイドの意志を次継いで帝国ホテルを完成させました。

太平洋戦争中は軍の施設に

帝国ホテルの別名は「西の帝国ホテル」。皇族、文化人、官僚、軍人など、各界の要人が宿泊するための施設として活躍しました。しかしながら1944年、国に接収されて海軍病院として利用されるように。終戦後はアメリカの進駐軍の将校の宿舎として使われました。

10年ほど利用されたあと、アメリカ進駐軍から返還された帝国ホテルは、しばらくのあいだ旧大蔵省が管理していましたが、1965年に学校法人である武庫川学院が譲り受けます。現在は、甲子園会館という名前で教室として利用。見学者も受け入れています。

甲子園阪神パークは戦後に復活

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甲子園阪神パークは、甲子園ホテルと同じように太平洋戦争中は軍に接収され、遊園地としての役目を果たせなくなります。戦後は住宅地や公園に変わり、その姿は失われそうになるものの、1951年に復活しました。

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戦後に復活するも阪神・淡路大震災に遭遇

甲子園娯楽場ができたのが昭和4年。昭和天皇の即位を記念して甲子園で開催された、御大典記念国産新興阪神大博覧会の会場跡地につくられました。浜甲子園阪神パークと改名して遊園地としての機能を充実させていきますが、太平洋戦争の激化により閉鎖を余儀なくされます。

戦争中は海軍の飛行場として利用。終戦後、一部は住宅地に変わるものの、1951年に甲子園阪神パークとして復活します。動物園、水族館、スケート場などを備えた遊園地として愛されますが、阪神・淡路大震災にて被災。利用者が減っていたこともあり、平成15年に閉園しました。

甲子園阪神パークの目玉となったレオポン

甲子園阪神パークを一躍有名にしたのが動物園で飼育されていたレオポン。ヒョウの父親とライオン母親を異種交配した動物です。はじめて生まれたのはインド。ドイツやイタリアでも交配に成功していました。とはいえ、ほとんど例がない珍獣でだったため、世界から注目されることになりました。

甲子園阪神パークで生まれたレオポンは5頭。ヒョウの父親は甲子雄。ライオンの母親は園子。2頭から生まれた子どもは、レオ吉とポン子と名付けられました。そのあとに生まれた兄弟は、ジョニー、チェリー、ディジーと命名されます。

戦争に翻弄された甲子園大運動場

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今では甲子園のシンボルとも言える阪神甲子園球場。戦前は野球を中心にいろいろなスポーツを楽しめる場として、関西エリアに住んでいる人に愛されていました。それが太平洋戦争が激しくなるにつれて状況が一転。他の施設と同じように軍に接収されることになります。

テニスの聖地でもあった甲子園

甲子園大運動場は、野球以外に、陸上競技、テニス、競泳などが楽しめる大規模なスポーツセンターのようなところ。とくに有名だったのがテニスです。甲子園国際庭球倶楽部の一面に広がるテニスコートは当時「百面コート」と呼ばれ、多くのテニス愛好家に親しまれました。

昭和初期、テニス選手であった佐藤次郎が2年連続でウィンブルドン準決勝まで進み、世界ランキング3位まで登り詰めます。彼の活躍に日本中が熱狂し、空前のテニスブームが起こりました。そこで甲子園国際庭球倶楽部では、100人以上を収容できる寮や会議室を整備し、甲子園をテニスの聖地としていきます。

戦中・戦後の甲子園は軍事利用が続く

太平洋戦争が激しくなると、プロ野球による利用が停止され、すべての球場と競技場、関連する施設が軍に接収されることに。グラウンドの外野は軍のトラックを停める駐車場に、内野は芋畑に変わりました。周辺には、海軍の養成所、航空機の倉庫、部品を作る工場、青年学校などがつくられます。軍の施設が集まっていたことから空襲のターゲットとなりました。

戦後はアメリカ軍に接収。プロ・アマ問わず野球の試合の開催は禁止されていました。1947年からグラウンドとスタンドの一部が開放。中等学校野球やプロ野球の試合が再開されます。とはいえ、すべてが開放されたわけではなく、完全な接収の解除は1954年まで待つことになりました。広大な規模を誇った甲子園大運動場ですが、戦後は住宅地に変わったところが多く、敷地面積は縮小されました。

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野球の聖地として発展し続ける阪神甲子園球場

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甲子園はスポーツ全般を楽しめるレジャー施設でしたが、徐々に野球に特化した施設へと形を変えていきます。甲子園大運動場は甲子園球場と名前を変え、昭和39年に阪神甲子園球と改称されました。1964年に現在の阪神甲子園球場という名前となります。

メディアにより盛り上げられた甲子園

現在の高校野球は、春に行われる選抜高校野球大会と夏に行われる全国高校野球選手権大会の2回。春の大会が初めて行われたのは1924年、夏の大会はそれより早く1915年に開始されました。夏の大会については、当初に会場は鳴尾球場でしたが第10回大会から甲子園で行われるようになりました。

戦後になると高校野球と甲子園の結びつきは特別なものになっていきます。春の大会は毎日新聞、夏の大会は朝日新聞が共催。日本の2大新聞が競う形で甲子園における試合を盛り上げていきました。さらにラジオ放送そしてテレビ放送が開始され、高校野球がより身近なものに。甲子園を目指す高校球児のストーリーが特集され、日本国民にとっても甲子園は特別な場所となりました。

阪神タイガースのホームグラウンドとして使用

阪神タイガースは甲子園と共に生まれたと言ってもいいでしょう。読売新聞の主導により大日本東京野球倶楽部が創立されたとき、誘いを受けた阪神電鉄が甲子園を本拠地とする球団を立ち上げたのが始まりです。当時の球団名は大阪タイガース。第二次世界大戦の前から、東京に拠点を置く巨人軍と争う強豪チームとして人気を博していました。

甲子園は歴史ある球場である分、老朽化が進んでいきます。ナイターに対応する、収容人数を増やす、グラウンドの大きさを見直すなど、段階的に改修が重ねられてきました。2007年から甲子園は大々的に改修され、アルプス、内野、外野スタンドを一新。雨の日に試合ができるようにドーム化する構想もありましたが、高校野球は青空の下でするのがふさわしいという意見が強かったことから見送られました。

甲子園から見えるのは日本の歴史

甲子園の歴史は明治、大正、昭和、さらには平成、令和と続きます。明治時代の甲子園は文明開化の影響が濃厚。昭和は太平洋戦争の影響も受けてきました。今では当初の甲子園の面影を残すところは限られていますが、それでもいろいろな形で残っています。機会があったら街を散策して住宅地・遊園地・レジャーランドを包括する甲子園プロジェクトの全貌に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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「甲子園」の歴史とは?阪神甲子園球場との関係を元大学教員が3分でわかりやすく解説

甲子園と聞くと現在の阪神甲子園球場を思い出す人が多いでしょう。甲子園には野球だけではなく大正時代から続く開発の歴史があり、野球場はその一部。最近は歴史館で関連した最新の情報や写真が紹介されているので時間があるときにホームページにアクセスして欲しい。

それじゃ、甲子園の歴史について高校野球の大会のほか西宮市の開発の状況など現代社会に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカ文化を専門とする元大学教員。小さい頃の自分にとって野球選手は憧れの存在。外野スタンドで選手を応援したこともある。朝の練習帰りの生徒によく会うこともあり、今年も甲子園出場をめぐって盛り上がった。そこで甲子園に関連する企業進出や高校野球の歴史を調べてみた。

甲子園とは?

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甲子園とは、兵庫県西宮市にある地名のこと。武庫川の支流である枝川を埋め立てたところにあります。枝川は埋め立てられたことにより存在しません。現在は、阪神タイガーズのホームグラウンドとして利用されている阪神甲子園球場のことも指します。

甲子園は阪急電鉄により開発された埋立地

甲子園の開発をすすめたのは阪神電鉄。明治32年に摂津電気鉄道株式会社という社名で設立された会社です。当初の甲子園は埋め立て地だったため何もないところ。そこで阪神電鉄は、明治末期より沿線を拡張しながら、遊園地および住宅地の開発をすすめていきました。

甲子園の中心となるのが阪神甲子園球場。そこをホームグラウンドとしている阪神タイガーズは、昭和10年に阪神電鉄が自ら設立した球団です。最初は株式会社大阪野球倶楽部という名称だったようですね。

住宅地・遊園地としても発展した甲子園

阪神電鉄は家族を呼び込むために現在の甲子園線沿線の土地を取得、住宅地と遊園地の造成に着手します。当時は、甲子園線の北側に住宅地を、南側に遊園地をつくるという計画でした。実際は南側にも住宅地が開発されました。

阪神電鉄の後を追って甲子園開発に参入したのが大林組。江戸時代末期に起源をもつ建設会社で、明治末期ごろから頭角をあらわします。大林組が開発した浜甲子園健康住宅地は、緑、郊外、健康をキーワードとする住宅地。和洋折衷のおしゃれな住宅が並びました。

甲子園大運動場の建設

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甲子園のシンボルとなるのが阪神甲子園球場。このルーツとなるのが甲子園大運動場です。野球人気が高まると共に、すでにある野球場では押し寄せる観客を収容できなくなりました。そこで阪神電鉄により建設されたのが甲子園大運動場でした。

高まる野球人気に後押しされて建設

現在の全国高校野球選手権のはじまりは大正6年からはじまった全国中等学校優勝野球大会です。当初の会場は、もともと競馬場だったという鳴尾球場。競馬トラックを改造して陸上競技場、プール、テニスコート、そして野球場をつくります。

こうした経緯から野球場の規模は大きなものではありませんでした。そのため野球人気が高まると共に観客を収容することが困難に。そこで甲子園の開発に着手していた阪神電鉄は、その中心地に甲子園大運動場を建設することにします。

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