紀元前一世紀頃、都市国家ローマで活躍した「ユリウス・カエサル」は知っているか?優秀な政治家で軍人、さらに『ガリア戦記』といった本も書いた作家でもある。それに、彼は「古代ローマ最大の野心家」と呼ばれ、当時のローマの政治体制に大きな影響を及ぼしたんです。
今回はこの「ユリウス・カエサル」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代のヨーロッパ、ローマの重要人物のひとり「ユリウス・カエサル」についてまとめた。

1.都市国家ローマ生まれのユリウス・カエサル

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ユリウス・カエサルは、英語では「Julius Caesar」と書くため、英語読みの「ジュリアス・シーザー」と表記されることがあります。ただし、本記事ではユリウス・カエサルと統一して進めました。

政治家で軍人で文筆家のユリウス・カエサル

ユリウス・カエサルは政治家であり、軍人であり、また優れた文筆家という三つの顔を持った人物です。

そんな彼が生まれたのは紀元前100年ごろのイタリア半島中部に位置する都市国家ローマ。当時のローマは共和制政治といって選挙によって役人(政務官)を決めていました。カエサルも政治家になるにあたって選挙で当選し、やがて軍事司令官や独裁官としてローマの頂点に立つことになります。

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共和政治と元老院

都市国家ローマの建国は紀元前753年のこと。しかしながら、このころから共和政というわけではなく、王様が治める「王政ローマ」でした。共和政を行うようになったのは紀元前509年、最後の王・タルクィニウスを追放したことにより始まります。

王政ローマから「共和政ローマ」へ移行し、政治は、「執政官(コンスル)」を中心にした貴族共和政となりました。そこへさらに市民だけで構成する「平民会」と、そこから選出された「護民官」が執政官や元老院の決定を拒否できる権利を持つようになり、ローマの政治は貴族のみの共和政から市民が参加できる共和政国家になります。

また、この共和政の他に、貴族から選出された議員による「元老院」という機関が置かれました。初期のころの元老院は執政官の諮問機関でしたが、時代をへるにつれて影響力が肥大し、外交や財政などの決定権を持つ実質的なローマの統治機関となっていきます。実際、カエサルが政治家として活動するとき、最初の壁となったのがこの元老院です。

民衆派の叔父の死から亡命へ

カエサルがまだ政治家として立ってもいない青年期のころ、ローマの政治は非常に不安定な状態にありました。議会は、市民会を基盤とする「民衆派」と、元老院の寡頭政治を支持する「閥族派」に割れていたのです。

その民衆派の中心人物だったガイウス・マリウス(以下マリウス)の妻だったのがカエサルの叔母にあたる女性でした。そして、カエサルの妻もまた民衆派のキンナの娘です。そのため、カエサルは若い頃から民衆派として見られていました。

民衆派と閥族派の争いは激化の一途をたどり、マリウスが病に倒れると閥族派のルキウス・コルネリウス・スッラ(以下スッラ)がローマを制圧。スッラが民衆派を粛正した際に、粛正リストにはカエサルの名前もあったのです。

けれど、このときカエサルは結婚こそしているもののまだ二十歳にもならず政治的な活動を一切行っていません。そのため、スッラの支持者たちも若すぎるカエサルの助命をするよう嘆願したのです。スッラは命は助ける代わりに、キンナの娘との離婚をカエサルに要求しました。

それで命ばかりは助かるのですが、カエサルは離婚を拒否して小アジア方面へ亡命することにしたのです。カエサルがローマに戻れたのは紀元前78年にスッラが亡くなったあとのことでした。

2.元老院を抑え、第一回三頭政治開始

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カエサルのキャリアップ

ローマに戻ったカエサルは、軍事司令官に選出されると政治家キャリアへと足を踏み出します。そして、持ち前の弁舌でもって財務官、上級按察官、最高神祇官などを歴任し、ついには執政官に立候補するまでになりました。

執政官となるために、カエサルは目の上のたんこぶだった元老院に対抗する勢力をつくる必要があります。そこで、同じく元老院と対立していたマルクス・リキニウス・クラッスス(以下クラッスス)とグナエウス・ポンペイウス(以下ポンペイウス)と秘密裏に接触、同じ感情を抱きながらも仲の悪かったふたりを説得して紀元前60年に「第一回三頭政治」を成立させたのでした。

そうして、クラッススとポンペイウスの支持を受けたカエサルは無事に執政官に当選。執政官となった彼は元老院の反対を押し切って農地法を改正した他、元老院の会議録を市民に公表するように強制して、元老院の議員たちがうかつに発言できないようにしたのです。

ローマの拡大を目指してガリア戦争

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カエサルが一年の執政官の任期を終えた翌年のこと。彼は前執政官(プロコンスル)となり、ガリアの属州総督と軍事指揮権を与えられました。

ガリアは現在のフランス、ベルギーのあたりで、ケルト系のガリア人が住んでいた地域を指します。アルプス以南のガリア(ガリア・キサルピナ)はすでにローマの支配下にありましたが、以北(ガリア・トランサルピナ)は依然としてローマの力が及ばず、ガリア人の部族間で抗争やゲルマン人の侵入が絶えない場所でした。

カエサルは軍事力を用いて、以北の平定に乗り出したのです。こうして始まった「ガリア戦争」でカエサルは度重なる遠征でガリア人の敵対部族と、ライン川を越えて侵入を繰り返すゲルマン人を撃退。本国でのカエサルの名声はうなぎ登りとなりました。

ところが、それが面白く思えないのがカエサルに煮え湯を飲まされてきた元老院です。元老院の議員たちは、カエサルのいない間に三頭政治を瓦解させてやろうと企みました。しかし、その動きはカエサルもわかっていたのでしょう。彼はルッカ(イタリア北西の都市)でクラッススとポンペイウスとの会談(ルッカの会談)をひらきます。そこでふたりを執政官に選出することや、ふたりが望む権限を与える代わりに、カエサルのガリアの指揮権を五年間延長する約束を交わしたのでした。

\次のページで「ガリア平定と著書『ガリア戦記』」を解説!/

ガリア平定と著書『ガリア戦記』

背後の憂いを断ったカエサルはガリアへ戻って遠征を続けます。一時はライン川を越えたり、さらには英仏海峡を越えてブリテン島(現在のイギリス)へも侵入するなど怒涛の快進撃を見せたのです。

紀元前52年には、ガリア人アルウェルニ族の族長・ウェルキンゲトリクスと最後であり、ガリア戦争最大となる「アレシアの戦い」に挑みます。カエサルはウェルキンゲトニクスに苦戦を強いられながらもなんとかこの戦いで勝利をおさめました。そうして、前58年から前50年にわたって続けられたカエサルのガリア遠征の結果、ガリア全土がローマの属州となったのです。

また、カエサルがガリア戦争について自ら著した『ガリア戦記』は、ガリア戦争の貴重な記録であり、非常に優れたラテン文学作品として知られています。

三頭政治、崩壊

ルッカの会談でカエサルはクラッススとポンペイウスらと今後争いが起こらないように別々の土地を勢力圏としようと決めていました。そうして、ガリア戦争が終わり、カエサルが無事ガリアを獲得すると、今度はクラッススが東の地へと遠征をはじめます。

ローマの東、シリアはルッカの会談でクラッススがもらった勢力圏です。そこへ隣国のアルケサス朝パルティア(古代イラン王朝)がシリアへの影響を強めてきたため、クラッススはシリアへの遠征を決行したのでした。ところが、この遠征でクラッススは不名誉な戦死を遂げてしまいます。

クラッススの死は、カエサルが作った三頭政治崩壊の引き金となりました。残されたポンペイウスは元老院と結託をはじめ、カエサルと対立することになったのです。

そして紀元前49年、カエサルのガリア属州総督解任をきっかけに、カエサル対ポンペイウス・元老院の内乱(ローマ内戦)へと突入していきました。

3.カエサルとエジプトの女王クレオパトラ

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ポンペイウスのエジプト逃亡

カエサルが軍を率いてローマに帰還したことで、ポンペイウスと元老院は慌ててローマを放棄。ポンペイウスの本拠地だったギリシャへ逃げて行きました。ローマを得たカエサルはその後、彼らを追ってギリシァで戦ったため、ポンペイウスはさらにエジプトへと逃亡をはかります。

当時のエジプトは、ギリシャのアレクサンダー大王(イスカンダル)の後継者のひとりプトレマイオスの子孫が支配するプトレマイオス朝でした。ついでにプトレマイオス13世と、その姉・クレオパトラ7世が対立して内紛が勃発していた時代です。

ポンペイウスがプトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアへ上陸しようとしたときのこと。ポンペイウスの逃亡を知っていたプトレマイオス13世の部下は、地中海の覇権を握りつつあるカエサルに有利な取り引きを持ちかけようと企み、先にポンペイウスを殺害してしまうのです。

クレオパトラとの出会い

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ピエトロ・ダ・コルトーナ - Musée des Beaux-Arts de Lyon, パブリック・ドメイン, リンクによる

カエサルがエジプトに到着したのはその四日後のこと。このときプトレマイオス13世と側近たちは、政敵クレオパトラがカエサルに接近しないように注意していました。カエサルは女たらしとしても有名でたくさんの愛人がいたのです。

しかし、クレオパトラはカエサルへ捧げられる絨毯の中に身をひそめて会い、カエサルの心を射止めてしまいます。そうして、カエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世の和解を仲介しようとしましたが、プトレマイオス13世がカエサルの軍を攻撃を開始し「アレクサンドリア戦争」が勃発しました。

アレクサンドリア戦争でカエサルは苦戦を強いられるものの、辛くもプトレマイオス13世の軍を破ってエジプトを制圧。翌年、クレオパトラと、もうひとりの弟・プトレマイオス14世がエジプトを共同統治させることにします。けれど、共同統治とはしたものの、プトレマイオス14世は名ばかりの統治者であり、実際はクレオパトラがファラオ(王)としてひとりで統治していました。

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すべての反対勢力を一掃、独裁官へ

九ヶ月間エジプトに滞在したのち、カエサルは小アジアの平定とポンペイウス派の残党の一掃をはかりました。そうして、紀元前46年、ローマへ帰還したカエサルは、クレオパトラと、彼女との息子・カエサリオンをローマに招き、ローマの人々にエジプトも彼の配下にあることを知らしめます。

また、帰還とともにカエサルは軍事力を背景に独裁官(ディクタトル)に就任。「独裁官」は本来なら国家の非常事態にのみ任命される絶大な権限を持った政務官でしたが、以降、カエサルは十年に渡って独裁官に就任し続けます。

カエサルの暗殺

カエサルが事実上の独裁政治をおこなったことで、元老院と平民会は有名無実化。カエサル自らがそれらに代わる「終身独裁官」に就任します。これまでのローマの共和政から大きく離れ、権力をカエサルひとりに集中させるシステムは「元首政(プリンキパトゥス)」として後世に引き継がれることになりました。

しかしながら、やはり共和政の崩壊に危機感を抱いた人々がいたのです。カエサルの独裁反対派は結束してカエサルの暗殺を計画。元老院会議が開かれるポンペイウス劇場の一部トッレ・アンジェンティーナ広場でカエサルを取り囲んで暗殺したのでした。

カエサルの暗殺後、元老院にはすでに政治を引っ張る力すでにありません。代わりに、カエサルの部下アントニウスと、カエサルの養子オクタビアヌス(後のローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)が、カエサルを暗殺した反対派を倒します。そうして、今度はそのふたりの間でカエサルの後継者を巡っての争いが起こるのでした。

ローマを共和政から帝政に移行させたカエサル

「古代ローマ最大の野心家」と呼ばれるに相応しく、カエサルは自分を妨害しようとする元老院を抑え、三頭政治でもって執政官に就任。その後、ガリアの総督としてローマの拡大を成し遂げました。

巧みな話術と政治手腕、軍略によって数々の敵を倒し、独裁官としてローマを支配したカエサル。エジプトのクレオパトラと結んだことで、王や皇帝となる野望に手をかけましたが、無念にもそこで危機感を覚えた人々によって暗殺されることになったのです。

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イタリアヨーロッパの歴史世界史古代ローマ

3分で簡単「ユリウス・カエサル」優秀な政治家?都市国家ローマを変えた男について歴史オタクがわかりやすく解説

共和政治と元老院

都市国家ローマの建国は紀元前753年のこと。しかしながら、このころから共和政というわけではなく、王様が治める「王政ローマ」でした。共和政を行うようになったのは紀元前509年、最後の王・タルクィニウスを追放したことにより始まります。

王政ローマから「共和政ローマ」へ移行し、政治は、「執政官(コンスル)」を中心にした貴族共和政となりました。そこへさらに市民だけで構成する「平民会」と、そこから選出された「護民官」が執政官や元老院の決定を拒否できる権利を持つようになり、ローマの政治は貴族のみの共和政から市民が参加できる共和政国家になります。

また、この共和政の他に、貴族から選出された議員による「元老院」という機関が置かれました。初期のころの元老院は執政官の諮問機関でしたが、時代をへるにつれて影響力が肥大し、外交や財政などの決定権を持つ実質的なローマの統治機関となっていきます。実際、カエサルが政治家として活動するとき、最初の壁となったのがこの元老院です。

民衆派の叔父の死から亡命へ

カエサルがまだ政治家として立ってもいない青年期のころ、ローマの政治は非常に不安定な状態にありました。議会は、市民会を基盤とする「民衆派」と、元老院の寡頭政治を支持する「閥族派」に割れていたのです。

その民衆派の中心人物だったガイウス・マリウス(以下マリウス)の妻だったのがカエサルの叔母にあたる女性でした。そして、カエサルの妻もまた民衆派のキンナの娘です。そのため、カエサルは若い頃から民衆派として見られていました。

民衆派と閥族派の争いは激化の一途をたどり、マリウスが病に倒れると閥族派のルキウス・コルネリウス・スッラ(以下スッラ)がローマを制圧。スッラが民衆派を粛正した際に、粛正リストにはカエサルの名前もあったのです。

けれど、このときカエサルは結婚こそしているもののまだ二十歳にもならず政治的な活動を一切行っていません。そのため、スッラの支持者たちも若すぎるカエサルの助命をするよう嘆願したのです。スッラは命は助ける代わりに、キンナの娘との離婚をカエサルに要求しました。

それで命ばかりは助かるのですが、カエサルは離婚を拒否して小アジア方面へ亡命することにしたのです。カエサルがローマに戻れたのは紀元前78年にスッラが亡くなったあとのことでした。

2.元老院を抑え、第一回三頭政治開始

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カエサルのキャリアップ

ローマに戻ったカエサルは、軍事司令官に選出されると政治家キャリアへと足を踏み出します。そして、持ち前の弁舌でもって財務官、上級按察官、最高神祇官などを歴任し、ついには執政官に立候補するまでになりました。

執政官となるために、カエサルは目の上のたんこぶだった元老院に対抗する勢力をつくる必要があります。そこで、同じく元老院と対立していたマルクス・リキニウス・クラッスス(以下クラッスス)とグナエウス・ポンペイウス(以下ポンペイウス)と秘密裏に接触、同じ感情を抱きながらも仲の悪かったふたりを説得して紀元前60年に「第一回三頭政治」を成立させたのでした。

そうして、クラッススとポンペイウスの支持を受けたカエサルは無事に執政官に当選。執政官となった彼は元老院の反対を押し切って農地法を改正した他、元老院の会議録を市民に公表するように強制して、元老院の議員たちがうかつに発言できないようにしたのです。

ローマの拡大を目指してガリア戦争

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カエサルが一年の執政官の任期を終えた翌年のこと。彼は前執政官(プロコンスル)となり、ガリアの属州総督と軍事指揮権を与えられました。

ガリアは現在のフランス、ベルギーのあたりで、ケルト系のガリア人が住んでいた地域を指します。アルプス以南のガリア(ガリア・キサルピナ)はすでにローマの支配下にありましたが、以北(ガリア・トランサルピナ)は依然としてローマの力が及ばず、ガリア人の部族間で抗争やゲルマン人の侵入が絶えない場所でした。

カエサルは軍事力を用いて、以北の平定に乗り出したのです。こうして始まった「ガリア戦争」でカエサルは度重なる遠征でガリア人の敵対部族と、ライン川を越えて侵入を繰り返すゲルマン人を撃退。本国でのカエサルの名声はうなぎ登りとなりました。

ところが、それが面白く思えないのがカエサルに煮え湯を飲まされてきた元老院です。元老院の議員たちは、カエサルのいない間に三頭政治を瓦解させてやろうと企みました。しかし、その動きはカエサルもわかっていたのでしょう。彼はルッカ(イタリア北西の都市)でクラッススとポンペイウスとの会談(ルッカの会談)をひらきます。そこでふたりを執政官に選出することや、ふたりが望む権限を与える代わりに、カエサルのガリアの指揮権を五年間延長する約束を交わしたのでした。

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