「すべての道はローマに通ず」なんて故事があるほど有名なローマ帝国。その歴史は長く、なんと紀元前一世紀から1453年まで続いていたんです。
今回はそんな「ローマ帝国」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は世界帝国にまでなった古代のローマ帝国についてまとめた。

1.すべての道はローマへ通ず

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世界帝国ローマ

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Tataryn - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

紀元前一世紀半までに地中海全域を支配した広大なローマ帝国。イタリア以外を属州とし、最も安定を見せた二世紀の五賢帝時代には最大領土となりました。その領土は、イングランド・ウェールズのブリタニア、属州ガリア、エジプト、アフリカ北岸、小アジア、シリア、メソポタミア、イベリア半島にまで及びます。

あまりにも広大であったため、世界のどこからでも首都ローマに道が通じていたことから、物事が中心に向かって集中するたとえとして「すべての道はローマへ通ず」という故事までできました。さて、ローマはどのようにして巨大な世界帝国となったのでしょうか?

都市国家ローマを変えた男「カエサル」

イタリア半島の中部に位置するローマ。帝国としてヨーロッパに君臨する以前のローマは、市民から貴族にかけてすべての人々が政治になんらかの形で参加できる「共和政」を行う都市国家でした。それを根本的に変えようとしたのが、紀元前1世紀に登場した「ユリウス・カエサル」(以下カエサル)というひとりの野心あふれる政治家でした。

カエサルは巧みな弁舌で三頭政治を成立させて味方をつくり、また、非常に優れた指揮でガリア(現在のフランス、ベルギーあたり)を征服するなど数々の目覚ましい戦績を築き上げます。その功績と軍事力を背景に共和政の下で力を握っていた「元老院」を抑え込み、ついにカエサルは「独裁官(ディクタトル)」にまで上りつめました。そうして、カエサルの独裁政治のもと、それまでのローマの共和政は失われていったのです。

しかし、それに危機感や不満を爆発させた反カエサル派の人々によりカエサルは暗殺され、彼の野望は潰えてしまうのでした。

初代皇帝「アウグストゥス」の誕生

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カエサルを暗殺したはいいのですが、実際、有名無実化していた元老院には政治を引っ張る力はすでにありません。その代わりに、カエサルの部下だったアントニウスと、カエサルの養子・オクタビアヌスが反カエサル派を打倒し、今度はそのふたりがカエサルの後継者の座を巡って争い始めたのです。

そして、戦いに勝利したオクタビアヌスは、紀元前27年に元老院に「アウグストゥス」という称号を贈られ、ローマの初代皇帝となりました。「アウグストゥス」とは「尊厳者」という意味です。

以降、オクタビアヌスはアウグストゥスと呼ばれ、新しい政治形態をつくりあげました。

カエサルから受け継がれた「元首政」

アウグストゥスは、自らを「市民の中の第一人者」という意味の「プリンケプス」と呼ばれることを望みました。これは、以前の共和政におもねって、「アウグストゥスは市民の中から選ばれて統治を行う」という意思表示です。「プリンケプス」を日本語にすると「元首」という意味になります。

実際のところは、元老院や市民の市民会、執政官、護民官を継続させながらも、アウグストゥスという皇帝に権力を集中させた政治体制でした。

このような共和政を下敷きにした政治体制を、「元首政(プリンキパトゥス)」といいます。

また、カエサルとアウグストゥスの血をひく人物が以降、五代に渡って皇帝を務めたため、「ユリウス・クラウディウス朝」といいました。

2.五賢帝と「ローマによる平和」

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フラウィウス朝へ

ユリウス・クラウディウス朝の皇帝「カリグラ」や、最後の皇帝「ネロ」は常軌を逸した暴君として人望を失い、最後にネロは自害してしまいます。こうしてカエサルとアウグストゥスの血筋が絶え、次に皇帝に選ばれたのは60歳の軍人「ウェスパシアヌス」でした。ウェスパシアヌスからは三代に渡って続いた王朝を「フラウィウス朝」といいます。

そして、フラウィウス朝の三代目皇帝となった「ドミティアヌス」のころ、ローマはネロ以来の財政難に陥りました。そこでドミティアヌスは財源確保のために元老院の反対を押し切って人々に重税を課した上に、反対した人々を次々に処刑してしまったのです。

結果、こんなおそろしい皇帝はまっぴらごめんとばかりにドミティアヌスは暗殺されてしまい、フラウィウス朝はわずか三代限りとなってしまったのでした。

ところで、イタリアの世界遺産として知られる「コロセウム(円形闘技場)」ですが、建造がはじまったのはウェスパシアヌスの時代。ウェスパシアヌスの指示により建設がはじまり、完成したのはその息子・ティトウスの代でした。そこで剣闘士試合が行われ、人々は剣闘士たちの死闘を娯楽としたのです。

ローマ帝国の全盛期「五賢帝時代」

ローマ帝国が最も安定し、全盛期を迎えることになったのは、フラウィウス朝の後、「五賢帝」が治めた時代でした。

五賢帝は、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの五人。

ネルウァが即位した96年から、180年にマルクス・アウレリウス・アントニヌスまでの約100年間は政治が安定、ローマの領土が最大になりました。

アウグストゥスが元首政を確立した前27年から、五賢帝の時代までの約200年間、ローマ帝国が支配する地中海世界の平和を指して「ローマによる平和(パクス・ロマーナ)」といいます。

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アジアと地中海世界の交流

ローマが地中海で繁栄していた一世紀から二世紀の間、東アジアでは「後漢」が栄えていました。その後漢の歴史書『後漢書』によると、166年に「大秦王安敦の使者が日南郡(現在のベトナム)にやってきて貢物を献上した」と書かれています。

大秦王安敦は五賢帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスではないかとされていますが、しかし、ローマ帝国側の史書にこのような記述がありません。そのため、ローマの商人がマルクス・アウレリウス・アントニヌスの名前を騙って後漢と貿易をしようとしたのではないかと考えられています。

ただし、当時から使われていたシルクロードや、季節風を利用した交易がありました。特にインドの遺跡からローマの金貨が発掘されています。

セウェルス朝と「三世紀の危機」

最後の賢帝「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の時代になると、ゲルマン人や、アルケサス朝パルティア(古代イラン王朝)がローマに侵攻し、領土を脅かすようになりました。重ねて、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの後継者・コモンドゥスが悪政の末に暗殺されてしまいます。

その後、ローマの各地に「我こそが皇帝だ」と名乗るものが現れ、皇帝の座を巡って争いが巻き起こりました。その戦いで頭角をあらわした「セプティウス・セウェルス」が193年に即位し、セウェルス朝が開かれました。

しかし、後賢帝時代の末期から流行した天然痘や、軍人の高齢化、さらに各地で起こった反乱によってローマの軍団が人手不足に陥ります。

それに対応するため、二代目のカラカラ帝は帝国全領域に住む奴隷と降伏者以外のすべての自由民に「ローマ市民権」を与えることにしました。ローマ帝国は市民権の有無によって厳格な不平等があったのです。市民権の付与によりローマ領土内の民族や人種による差別を撤廃したのでした。

しかし、その効果は芳しくないどころか、ローマの弱体化をますます加速させました。帝国が衰えたことで「三世紀の危機」と呼ばれる大規模な動乱が起こることになります。

3.ローマ帝国、キリスト教を国教へ

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軍人皇帝時代の到来

「三世紀の危機」により、セウェルス朝では内紛が続いた結果、235年にセウェルス朝最後の皇帝セウェルス・アレクサンデルが暗殺されてしまいます。

その後、軍団が推薦する軍人が帝位につくという「軍人皇帝」の時代が到来しました。外敵が侵入問題が頻発する時代ではそうなってしまうのも必然かもしれませんね。

しかし、軍人皇帝の力は皇帝を推薦した軍団の力に左右されます。さらには一、二年で皇帝が暗殺されるなど不安定な状況が続きました。これによってローマ皇帝の権威は下がってしまったのです。

元首政から専制君主制へ移行

陰謀渦巻く軍人皇帝時代の混乱を収束させたのが軍人・ディオクレティアヌスです。彼はカリヌス帝を倒して皇帝になるとさっそく政治改革をはじめます。そうして、これを機会に従来の「元首政」から、「専制君主制(ドミナートゥス)」へと切り替えを行っていきました。

また、それと同時に「四分統治制(テトラルキア)」を開始。広大なローマ帝国を東西に二分した上で、それぞれを皇帝と副帝で治めるというものでした。

ただし、四人の皇帝がいるといっても、決定権はディオクレティアヌスが持ち、あとの三人はその代理として働く手足にすぎません。わざわざ領土を分割したのは、ローマ帝国内外の敵に素早く対応するためです。

コンスタンティヌス大帝

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Atzmonit - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

ディオクレティアヌスは動乱を治めた皇帝でしたがその退位後、四分統治によって皇帝・副皇帝となった四人が主導権を巡って争い、内戦に発展してしまいます。この内戦を勝ち抜き、ローマ帝国を統一したのは西の副皇帝「コンスタンティス」でした。彼はローマ帝国の皇帝たちのなかでも特に覚えておかなければならない重要人物です。

争いを治め、帝国を統一したコンスタンティヌスは、ソリドゥス金貨の発行や小作人(コロヌス)の異動の禁止などを行います。それと同時に、「ミラノ勅令」を発して当時信者を増やしていたキリスト教を公認したのです。

また、330年に首都をコンスタンティノープル(現在のトルコの都市イスタンブール)に遷します。

ローマ帝国とキリスト教徒

ディオクレティアヌスは皇帝の権威を高めるため自らをローマ神話の主神ユーピテルの子だと宣言し、「皇帝崇拝」を人々に強要します。しかし、当時のヨーロッパではキリスト教徒が増えていました。皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒に対し、ディオクレティアヌスは303年に最大となるキリスト教迫害を行ったのです。

それでもキリスト教徒の増加を阻止できなかったため、313年にコンスタンティヌスが「ミラノ勅令」によってキリスト教を公認。325年に「ニケーア公会議」を開いてキリスト教の教義を統一しました。

そうしてその後、392年にはテオドシウス帝がキリスト教を国教としたのです。

\次のページで「4.ローマ帝国の東西分裂」を解説!/

4.ローマ帝国の東西分裂

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Geuiwogbil at the English Wikipedia, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

西ローマ帝国と東ローマ帝国

キリスト教を国教化したテオドシウスが亡くなった395年、ローマ帝国に再び大きな変化が訪れます。テオドシウスの後継者として立ったのは長男・アルカディウスと次男・ホノリウス。ここでローマ帝国は、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂することになりました。

東ローマ帝国は引き続きコンスタンティノープルを首都に地中海や小アジアを支配、西ローマ帝国はローマなどを中心にイタリア半島やその周辺を支配します。

西ローマ帝国の滅亡

東西に分かれることとなったローマ帝国ですが、そのうち西ローマ帝国の寿命は長くはありません。西ローマ帝国は四世紀の「ゲルマン人の大移動」の影響をかねてより受けていました。

そうして、476年、ゲルマン人傭兵オドアケルの謀反によって西ローマ皇帝が追放され、西ローマ帝国は滅亡してしまいます。

東ローマ帝国のギリシャ化

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一方の東ローマ帝国もゲルマン人の侵攻を受けましたが、西ローマ帝国のような被害はありません。西ローマ帝国の滅亡後も健在でした。

その後、六世紀の「ユスティニアヌス」が領土を回復。国土は全盛期のローマ帝国の支配地域に近づき、東ローマ帝国は最盛期となりました。

けれど、ユスティニアヌス亡きあと、再び領土は縮小していき、ギリシャ、小アジア、バルカン半島が中心になります。そうしたなか国内のギリシャ化が進み、七世紀にはギリシャ語が公用語に使われるようになると「ローマ帝国」ではなく「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになりました。

また、726年に聖像禁止令が発布されたことを契機にローマのキリスト教会と対立。ビザンツ帝国のキリスト教は、アヤソフィア(ハギア・ソフィア)聖堂を総本山にした「ギリシャ正教(東方教会)」へと発展していきます。

ビザンツ帝国の衰退と滅亡

領土を縮小しながらも存続したビザンツ帝国。しかし、十一世紀になるとイスラム系のセルジューク朝に脅かされるようになりました。

セルジューク朝にキリスト教の聖地「イェルサレム」を占領されると、ビザンツ帝国は対立していたローマ教皇に十字軍の覇権を要請します。十字軍は無事に派遣されることになりましたが、ここで十字軍に首都・コンスタンティノープルを占拠されてしました。

この時点でビザンツ帝国がかなり弱っていることがわかりますね。大半の領土を失ったビザンツ帝国は「ニカイヤ帝国」など亡命政権をつくってなんとか生き延びます。そうして、1453年。東のオスマン帝国の侵略によって滅びるまでビザンツ帝国は存続していきました。ローマ帝国分裂から約1000年後のことです。

地中海に君臨し続けた大帝国

共和政から元首政へ移り変わり帝国となったローマ。紀元前のカエサルからはじまり、十五世紀までの長い間地中海世界に君臨し続けました。戦争で国土を拡大し、五賢帝の時代には「ローマによる平和」が実現されるなど、存在感を放ち続けましたね。

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ヨーロッパの歴史世界史

3分で簡単「ローマ帝国」パクス・ロマーナってなに?地中海に君臨した大帝国について歴史オタクがわかりやすく解説

4.ローマ帝国の東西分裂

西ローマ帝国と東ローマ帝国

キリスト教を国教化したテオドシウスが亡くなった395年、ローマ帝国に再び大きな変化が訪れます。テオドシウスの後継者として立ったのは長男・アルカディウスと次男・ホノリウス。ここでローマ帝国は、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂することになりました。

東ローマ帝国は引き続きコンスタンティノープルを首都に地中海や小アジアを支配、西ローマ帝国はローマなどを中心にイタリア半島やその周辺を支配します。

西ローマ帝国の滅亡

東西に分かれることとなったローマ帝国ですが、そのうち西ローマ帝国の寿命は長くはありません。西ローマ帝国は四世紀の「ゲルマン人の大移動」の影響をかねてより受けていました。

そうして、476年、ゲルマン人傭兵オドアケルの謀反によって西ローマ皇帝が追放され、西ローマ帝国は滅亡してしまいます。

東ローマ帝国のギリシャ化

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一方の東ローマ帝国もゲルマン人の侵攻を受けましたが、西ローマ帝国のような被害はありません。西ローマ帝国の滅亡後も健在でした。

その後、六世紀の「ユスティニアヌス」が領土を回復。国土は全盛期のローマ帝国の支配地域に近づき、東ローマ帝国は最盛期となりました。

けれど、ユスティニアヌス亡きあと、再び領土は縮小していき、ギリシャ、小アジア、バルカン半島が中心になります。そうしたなか国内のギリシャ化が進み、七世紀にはギリシャ語が公用語に使われるようになると「ローマ帝国」ではなく「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになりました。

また、726年に聖像禁止令が発布されたことを契機にローマのキリスト教会と対立。ビザンツ帝国のキリスト教は、アヤソフィア(ハギア・ソフィア)聖堂を総本山にした「ギリシャ正教(東方教会)」へと発展していきます。

ビザンツ帝国の衰退と滅亡

領土を縮小しながらも存続したビザンツ帝国。しかし、十一世紀になるとイスラム系のセルジューク朝に脅かされるようになりました。

セルジューク朝にキリスト教の聖地「イェルサレム」を占領されると、ビザンツ帝国は対立していたローマ教皇に十字軍の覇権を要請します。十字軍は無事に派遣されることになりましたが、ここで十字軍に首都・コンスタンティノープルを占拠されてしました。

この時点でビザンツ帝国がかなり弱っていることがわかりますね。大半の領土を失ったビザンツ帝国は「ニカイヤ帝国」など亡命政権をつくってなんとか生き延びます。そうして、1453年。東のオスマン帝国の侵略によって滅びるまでビザンツ帝国は存続していきました。ローマ帝国分裂から約1000年後のことです。

地中海に君臨し続けた大帝国

共和政から元首政へ移り変わり帝国となったローマ。紀元前のカエサルからはじまり、十五世紀までの長い間地中海世界に君臨し続けました。戦争で国土を拡大し、五賢帝の時代には「ローマによる平和」が実現されるなど、存在感を放ち続けましたね。

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