4.ローマ帝国の東西分裂
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西ローマ帝国と東ローマ帝国
キリスト教を国教化したテオドシウスが亡くなった395年、ローマ帝国に再び大きな変化が訪れます。テオドシウスの後継者として立ったのは長男・アルカディウスと次男・ホノリウス。ここでローマ帝国は、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂することになりました。
東ローマ帝国は引き続きコンスタンティノープルを首都に地中海や小アジアを支配、西ローマ帝国はローマなどを中心にイタリア半島やその周辺を支配します。
西ローマ帝国の滅亡
東西に分かれることとなったローマ帝国ですが、そのうち西ローマ帝国の寿命は長くはありません。西ローマ帝国は四世紀の「ゲルマン人の大移動」の影響をかねてより受けていました。
そうして、476年、ゲルマン人傭兵オドアケルの謀反によって西ローマ皇帝が追放され、西ローマ帝国は滅亡してしまいます。
東ローマ帝国のギリシャ化
一方の東ローマ帝国もゲルマン人の侵攻を受けましたが、西ローマ帝国のような被害はありません。西ローマ帝国の滅亡後も健在でした。
その後、六世紀の「ユスティニアヌス」が領土を回復。国土は全盛期のローマ帝国の支配地域に近づき、東ローマ帝国は最盛期となりました。
けれど、ユスティニアヌス亡きあと、再び領土は縮小していき、ギリシャ、小アジア、バルカン半島が中心になります。そうしたなか国内のギリシャ化が進み、七世紀にはギリシャ語が公用語に使われるようになると「ローマ帝国」ではなく「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになりました。
また、726年に聖像禁止令が発布されたことを契機にローマのキリスト教会と対立。ビザンツ帝国のキリスト教は、アヤソフィア(ハギア・ソフィア)聖堂を総本山にした「ギリシャ正教(東方教会)」へと発展していきます。
ビザンツ帝国の衰退と滅亡
領土を縮小しながらも存続したビザンツ帝国。しかし、十一世紀になるとイスラム系のセルジューク朝に脅かされるようになりました。
セルジューク朝にキリスト教の聖地「イェルサレム」を占領されると、ビザンツ帝国は対立していたローマ教皇に十字軍の覇権を要請します。十字軍は無事に派遣されることになりましたが、ここで十字軍に首都・コンスタンティノープルを占拠されてしました。
この時点でビザンツ帝国がかなり弱っていることがわかりますね。大半の領土を失ったビザンツ帝国は「ニカイヤ帝国」など亡命政権をつくってなんとか生き延びます。そうして、1453年。東のオスマン帝国の侵略によって滅びるまでビザンツ帝国は存続していきました。ローマ帝国分裂から約1000年後のことです。
地中海に君臨し続けた大帝国
共和政から元首政へ移り変わり帝国となったローマ。紀元前のカエサルからはじまり、十五世紀までの長い間地中海世界に君臨し続けました。戦争で国土を拡大し、五賢帝の時代には「ローマによる平和」が実現されるなど、存在感を放ち続けましたね。