激動の明治時代のあとに訪れた「大正」は、その名前を冠した「大正デモクラシー」が印象的です。ですが、この「大正デモクラシー」はどういったものだったんでしょうな?ついでに、大正の短い間にいったいどんなことが起こったのか。
今回は「大正」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。これまでさまざまな時代の解説を行ってきた。今回はさらに現代に近づいた「大正」の情勢についてまとめる。

1.民主主義の実現を願う大正デモクラシー

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江戸時代、明治時代に続いたのが、大正時代明治天皇の崩御により大正元年が1912年に始まり、大正天皇の崩御で1926年の大正15年で幕を閉じた大正時代。その年数は日本の時代区分のなかでもっとも短い14年でした。安土桃山時代と平成時代が30年なので、その半分ほどですね。

さて、この短い期間に日本と、日本を取り巻く世界ではいったい何が起こっていたのでしょうか。

第一次護憲運動が活発に

当時の内閣は、明治維新の際に倒幕の功績があった長州藩や薩摩藩出身の議員でなる藩閥勢力や、立憲政友会という政党が交互して務めていました。ところが、長州出身の桂太郎が三度目の内閣を結成したときのこと。彼は国会の原則を無視して内閣総理大臣となったため、藩閥勢力を中心に大正天皇をかこって政権の独占を考えているのではないか、と多くの政治家や知識人が反発することになります。

「尾崎行雄」らは「閥族打倒、憲政擁護」を掲げ、憲法に従った政治を望む「第一次護憲運動」をはじめ、全国に波及していきました。この運動を受けた桂太郎内閣は最初こそ対抗しようとしましたが、運動が弱まる気配はなく、議会を人々が包囲するなか辞職することになります。また、護憲運動を主導した尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれ、のちには普通選挙制を訴える運動を起こす重要人物です。

吉野作造「民本主義」と美濃部達吉「天皇機関説」

東京帝国大学(現在の東京大学)の教授「吉野作造」は、1914年に「民本主義」を発表しました。

「民本主義」には「政治は一部の特権階級のためにあるのではなく、国民みんなの幸福のためにある」「政策決定は民意に基づくべきだ」と書かれています。「民本主義」の内容は現代の「民主主義」とほぼ同じで、当たり前のことですよね。しかし、当時の状況を考えてみてください。選挙権は「直接国税15円以上納める満25歳以上の成年男子」にのみ限られ、該当者は日本の人口の1%程度しかいません。内閣も藩閥勢力や立憲政友会といった一部の人物が握るばかり。まったく国民が携われる政治ではなかったのです。

また、同大学の教授「美濃部達吉」は「天皇機関説」を唱えます。これは「国家は法律によって人格を与えられたものであり、国家の機関がその意思の決定を行う。日本に置いて意思決定の最高機関は天皇だ」という主張です。実はこの主張は、従来の天皇の立場の考えを変えるものでした。

これまでは「天皇は日本神話の神々の子孫で、天皇の地位は神によって与えられた」とされてきました。ところが、「天皇機関説」では「天皇の地位は法律によって保証されたもの」ということになります。「天皇機関説」は、1935年に弾圧を受けるまで、一部をのぞいた人々に広く受け入れられました。

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2.第一次世界大戦の勃発

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ヨーロッパの火薬庫「バルカン半島」

ここで一度、当時の世界状況を見てみましょう。ヨーロッパ諸国では、激しい植民地争いが繰り広げられています。特に地中海の沿岸に位置する「バルカン半島」はヨーロッパとアジアの境界にあり、白人と黄色人種の対立に、キリスト教徒とイスラム教徒の対立、その他多くの紛争が絶えませんでした。いつ爆発して世界に飛び火するか恐れられ「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたのです。

そんな状況下、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、当時のオーストリア領サラエボを訪問中にセルビア人の青年に暗殺される「サラエボ事件」が起こりました。この事件をきっかけにオーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に宣戦布告します。オーストリア=ハンガリー帝国の宣戦布告をきっかけに、他のヨーロッパ諸国が次々に参戦。戦争はヨーロッパを舞台にした「第一次世界大戦」へと発展していくのです。

日英同盟を利用して日本も参戦

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このとき、日本はイギリスと「日英同盟」を結んでいました。日英同盟は、「どちらかが一国を相手に戦争をしているときは、一方は中立の立場を守る」「どちらかが二国以上と戦争をするときは、味方として参戦する」というものです。第一次世界大戦の主戦場はヨーロッパであり、地理的に遠い日本には関係のない戦争でしたが、イギリスが第一次世界大戦に参加していたことから、日本は同盟に基づいて無理矢理に参加することにしました。

でも、ヨーロッパから遠い日本に何ができるでしょうか?そこには日本のズル賢い思惑があったのです。

中華民国政府に「二十一か条の要求」

日清戦争、辛亥革命などで弱っていた中国は、ヨーロッパ諸国に多くの領土を持っていかれ、基地などが置かれていました。日本はイギリスの敵・ドイツを攻撃する名目で中国に駐屯するドイツ基地へ出兵したのです。

中国の基地を潰したところで、第一次世界大戦への影響はさほどありません。では、その狙いはなんだったのでしょうか。ヨーロッパ諸国は第一次世界大戦で手一杯になっているこの状況で、中国へ目を向けている暇はありませんよね。ヨーロッパ諸国の隙をついて日本は中国への利権拡大を狙ったのでした。そうして、中華民国政府に「二十一か条の要求」を突きつけます。そして、まんまとこれが通ってしまうわけですね。

泥沼化した第一次世界大戦

さて、第一次世界大戦がどうなったのか。この大戦ではそれまでになかった飛行機(偵察目的)、戦車、毒ガス、ドイツの潜水艦などが登場します。特に毒ガスが猛威をふるって多くの死者が出ました。さらに、舞台がヨーロッパだったこともあり、戦争は泥沼化。しかも、民間人を巻き込んだ「総力戦」になっていました。

そんななか、1917年のロシア革命がおこり、ロシアが大戦から離脱。さらにドイツがイギリスに仕掛けた「無制限潜水艦作戦」によってアメリカ人の犠牲が出たことで、アメリカがモンロー主義(ヨーロッパでの戦争に口を挟まないようにしていた)を捨てて参戦。戦況は一変して連合国有利に傾き、1918年に連合国の勝利で終わります。

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パリ講和会議でベルサイユ条約締結

第一次世界大戦が終わり、その講和会議がパリで行われることとなりました。パリのベルサイユ宮殿で、敗戦国となったドイツに対して結ばれた条約を「ベルサイユ条約」といいます。

その内容は、莫大な賠償金に全海外領土の没収、一部の領土割譲などがかなり厳しいものとなりました。この条件を課してしまうと、ドイツがかなりの貧困で喘ぐことになります。一部の人々はこの条約が次の戦争のきっかけになるのではないかと危惧したほどです。そして、実際、20年後に「第二次世界大戦」という悲劇を巻き起こしたのでした。

3.社会主義の広まり

ソビエト連邦の旗
СССР - http://pravo.levonevsky.org/. Construction sheet: File:Construction sheet of the flag of the Soviet Union.png., パブリック・ドメイン, リンクによる

ロシア革命と社会主義のはじまり

1917年、第一次世界大戦の最中、ロシアで「レーニン」による「ロシア革命」が起こりました。これによってロシアを治めていたロマノフ朝が崩壊。世界初の社会主義の国「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」が誕生します。

「社会主義」とは、「みんな平等が第一」の思想です。なので、王様や貴族のような身分はありません。そして、国民が生産した食料や商品、稼いだお金もなにもかも、一度すべて国のものにしてから、国民に同じ数だけ分配して貧富の差を失くすというシステムを取っていました。非常に平等な仕組みですね。

社会主義を危険視してシベリア出兵

社会主義の「王様はいらない」という考えは、天皇を戴く日本や、王様のいるイギリスには脅威となります。また社会主義と相反する資本主義のアメリカ、フランスなどの国々にとってもソ連は非常に厄介な国でした。そのため、「革命軍に囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分を掲げて1918年に「シベリア出兵」を開始。革命政府を倒そうとしました。

一方、そのとき日本では「米騒動」と呼ばれる暴動が起こります。シベリア出兵が決まると聞いた商人たちがお米の買い占めを行いました。出兵に際して政府は兵士たちの食料となるお米を買う必要がありますので、商人たちは政府に高く売ることを目的に買い占めたのです。その結果、商人たちの思惑通りお米の価格が上がり、一般家庭の生活に大きな影響を与えます。

それに怒ったのは主婦たちでした。富山県の魚津の主婦たちが集まり、米屋を襲撃したのです。この襲撃事件が報道されると、それを知った全国各地の主婦たちが同じように米屋を襲うようになりました。この一連の騒動を「米騒動」といいます。

平民宰相「原敬」

米騒動の責任を取って当時の内閣が総辞職すると、次に総理大臣となったのは平民出身の「原敬」でした。彼は長州や薩摩の出身でも、貴族でもありません。本当にただの平民から内閣総理大臣になったのです。そのため日本で最初の本格的な政党内閣となり、「平民宰相」と呼ばれて人々に歓迎されました。

ところが、原敬は人々の望みとは裏腹に、特権階級に甘い政策を打ち出します。そのため、原敬暗殺事件が起こり、原内閣は三年で終わってしまったのです。

\次のページで「4.普通選挙制の道のり」を解説!/

4.普通選挙制の道のり

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社会運動の活発化

第一次世界大戦の終結、国際連盟の発足など世界はめぐるましく動いていきます。第一次世界大戦後の日本では、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国への物資を輸送する輸出産業が盛んになり、それに成功した「成金」と呼ばれる裕福層が出てきました。

けれど、この好景気もヨーロッパの復興が終わるまで。これからもバンバン輸出しようと目論んで新しい工場を建てたのに物が売れない、なんてことが起こり、一転して不景気に突入します。それと同時に、都市部では「労働運動」が盛んになり、農村では「小作争議」が起こりました。どちらも労働者が団結して雇い主に労働条件の改善などの権利を求めた運動・争議です。その結果、1920年に第一回メーデーが開かれたり、農民のための「日本農民組合」が発足しました。

また、女性に選挙権を与えるよう「女性解放運動」も活発になり、「平塚雷鳥」や「市川房枝」が女性参政権を求めて活躍しました。さらに日本共産党が結党されます。これはソ連の共産党とは違いますので、気を付けてください。

普通選挙法の実施

10万人におよぶ死者を出した関東大震災の翌1924年、普通選挙制を求める「第二次護憲運動」がはじまります。この運動によって加藤内閣が発足し、1925年、ついに「普通選挙法」が発布されました。

普通選挙法により、それまで狭かった選挙権が「満25歳以上のすべての成人男子」が持つことになります。残念ながら、この時点ではまだ女性に選挙権はありません。女性の参政権は太平洋戦争終結後の1945年までお預けとなりました。けれど、選挙権が拡大したことは、国民にとって非常によろこばしいことです。

その一方で、加藤内閣は普通選挙法の影に隠れるように「治安維持法」を制定します。これは、社会主義者や無政府主義者、果ては平和主義者に自由主義者、その他政府に逆らった人物を逮捕、拷問でき、時には処刑すらできてしまうという恐ろしい法律です。

国民の権利が飛躍した時代

普通選挙制を求め二度にわたる「護憲運動」が起こった大正時代は、政治を国民の手の届くものへと変えていこうという民主主義のへ発展「大正デモクラシー」の時代でした。途中で第一次世界大戦をはさみ、日本は世界と肩を並べる国へなっていくなか、国民も自分たちの権利のために戦ったのです。

そうして、普通選挙法成立の翌年、大正天皇の崩御によって大正時代は幕を閉じ、次の昭和へと移り変わっていったのでした。

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大正日本史

3分で簡単「大正」大正デモクラシーって何?たった15年の時代?歴史オタクがわかりやすく解説

4.普通選挙制の道のり

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社会運動の活発化

第一次世界大戦の終結、国際連盟の発足など世界はめぐるましく動いていきます。第一次世界大戦後の日本では、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国への物資を輸送する輸出産業が盛んになり、それに成功した「成金」と呼ばれる裕福層が出てきました。

けれど、この好景気もヨーロッパの復興が終わるまで。これからもバンバン輸出しようと目論んで新しい工場を建てたのに物が売れない、なんてことが起こり、一転して不景気に突入します。それと同時に、都市部では「労働運動」が盛んになり、農村では「小作争議」が起こりました。どちらも労働者が団結して雇い主に労働条件の改善などの権利を求めた運動・争議です。その結果、1920年に第一回メーデーが開かれたり、農民のための「日本農民組合」が発足しました。

また、女性に選挙権を与えるよう「女性解放運動」も活発になり、「平塚雷鳥」や「市川房枝」が女性参政権を求めて活躍しました。さらに日本共産党が結党されます。これはソ連の共産党とは違いますので、気を付けてください。

普通選挙法の実施

10万人におよぶ死者を出した関東大震災の翌1924年、普通選挙制を求める「第二次護憲運動」がはじまります。この運動によって加藤内閣が発足し、1925年、ついに「普通選挙法」が発布されました。

普通選挙法により、それまで狭かった選挙権が「満25歳以上のすべての成人男子」が持つことになります。残念ながら、この時点ではまだ女性に選挙権はありません。女性の参政権は太平洋戦争終結後の1945年までお預けとなりました。けれど、選挙権が拡大したことは、国民にとって非常によろこばしいことです。

その一方で、加藤内閣は普通選挙法の影に隠れるように「治安維持法」を制定します。これは、社会主義者や無政府主義者、果ては平和主義者に自由主義者、その他政府に逆らった人物を逮捕、拷問でき、時には処刑すらできてしまうという恐ろしい法律です。

国民の権利が飛躍した時代

普通選挙制を求め二度にわたる「護憲運動」が起こった大正時代は、政治を国民の手の届くものへと変えていこうという民主主義のへ発展「大正デモクラシー」の時代でした。途中で第一次世界大戦をはさみ、日本は世界と肩を並べる国へなっていくなか、国民も自分たちの権利のために戦ったのです。

そうして、普通選挙法成立の翌年、大正天皇の崩御によって大正時代は幕を閉じ、次の昭和へと移り変わっていったのでした。

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