共和政治と元老院
都市国家ローマの建国は紀元前753年のこと。しかしながら、このころから共和政というわけではなく、王様が治める「王政ローマ」でした。共和政を行うようになったのは紀元前509年、最後の王・タルクィニウスを追放したことにより始まります。
王政ローマから「共和政ローマ」へ移行し、政治は、「執政官(コンスル)」を中心にした貴族共和政となりました。そこへさらに市民だけで構成する「平民会」と、そこから選出された「護民官」が執政官や元老院の決定を拒否できる権利を持つようになり、ローマの政治は貴族のみの共和政から市民が参加できる共和政国家になります。
また、この共和政の他に、貴族から選出された議員による「元老院」という機関が置かれました。初期のころの元老院は執政官の諮問機関でしたが、時代をへるにつれて影響力が肥大し、外交や財政などの決定権を持つ実質的なローマの統治機関となっていきます。実際、カエサルが政治家として活動するとき、最初の壁となったのがこの元老院です。
民衆派の叔父の死から亡命へ
カエサルがまだ政治家として立ってもいない青年期のころ、ローマの政治は非常に不安定な状態にありました。議会は、市民会を基盤とする「民衆派」と、元老院の寡頭政治を支持する「閥族派」に割れていたのです。
その民衆派の中心人物だったガイウス・マリウス(以下マリウス)の妻だったのがカエサルの叔母にあたる女性でした。そして、カエサルの妻もまた民衆派のキンナの娘です。そのため、カエサルは若い頃から民衆派として見られていました。
民衆派と閥族派の争いは激化の一途をたどり、マリウスが病に倒れると閥族派のルキウス・コルネリウス・スッラ(以下スッラ)がローマを制圧。スッラが民衆派を粛正した際に、粛正リストにはカエサルの名前もあったのです。
けれど、このときカエサルは結婚こそしているもののまだ二十歳にもならず政治的な活動を一切行っていません。そのため、スッラの支持者たちも若すぎるカエサルの助命をするよう嘆願したのです。スッラは命は助ける代わりに、キンナの娘との離婚をカエサルに要求しました。
それで命ばかりは助かるのですが、カエサルは離婚を拒否して小アジア方面へ亡命することにしたのです。カエサルがローマに戻れたのは紀元前78年にスッラが亡くなったあとのことでした。
カエサルのキャリアップ
ローマに戻ったカエサルは、軍事司令官に選出されると政治家キャリアへと足を踏み出します。そして、持ち前の弁舌でもって財務官、上級按察官、最高神祇官などを歴任し、ついには執政官に立候補するまでになりました。
執政官となるために、カエサルは目の上のたんこぶだった元老院に対抗する勢力をつくる必要があります。そこで、同じく元老院と対立していたマルクス・リキニウス・クラッスス(以下クラッスス)とグナエウス・ポンペイウス(以下ポンペイウス)と秘密裏に接触、同じ感情を抱きながらも仲の悪かったふたりを説得して紀元前60年に「第一回三頭政治」を成立させたのでした。
そうして、クラッススとポンペイウスの支持を受けたカエサルは無事に執政官に当選。執政官となった彼は元老院の反対を押し切って農地法を改正した他、元老院の会議録を市民に公表するように強制して、元老院の議員たちがうかつに発言できないようにしたのです。
ローマの拡大を目指してガリア戦争
カエサルが一年の執政官の任期を終えた翌年のこと。彼は前執政官(プロコンスル)となり、ガリアの属州総督と軍事指揮権を与えられました。
ガリアは現在のフランス、ベルギーのあたりで、ケルト系のガリア人が住んでいた地域を指します。アルプス以南のガリア(ガリア・キサルピナ)はすでにローマの支配下にありましたが、以北(ガリア・トランサルピナ)は依然としてローマの力が及ばず、ガリア人の部族間で抗争やゲルマン人の侵入が絶えない場所でした。
カエサルは軍事力を用いて、以北の平定に乗り出したのです。こうして始まった「ガリア戦争」でカエサルは度重なる遠征でガリア人の敵対部族と、ライン川を越えて侵入を繰り返すゲルマン人を撃退。本国でのカエサルの名声はうなぎ登りとなりました。
ところが、それが面白く思えないのがカエサルに煮え湯を飲まされてきた元老院です。元老院の議員たちは、カエサルのいない間に三頭政治を瓦解させてやろうと企みました。しかし、その動きはカエサルもわかっていたのでしょう。彼はルッカ(イタリア北西の都市)でクラッススとポンペイウスとの会談(ルッカの会談)をひらきます。そこでふたりを執政官に選出することや、ふたりが望む権限を与える代わりに、カエサルのガリアの指揮権を五年間延長する約束を交わしたのでした。
\次のページで「ガリア平定と著書『ガリア戦記』」を解説!/