
今回は「生類憐れみの令」について徳川綱吉やそのまわりの人物、時代背景を交えながら歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回は猫飼いの私が五代目将軍徳川綱吉が発令した「生類憐みの令」についてまとめた。
1.どんな悪法だった?「生類憐みの令」

江戸時代前期、五代目将軍「徳川綱吉」が1687年(貞享4年)から1709年(宝永6年)まで続けたとされる「生類憐みの令」。天下の悪法なんてたいへん評判が悪く、徳川綱吉自身も「犬将軍」や「犬公方」なんて別名がつく始末。それほどまでの悪法とはいったいどんなものだったのでしょうか?
動物から魚介類、人間まで保護した「生類憐みの令」政策
「生類憐みの令」が定められ、町触(幕府や大名から領内の住民に発せられた法令のこと)として出されたとされるのが1687年とされています(現在生類憐みの令のスタート時について諸説存在する)。
幕府より打ち出された法令は絶対ですから、どんな内容であれ、施行されたなら日本国民はいみんな従わなければなりません。
「生類憐みの令」で保護対象となったのは、犬、猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類、そして捨て子や病人、高齢者でした。動物愛護の法令というイメージがありますが、実は人間も保護対象になっていたのです。
このお触れが出た最初の趣旨としては「無闇な殺生を禁止することで、人々の仁心を育てよう」というもの。確かに意味のない殺生は良くないことで、この目的は立派なものでした。しかし、なにごとも行き過ぎるとロクなことにはならないのです。
大規模な犬小屋建設、莫大な維持費
「生類憐みの令」で特に手厚く保護されたのが犬です。当時、江戸市中に爆発的に野良犬が増えていたこともあって、幕府は犬たちを収容するための施設をつくりました。そうすることで狂犬病の犬や猛犬を住民から隔離し、子犬などの保護ができたからです。犬たちが収容された大きな犬小屋は「御用屋敷」や「御囲」と呼ばれ、幕府の管理下で育てられました。
さて、この犬小屋は大久保や四谷、中野に建てられ、特に江戸の中野の御用屋敷には多い時で10万匹もの犬が収容されていたとか。そんなにたくさんの犬を養う維持費や人手は馬鹿になりませんよね。まず、犬小屋を建設するために幕府の財政が悪化。さらに、犬たちの餌代として一日50俵ものお米が必要だったとされており、犬小屋の莫大な維持費用を江戸の町人たちから徴収することにしたのです。
肉も魚も食べちゃダメ!動物に芸を仕込んで見世物にするのもダメ!

捨て子の禁止などで、子どもを遺棄することが悪いことだという認識を人々に与えた一方、鳥や鹿、魚など動物を食用にすることも禁止しています。もちろん、動物の売買も禁止です。
それまで食べていたものが急に食べられなくなるというのは、単に食事の種類が減ることだけではありません。現在のような食料の輸入や大量生産が難しい時代ですから、食べられるものが減ることは、飢餓に近づくということ。野菜で代用できる地域はまだいいですが、狩猟や漁業を生業としていた人たちにはたまったものではありませんね。
また、当時は動物に芸を仕込んで人々に見せて収入を得る見世物小屋がありました。そこでは犬だけでなく、蛇使いや鼠使いなど珍しい芸も見せられていたのです。しかし、動物の芸を見世物にすることが禁止され、それを生活の糧とする芸人たちの生活もまた立ち行かなくなってしまいました。
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