

今回は「明治」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。これまでさまざまな時代の解説を行ってきた。今回はより現代に近づいた「明治」の情勢についてまとめる。
1.江戸幕府から明治政府へ
邨田丹陵, Tanryō Murata – 明治神宮聖徳記念絵画館, パブリック・ドメイン, リンクによる
江戸時代の末期に「尊王攘夷運動」が盛んになるなか、1867年に江戸幕府の十五代将軍「徳川慶喜」が政権を天皇に返す「大政奉還」が行われました。これによって江戸時代は265年の長い歴史に幕を下ろしたのです。
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新たな明治政府と王政復古の大号令
江戸幕府が政権を返還したことにより、再び天皇を頂点とする時代が戻ってきました。新たに立った明治政府はこのことを日本中に知らしめる「王政復古の大号令」を宣言します。
明治政府は頂点を明治天皇としますが、当時の明治天皇は十五歳。政治を主導するのにはあまりにも若く、代わりを務める人員が必要になります。その側近となったのが、公家の「岩倉具視」や「三条実美」です。他にも、倒幕の功績があった薩摩藩の「大久保利通」「西郷隆盛」、長州藩の「木戸孝允(桂小五郎)」「伊藤博文」、土佐藩の「板垣退助」、肥前藩の「大隈重信」が明治政府の中心となりました。
このなかでも特に西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三人を「維新の三傑」といいます。
旧幕臣たちとの戊辰戦争

江戸時代から明治時代へ、政権が将軍から天皇へと移って終わりではありません。江戸時代の終わりに浦賀の黒船来航によって日本は開国を余儀なくされ、欧米諸国(ヨーロッパ諸国とアメリカ)を意識しなくてはならなくなりました。当時の欧米諸国はアジアやアフリカを植民地化しており、日本もその脅威にさらされていたのです。日本を植民地とされないため、明治政府は欧米諸国に並べるような政策を立てる必要がありました。
しかし、国が一丸となって欧米諸国に対抗しなければならないのですが、幕府がなくなったとはいえ、徳川家や幕府の旧幕臣たちが急にいなくなったわけではありません。身分はなくなっても徳川家は大きな財力と多くの土地を持つ非常に厄介な相手でした。しかも、旧幕臣たちは、新政府の徳川慶喜への処遇を不満に思っていたのです。
そうして、1868年。その不満が爆発し、とうとう新政府軍と旧幕府軍が京都で衝突することになりました。これが「戊辰戦争」です。しかし、旧幕府軍の大将となるはずだった徳川慶喜は早々に江戸に退却。さらに元幕府の軍艦奉行「勝海舟」と西郷隆盛の話し合いによって戦うことなく江戸城は「無血開城」されることに。これによって江戸は新政府の支配下に置かれることになります。
もちろん、無血開城に納得のいかない旧幕臣たちはたくさんいました。彼らは江戸からさらに北上して東北の会津、そして、箱館(現在の函館)の五稜郭で最後まで戦ったのです。そうして、彼らが新政府軍に敗れたことで戊辰戦争がようやく終わり、明治政府が日本を背負う政府になったのでした。

江戸から明治へ。日本史における大きな転換期のひとつだな。
五箇条の御誓文と五榜の掲示
戊辰戦争を終わらせた明治政府は次に、日本の行く末を定める基本方針を決めます。まず最初に発表したのが下記の「五箇条の御誓文」でした。カッコの中身は噛み砕いて訳したものです。
一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ(政府は人々の意見を聞いて会議で物事を決めよう)
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ(身分関係なく心を一つにして国を治めよう)
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス(誰であれ、それぞれの責任をまっとうして、その意思を達成しよう)
一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ(かつての習慣はやめ、道理にあった方法で政治を行おう)
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべ(世界から新しいことを学んで天皇の治めるこの国が栄えるようがんばりましょう)
この五箇条の御誓文と同時に、政府は民衆に向けて「五榜の掲示」という五枚の立て札を掲げます。五榜の掲示は下記の通りです。
第一札:五倫道徳遵守(道徳を守りなさい)
第二札:徒党・強訴・逃散禁止(徒党を組んで政府に反抗してはいけません)
第三札:切支丹・邪宗門厳禁(キリスト教を禁止します)
第四札:万国公法履行(外国人への暴力は禁止です)
第五札:郷村脱走禁止(住んでいるところから勝手に逃げてはいけません
新たに「五榜の掲示」として掲げたとはいえ、これはあまり江戸幕府が民衆に禁止していたこととかわりませんね。
スローガン「富国強兵」
また、明治政府は欧米列強に追いつくために「富国強兵」というスローガンを唱えました。国を豊かに、そして、軍事力を強く持つという意味ですね。
このスローガンを実現するため、最初に手を付けたのが機械製工業や鉄道網整備などの殖産興業です。この方針によって1872年、日本初の官営模範工場(国が運営する国立の工場)として群馬県に「富岡製糸場」がつくられます。
中央集権を目指して「廃藩置県」
戊辰戦争で旧幕臣たちの力を削いだはいいものの、各地の討幕派の藩主(大名)たちは健在のままです。江戸時代、地方は彼ら藩主たちによる「地方分権」によって治められていましたし、藩主たちはこれからも同じように地方を治めるものだと思っていました。
しかし、明治政府が目指すのは「天皇中心の政治」、つまり「中央集権」です。そのためには、藩主たちから天皇に土地や人民を譲渡させる必要がありました。
そのために行われたのが1871年の「廃藩置県」です。文字通り、政府は各地の藩を廃止して県を設置しました。
義務教育のはじまり「学制」
豊かな国をつくるためには、民衆の教育レベルを上げる必要がありますよね。計算ができなければ商売ができず、日本語が怪しければ簡単な交渉ひとつままなりませんから。そこで、明治政府は民衆に義務教育を受けるように、1872年に「学制」を発布します。
これによって六歳以上のすべての男女が小学校へ行って勉強することになりました。
税も米から現金へ「地租改正」
それまで人々は税をお米で納めていました。しかし、天候や物価の変動の影響で、お米の価値は一定ではありません。政府の税収入にするにも、税が不安定なお米では心もとなかったのです。
そこで、明治政府は税をお米から現金に変更したのでした。これによって土地の所有者は、持っている土地の値段の3%を現金で納めることになります。これを「地租改正」といいました。
国民皆兵を目指して「徴兵令」
財政を整えたら、今度は富国強兵の「強兵」の部分ですよね。兵隊を確保するため、明治政府は、1873年に満二十歳以上のすべての男子に兵役の義務を課す「徴兵令」を発布しました。
徴兵令には大きな反発が起こったために免除規定もできますが、1889年には「国民皆兵」が実現したのです。
町並みも一変「文明開化」
明治政府は政治だけでなく、町の近代化も進めたため、それまでの町の様子も大変身することに。
町並みはレンガ造りの西洋風の建物が立ち並び、ガス灯(街灯)が夜道を明るく照らします。また、人々は洋服を着るようになり、以前はまったく口にしなかった牛肉をお鍋(牛鍋)にして食べるようになりました。
さらに新橋から横浜間に日本初の鉄道が通ったり、暦も西洋にならって太陽暦(現在使われているものです)が使われ始めます。

江戸幕府と打って変わって外国を意識する明治政府。欧米列強に植民地にされないためという大義もあって、改革は急速に進められていくぞ。