着物と刀のイメージの強い江戸時代から明治時代への転換は、それはもうすさまじい急変ぶりだった。なんたって約250年も続いた江戸幕府が倒れたんだからな。明治は覚えることが多いぞ。
今回は「明治」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。これまでさまざまな時代の解説を行ってきた。今回はより現代に近づいた「明治」の情勢についてまとめる。

1.江戸幕府から明治政府へ

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邨田丹陵, Tanryō Murata - 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸時代の末期に「尊王攘夷運動」が盛んになるなか、1867年に江戸幕府の十五代将軍「徳川慶喜」が政権を天皇に返す「大政奉還」が行われました。これによって江戸時代は265年の長い歴史に幕を下ろしたのです。

新たな明治政府と王政復古の大号令

江戸幕府が政権を返還したことにより、再び天皇を頂点とする時代が戻ってきました。新たに立った明治政府はこのことを日本中に知らしめる「王政復古の大号令」を宣言します。

明治政府は頂点を明治天皇としますが、当時の明治天皇は十五歳。政治を主導するのにはあまりにも若く、代わりを務める人員が必要になります。その側近となったのが、公家の「岩倉具視」や「三条実美」です。他にも、倒幕の功績があった薩摩藩の「大久保利通」「西郷隆盛」、長州藩の「木戸孝允(桂小五郎)」「伊藤博文」、土佐藩の「板垣退助」、肥前藩の「大隈重信」が明治政府の中心となりました。

このなかでも特に西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三人を「維新の三傑」といいます。

\次のページで「旧幕臣たちとの戊辰戦争」を解説!/

旧幕臣たちとの戊辰戦争

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江戸時代から明治時代へ、政権が将軍から天皇へと移って終わりではありません。江戸時代の終わりに浦賀の黒船来航によって日本は開国を余儀なくされ、欧米諸国(ヨーロッパ諸国とアメリカ)を意識しなくてはならなくなりました。当時の欧米諸国はアジアやアフリカを植民地化しており、日本もその脅威にさらされていたのです。日本を植民地とされないため、明治政府は欧米諸国に並べるような政策を立てる必要がありました。

しかし、国が一丸となって欧米諸国に対抗しなければならないのですが、幕府がなくなったとはいえ、徳川家や幕府の旧幕臣たちが急にいなくなったわけではありません。身分はなくなっても徳川家は大きな財力と多くの土地を持つ非常に厄介な相手でした。しかも、旧幕臣たちは、新政府の徳川慶喜への処遇を不満に思っていたのです。

そうして、1868年。その不満が爆発し、とうとう新政府軍と旧幕府軍が京都で衝突することになりました。これが「戊辰戦争」です。しかし、旧幕府軍の大将となるはずだった徳川慶喜は早々に江戸に退却。さらに元幕府の軍艦奉行「勝海舟」と西郷隆盛の話し合いによって戦うことなく江戸城は「無血開城」されることに。これによって江戸は新政府の支配下に置かれることになります。

もちろん、無血開城に納得のいかない旧幕臣たちはたくさんいました。彼らは江戸からさらに北上して東北の会津、そして、箱館(現在の函館)の五稜郭で最後まで戦ったのです。そうして、彼らが新政府軍に敗れたことで戊辰戦争がようやく終わり、明治政府が日本を背負う政府になったのでした。

2.明治政府の方針と政策

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五箇条の御誓文と五榜の掲示

戊辰戦争を終わらせた明治政府は次に、日本の行く末を定める基本方針を決めます。まず最初に発表したのが下記の「五箇条の御誓文」でした。カッコの中身は噛み砕いて訳したものです。

一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
(政府は人々の意見を聞いて会議で物事を決めよう)

一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ
(身分関係なく心を一つにして国を治めよう)

一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
(誰であれ、それぞれの責任をまっとうして、その意思を達成しよう)

一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ
(かつての習慣はやめ、道理にあった方法で政治を行おう)

一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべ
(世界から新しいことを学んで天皇の治めるこの国が栄えるようがんばりましょう)

この五箇条の御誓文と同時に、政府は民衆に向けて「五榜の掲示」という五枚の立て札を掲げます。五榜の掲示は下記の通りです。

第一札:五倫道徳遵守
(道徳を守りなさい)

第二札:徒党・強訴・逃散禁止
(徒党を組んで政府に反抗してはいけません)

第三札:切支丹・邪宗門厳禁
(キリスト教を禁止します)

第四札:万国公法履行
(外国人への暴力は禁止です)

第五札:郷村脱走禁止
(住んでいるところから勝手に逃げてはいけません

新たに「五榜の掲示」として掲げたとはいえ、これはあまり江戸幕府が民衆に禁止していたこととかわりませんね。

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スローガン「富国強兵」

また、明治政府は欧米列強に追いつくために「富国強兵」というスローガンを唱えました。国を豊かに、そして、軍事力を強く持つという意味ですね。

このスローガンを実現するため、最初に手を付けたのが機械製工業や鉄道網整備などの殖産興業です。この方針によって1872年、日本初の官営模範工場(国が運営する国立の工場)として群馬県に「富岡製糸場」がつくられます。

中央集権を目指して「廃藩置県」

戊辰戦争で旧幕臣たちの力を削いだはいいものの、各地の討幕派の藩主(大名)たちは健在のままです。江戸時代、地方は彼ら藩主たちによる「地方分権」によって治められていましたし、藩主たちはこれからも同じように地方を治めるものだと思っていました。

しかし、明治政府が目指すのは「天皇中心の政治」、つまり「中央集権」です。そのためには、藩主たちから天皇に土地や人民を譲渡させる必要がありました。

そのために行われたのが1871年の「廃藩置県」です。文字通り、政府は各地の藩を廃止して県を設置しました。

義務教育のはじまり「学制」

豊かな国をつくるためには、民衆の教育レベルを上げる必要がありますよね。計算ができなければ商売ができず、日本語が怪しければ簡単な交渉ひとつままなりませんから。そこで、明治政府は民衆に義務教育を受けるように、1872年に「学制」を発布します。これによって六歳以上のすべての男女が小学校へ行って勉強することになりました。

税も米から現金へ「地租改正」

それまで人々は税をお米で納めていました。しかし、天候や物価の変動の影響で、お米の価値は一定ではありません。政府の税収入にするにも、税が不安定なお米では心もとなかったのです。

そこで、明治政府は税をお米から現金に変更したのでした。これによって土地の所有者は、持っている土地の値段の3%を現金で納めることになります。これを「地租改正」といいました。

国民皆兵を目指して「徴兵令」

財政を整えたら、今度は富国強兵の「強兵」の部分ですよね。兵隊を確保するため、明治政府は、1873年に満二十歳以上のすべての男子に兵役の義務を課す「徴兵令」を発布しました。徴兵令には大きな反発が起こったために免除規定もできますが、1889年には「国民皆兵」が実現したのです。

町並みも一変「文明開化」

明治政府は政治だけでなく、町の近代化も進めたため、それまでの町の様子も大変身することに。町並みはレンガ造りの西洋風の建物が立ち並び、ガス灯(街灯)が夜道を明るく照らします。また、人々は洋服を着るようになり、以前はまったく口にしなかった牛肉をお鍋(牛鍋)にして食べるようになりました。

さらに新橋から横浜間に日本初の鉄道が通ったり、暦も西洋にならって太陽暦(現在使われているものです)が使われ始めます。

3.国会、憲法、内閣の成立

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板垣退助と西郷隆盛の離脱

着々と日本を変えていく明治政府ですが、ここで板垣退助が「征韓論」を唱えたのを境に、板垣退助と西郷隆盛が政府の他のメンバーと袂を分かつことになりました。

政府を去った後の板垣退助は、言葉を武器に政府に立ち向かうことにします。彼は、明治政府は「藩閥政治」を行っていると非難しました。「藩閥政治」とは、倒幕に携わった藩の代表者ばかりで固めて政治を行っているということ。確かに、板垣退助の言う通りです。

さらに彼は選挙で議員を選んで「国会」をつくるべきだという訴えを書いた「民撰議院設立建白書」を政府に出しました。そして、板垣退助は国会開設を求めて「自由民権運動」をはじめ、「立志社」を結成して言論活動を行っていきます。

一方、鹿児島に帰った西郷隆盛は静かに暮らしていました。その間、明治政府に対して不満を募らせていた士族による反乱はいくつも起こりましたが、西郷隆盛はそれらに加担することなく、私学校をつくったりと郷里に貢献しています。

ところが、1877年、私学校の生徒が政府の火薬庫を襲う事件が起こりました。この情報が政府と西郷隆盛の間にもたらされ、西郷隆盛がとうとう矢面に立つしかなくなったのです。みるみるうちに彼の周りに人が集まり、かつての薩摩藩の武士たちと明治政府軍による「西南戦争」がはじまってしまいました。そうして八ヶ月後、西郷隆盛の自害により薩摩の武士たちの敗北で西南戦争は幕を下ろしたのです。

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国会の開設、憲法規定

板垣退助がはじめた自由民権運動は人々の間に広がり、八万人以上の国会開設と憲法制定の要求の著名が集まります。世情は自由民権運動の強い味方となり、ついに1881年「国会開設の詔」が明治天皇より発せられ、10年後に国会の開設を約束しました。

板垣退助は10年後に備えて「自由党」を結成、さらに大隈重信は「立憲改進党」を結成します。

一方、憲法のほうは、伊藤博文をヨーロッパに派遣して各国の憲法を調べさせました。そうして、国王の権利(君主権)が強いドイツの憲法を参考に憲法をつくることになります。

日本初の内閣と大日本帝国憲法

国会の開設や憲法の制定にあたって、まず明治政府は内閣をつくることにしました。ヨーロッパに派遣された「伊藤博文」が日本の初代内閣総理大臣に任命されます。

そうして、1889年に「大日本帝国憲法」が発布されたのです。大日本帝国憲法はアジア初の近代的な憲法でした。これよって、日本は天皇のもとで憲法に従って国を運営していくことになります。天皇(君主)のもとで憲法に従うという政治の形態を「立憲君主制」といいました。

第一回議員総選挙

さて、いよいよ念願の選挙が行われるようになり、1890年に第一回衆議院総選挙が行われました。選挙で国会議員が選ばれ、彼らが国民の代表として政治を行うわけですね。

しかし、当時の選挙権を持っている人は非常に少なかったのです。それもこれも選挙権を持つのは「直接国税15円以上を納める満25歳以上の成人男子」というとても狭い条件が課されたためでした。

当時の15円を現代の価値に換算するとだいたい40~60万円程度……なのですが、そのころの政府予算が1億円ほどだったことを鑑みて、現代の感覚では年間1200~1300万円以上に相当する、という見解があります。

当時の日本にそれほどの税金を払っている人は、人口の1%ほどしかいませんでした。さらに女性に至っては戦後になるまで選挙権はありません。

そんな狭い条件ではありましたが、それでも選挙によって選ばれた衆議院議員たちによって、第一回帝国議会が開かれたのです。これは近代国家への大きな一歩でした。

不平等な条約の改正

国会、憲法、内閣、選挙、と着実に近代国家へ近づいていく日本。そうなると、やっぱり外国と結んだ不平等な条約の解消をしておきたいところですよね。

そんな矢先の1886年、イギリスの貨物船ノルマントン号が和歌山県沖で座礁し、沈没するという事態が起こりました。この船には日本人の乗客25名が乗船していましたが、イギリス人船長はイギリス人の船員と乗客はみんな救出したのに、日本人を誰一人として助けなかったのです。これを「ノルマントン号事件」といいます。

そんな非情なことが起こったにもかかわらず、日本はイギリスと結んだ不平等条約のせいでイギリス人船長を罪に問うことはできませんでした。それで不平等条約の解消を重要視した日本はイギリスと粘り強く交渉し、「日英通商航海条約」が結ばれます。これによって事件から八年後の1894年、ついに領事裁判権を撤廃することができたのです。以降、他の欧米諸国とも条約の改正が行われました。

欧米列強に追いつけ、日本

武士の時代が終わり、日本はいよいよ近代へと突入していきました。明治政府はアジアを植民地にしていく欧米列強に日本を植民地化されないため、必死になってくらいつこうと日本を変えていきます。急変する環境で不満を抱いた人々も少なく、戊辰戦争や西南戦争など内乱が起こりました。明治政府はそれらを治めつつ、外国と肩を並べるよう国会や憲法をつくり、ついには不平等条約の改正にこぎつけたのです。

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日本史明治

3分で簡単にわかる「明治」!近代化への扉?江戸時代からの急変を歴史オタクがわかりやすく解説

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今回は「明治」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。これまでさまざまな時代の解説を行ってきた。今回はより現代に近づいた「明治」の情勢についてまとめる。

1.江戸幕府から明治政府へ

Taisehokan.jpg
邨田丹陵, Tanryō Murata – 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる

江戸時代の末期に「尊王攘夷運動」が盛んになるなか、1867年に江戸幕府の十五代将軍「徳川慶喜」が政権を天皇に返す「大政奉還」が行われました。これによって江戸時代は265年の長い歴史に幕を下ろしたのです。

新たな明治政府と王政復古の大号令

江戸幕府が政権を返還したことにより、再び天皇を頂点とする時代が戻ってきました。新たに立った明治政府はこのことを日本中に知らしめる「王政復古の大号令」を宣言します。

明治政府は頂点を明治天皇としますが、当時の明治天皇は十五歳。政治を主導するのにはあまりにも若く、代わりを務める人員が必要になります。その側近となったのが、公家の「岩倉具視」や「三条実美」です。他にも、倒幕の功績があった薩摩藩の「大久保利通」「西郷隆盛」、長州藩の「木戸孝允(桂小五郎)」「伊藤博文」、土佐藩の「板垣退助」、肥前藩の「大隈重信」が明治政府の中心となりました。

このなかでも特に西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三人を「維新の三傑」といいます。

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