ガリア平定と著書『ガリア戦記』
背後の憂いを断ったカエサルはガリアへ戻って遠征を続けます。一時はライン川を越えたり、さらには英仏海峡を越えてブリテン島(現在のイギリス)へも侵入するなど怒涛の快進撃を見せたのです。
紀元前52年には、ガリア人アルウェルニ族の族長・ウェルキンゲトリクスと最後であり、ガリア戦争最大となる「アレシアの戦い」に挑みます。カエサルはウェルキンゲトニクスに苦戦を強いられながらもなんとかこの戦いで勝利をおさめました。そうして、前58年から前50年にわたって続けられたカエサルのガリア遠征の結果、ガリア全土がローマの属州となったのです。
また、カエサルがガリア戦争について自ら著した『ガリア戦記』は、ガリア戦争の貴重な記録であり、非常に優れたラテン文学作品として知られています。
三頭政治、崩壊
ルッカの会談でカエサルはクラッススとポンペイウスらと今後争いが起こらないように別々の土地を勢力圏としようと決めていました。そうして、ガリア戦争が終わり、カエサルが無事ガリアを獲得すると、今度はクラッススが東の地へと遠征をはじめます。
ローマの東、シリアはルッカの会談でクラッススがもらった勢力圏です。そこへ隣国のアルケサス朝パルティア(古代イラン王朝)がシリアへの影響を強めてきたため、クラッススはシリアへの遠征を決行したのでした。ところが、この遠征でクラッススは不名誉な戦死を遂げてしまいます。
クラッススの死は、カエサルが作った三頭政治崩壊の引き金となりました。残されたポンペイウスは元老院と結託をはじめ、カエサルと対立することになったのです。
そして紀元前49年、カエサルのガリア属州総督解任をきっかけに、カエサル対ポンペイウス・元老院の内乱(ローマ内戦)へと突入していきました。
ポンペイウスのエジプト逃亡
カエサルが軍を率いてローマに帰還したことで、ポンペイウスと元老院は慌ててローマを放棄。ポンペイウスの本拠地だったギリシャへ逃げて行きました。ローマを得たカエサルはその後、彼らを追ってギリシァで戦ったため、ポンペイウスはさらにエジプトへと逃亡をはかります。
当時のエジプトは、ギリシャのアレクサンダー大王(イスカンダル)の後継者のひとりプトレマイオスの子孫が支配するプトレマイオス朝でした。ついでにプトレマイオス13世と、その姉・クレオパトラ7世が対立して内紛が勃発していた時代です。
ポンペイウスがプトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアへ上陸しようとしたときのこと。ポンペイウスの逃亡を知っていたプトレマイオス13世の部下は、地中海の覇権を握りつつあるカエサルに有利な取り引きを持ちかけようと企み、先にポンペイウスを殺害してしまうのです。
クレオパトラとの出会い
ピエトロ・ダ・コルトーナ – Musée des Beaux-Arts de Lyon, パブリック・ドメイン, リンクによる
カエサルがエジプトに到着したのはその四日後のこと。このときプトレマイオス13世と側近たちは、政敵クレオパトラがカエサルに接近しないように注意していました。カエサルは女たらしとしても有名でたくさんの愛人がいたのです。
しかし、クレオパトラはカエサルへ捧げられる絨毯の中に身をひそめて会い、カエサルの心を射止めてしまいます。そうして、カエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世の和解を仲介しようとしましたが、プトレマイオス13世がカエサルの軍を攻撃を開始し「アレクサンドリア戦争」が勃発しました。
アレクサンドリア戦争でカエサルは苦戦を強いられるものの、辛くもプトレマイオス13世の軍を破ってエジプトを制圧。翌年、クレオパトラと、もうひとりの弟・プトレマイオス14世がエジプトを共同統治させることにします。けれど、共同統治とはしたものの、プトレマイオス14世は名ばかりの統治者であり、実際はクレオパトラがファラオ(王)としてひとりで統治していました。
\次のページで「すべての反対勢力を一掃、独裁官へ」を解説!/