社会運動の活発化
第一次世界大戦の終結、国際連盟の発足など世界はめぐるましく動いていきます。第一次世界大戦後の日本では、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国への物資を輸送する輸出産業が盛んになり、それに成功した「成金」と呼ばれる裕福層が出てきました。
けれど、この好景気もヨーロッパの復興が終わるまで。これからもバンバン輸出しようと目論んで新しい工場を建てたのに物が売れない、なんてことが起こり、一転して不景気に突入します。それと同時に、都市部では「労働運動」が盛んになり、農村では「小作争議」が起こりました。どちらも労働者が団結して雇い主に労働条件の改善などの権利を求めた運動・争議です。その結果、1920年に第一回メーデーが開かれたり、農民のための「日本農民組合」が発足しました。
また、女性に選挙権を与えるよう「女性解放運動」も活発になり、「平塚雷鳥」や「市川房枝」が女性参政権を求めて活躍しました。さらに日本共産党が結党されます。これはソ連の共産党とは違いますので、気を付けてください。
普通選挙法の実施
10万人におよぶ死者を出した関東大震災の翌1924年、普通選挙制を求める「第二次護憲運動」がはじまります。この運動によって加藤内閣が発足し、1925年、ついに「普通選挙法」が発布されました。
普通選挙法により、それまで狭かった選挙権が「満25歳以上のすべての成人男子」が持つことになります。残念ながら、この時点ではまだ女性に選挙権はありません。女性の参政権は太平洋戦争終結後の1945年までお預けとなりました。けれど、選挙権が拡大したことは、国民にとって非常によろこばしいことです。
その一方で、加藤内閣は普通選挙法の影に隠れるように「治安維持法」を制定します。これは、社会主義者や無政府主義者、果ては平和主義者に自由主義者、その他政府に逆らった人物を逮捕、拷問でき、時には処刑すらできてしまうという恐ろしい法律です。
国民の権利が飛躍した時代
普通選挙制を求め二度にわたる「護憲運動」が起こった大正時代は、政治を国民の手の届くものへと変えていこうという民主主義のへ発展「大正デモクラシー」の時代でした。途中で第一次世界大戦をはさみ、日本は世界と肩を並べる国へなっていくなか、国民も自分たちの権利のために戦ったのです。
そうして、普通選挙法成立の翌年、大正天皇の崩御によって大正時代は幕を閉じ、次の昭和へと移り変わっていったのでした。