アジアと地中海世界の交流
ローマが地中海で繁栄していた一世紀から二世紀の間、東アジアでは「後漢」が栄えていました。その後漢の歴史書『後漢書』によると、166年に「大秦王安敦の使者が日南郡(現在のベトナム)にやってきて貢物を献上した」と書かれています。
大秦王安敦は五賢帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスではないかとされていますが、しかし、ローマ帝国側の史書にこのような記述がありません。そのため、ローマの商人がマルクス・アウレリウス・アントニヌスの名前を騙って後漢と貿易をしようとしたのではないかと考えられています。
ただし、当時から使われていたシルクロードや、季節風を利用した交易がありました。特にインドの遺跡からローマの金貨が発掘されています。
セウェルス朝と「三世紀の危機」
最後の賢帝「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の時代になると、ゲルマン人や、アルケサス朝パルティア(古代イラン王朝)がローマに侵攻し、領土を脅かすようになりました。重ねて、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの後継者・コモンドゥスが悪政の末に暗殺されてしまいます。
その後、ローマの各地に「我こそが皇帝だ」と名乗るものが現れ、皇帝の座を巡って争いが巻き起こりました。その戦いで頭角をあらわした「セプティウス・セウェルス」が193年に即位し、セウェルス朝が開かれました。
しかし、後賢帝時代の末期から流行した天然痘や、軍人の高齢化、さらに各地で起こった反乱によってローマの軍団が人手不足に陥ります。
それに対応するため、二代目のカラカラ帝は帝国全領域に住む奴隷と降伏者以外のすべての自由民に「ローマ市民権」を与えることにしました。ローマ帝国は市民権の有無によって厳格な不平等があったのです。市民権の付与によりローマ領土内の民族や人種による差別を撤廃したのでした。
しかし、その効果は芳しくないどころか、ローマの弱体化をますます加速させました。帝国が衰えたことで「三世紀の危機」と呼ばれる大規模な動乱が起こることになります。
軍人皇帝時代の到来
「三世紀の危機」により、セウェルス朝では内紛が続いた結果、235年にセウェルス朝最後の皇帝セウェルス・アレクサンデルが暗殺されてしまいます。
その後、軍団が推薦する軍人が帝位につくという「軍人皇帝」の時代が到来しました。外敵が侵入問題が頻発する時代ではそうなってしまうのも必然かもしれませんね。
しかし、軍人皇帝の力は皇帝を推薦した軍団の力に左右されます。さらには一、二年で皇帝が暗殺されるなど不安定な状況が続きました。これによってローマ皇帝の権威は下がってしまったのです。
元首政から専制君主制へ移行
陰謀渦巻く軍人皇帝時代の混乱を収束させたのが軍人・ディオクレティアヌスです。彼はカリヌス帝を倒して皇帝になるとさっそく政治改革をはじめます。そうして、これを機会に従来の「元首政」から、「専制君主制(ドミナートゥス)」へと切り替えを行っていきました。
また、それと同時に「四分統治制(テトラルキア)」を開始。広大なローマ帝国を東西に二分した上で、それぞれを皇帝と副帝で治めるというものでした。
ただし、四人の皇帝がいるといっても、決定権はディオクレティアヌスが持ち、あとの三人はその代理として働く手足にすぎません。わざわざ領土を分割したのは、ローマ帝国内外の敵に素早く対応するためです。
コンスタンティヌス大帝
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ディオクレティアヌスは動乱を治めた皇帝でしたがその退位後、四分統治によって皇帝・副皇帝となった四人が主導権を巡って争い、内戦に発展してしまいます。この内戦を勝ち抜き、ローマ帝国を統一したのは西の副皇帝「コンスタンティス」でした。彼はローマ帝国の皇帝たちのなかでも特に覚えておかなければならない重要人物です。
争いを治め、帝国を統一したコンスタンティヌスは、ソリドゥス金貨の発行や小作人(コロヌス)の異動の禁止などを行います。それと同時に、「ミラノ勅令」を発して当時信者を増やしていたキリスト教を公認したのです。
また、330年に首都をコンスタンティノープル(現在のトルコの都市イスタンブール)に遷します。
ローマ帝国とキリスト教徒
ディオクレティアヌスは皇帝の権威を高めるため自らをローマ神話の主神ユーピテルの子だと宣言し、「皇帝崇拝」を人々に強要します。しかし、当時のヨーロッパではキリスト教徒が増えていました。皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒に対し、ディオクレティアヌスは303年に最大となるキリスト教迫害を行ったのです。
それでもキリスト教徒の増加を阻止できなかったため、313年にコンスタンティヌスが「ミラノ勅令」によってキリスト教を公認。325年に「ニケーア公会議」を開いてキリスト教の教義を統一しました。
そうしてその後、392年にはテオドシウス帝がキリスト教を国教としたのです。
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