この記事では、フランクリンとウィルキンスとという二人の科学者について学習していこう。

この二人は20世紀を生きた科学者であり、DNAの構造を解明するのに大きな貢献をした人物です。しかしながら、教科書などには名前が紹介されていないこともある。彼らのはたらきを知れば、DNA研究の歴史をより深く理解できるようになるぞ。

大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウに解説してもらおう。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

DNA研究の歴史

今回のテーマはDNAの研究に貢献した科学者ですので、まずはDNA研究の歴史を少しだけ見ておきましょう。皆さんご存じの通り、DNAは生命が遺伝情報を伝えるために利用している高分子化合物です。

image by iStockphoto

今は小学生でもDNAが重要なものであると知っている時代ですが…DNAの重要性が認められるようになったのは、実はここ100年ほどのこと。1869年にスイスのミーシャ―がDNAを発見しましたが、どんな意味のある物質なのか、その時代に正しく理解できた研究者はいませんでした。

image by Study-Z編集部

1900年にメンデルの法則が”再発見”され、遺伝という現象の解明に乗り出す科学者が続出しましたが、その当時は「遺伝情報(遺伝子)はタンパク質にある」と考える科学者がほとんどでした。1944年、アメリカのアベリーらが「遺伝情報はタンパク質ではなくDNAにある」と示唆する研究を発表すると、DNAへの注目度が急上昇。

その8年後の1952年なってようやく、「遺伝情報はDNAにある」ということが、アメリカのハーシーとチェイスの実験によって証明されました。

ハーシーとチェイスの実験が行われた翌年、1953年ワトソンとクリックという2人の科学者がある論文を発表しました。科学雑誌『Nature』に投稿された、わずか1ページほどのその論文こそ、「DNAは二重らせん構造をとっている」と述べた、歴史に残る研究成果だったのです。

ワトソンとクリック

DNAの二重らせん構造を提唱したワトソンとクリックとはどんな人物なのでしょう?

ジェームズ・ワトソンはアメリカ出身の生物学者。1928年に生まれですので、わずか24歳の時に革命的な発見をしたことになります。フランシス・クリックはイギリス出身の研究者であり、もともとは物理学を専門としていた科学者でした。二重らせん構造の提唱時、クリックもまだ若く、36歳という年齢だったのです。

若く野心に満ち溢れた彼らは、DNAへの注目が高まる中で、その構造を決定するための研究をしていました。しかしながら、彼らの研究はどちらかというと理論重視であり、その証拠やデータといったものが欠けていたといいます。

そんな彼らはあるとき、「DNAが二重らせん構造であるという証拠」となりうる、重要な写真を得ました。それが、DNAの繊維をX線で撮影した写真(X線回折写真)であり、それを撮影したのが今回の主役の一人であるフランクリンなのです。

\次のページで「優秀な女性科学者、フランクリン」を解説!/

優秀な女性科学者、フランクリン

ロザリンド・フランクリンは1920年にうまれたイギリスの物理学者です。男性の研究者が多い中にもかかわらず、女性であるフランクリンは大学をトップクラスで卒業するほどの優秀な科学者でした。

フランクリンが専門としていたのは、様々な物質の結晶にX線を照射し、その解析結果をもとに結晶の構造を予測する”X線結晶学”という分野です。

Rosalind Franklin.jpg
MRC Laboratory of Molecular Biology - From the personal collection of Jenifer Glynn., CC 表示-継承 4.0, リンクによる

DNAの分子構造解析を研究テーマとしていたフランクリンはその腕を生かし、1953年に件の写真の撮影に成功しました。彼女は自力で研究成果をだそうとしていたのですが…。

なんと、フランクリンが自身の成果として発表する前に、この大事な写真を”無断で”ワトソンとクリックに見せてしまった人物がいたのです。それが、フランクリンと同じ研究をしていたウィルキンスでした。

フランクリンの同僚、ウィルキンス

モーリス・ウィルキンスはフランクリンよりも少し年上の1916年生まれ。ニュージーランドで生を受けましたが、6歳のころにイギリスへわたりました。

ウィルキンスはもともと核物理学を専門とし、戦争時にはあのマンハッタン計画にも参加していた人物です。戦争が終わってからは研究を転向し、フランクリンらとともにX線によるDNAの解析を行っていました。

Maurice H F Wilkins.jpg
オリジナルのアップロード者はドイツ語版ウィキペディアC. Goemansさん - de.wikipedia からコモンズに LeyoCommonsHelper を用いて移動されました。, パブリック・ドメイン, リンクによる

ウィルキンスとフランクリンの間柄は、決して良好ではなかったといいます。いろいろなすれ違いがあり、ほとんど険悪といってもよい関係だったようです。

そんな彼が、ワトソンとクリックにフランクリンの未発表の研究成果を見せたこと…この行為は後年、問題視されることとなります。

Crick-stainedglass-gonville-caius.jpg
User:Schutz. The stained glass was designed by Maria McClafferty and installed between 1992 and 1993. - 自ら撮影, CC 表示-継承 2.5, リンクによる

いずれにせよ、ワトソンとクリックはフランクリンの撮影した写真を見て、DNAがらせん構造をとっている分子であることをひらめき、分子構造のモデルを作成。自分たちの理論を補強したうえで、論文をまとめ上げ、発表しました。

4人の科学者のその後

ワトソンとクリック、そしてDNAの構造解明に貢献したウィルキンスは、1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞します。

構造が解明されて以降、DNA研究や遺伝学の展開は日進月歩です。あっというまに、DNAの複製や、DNAからタンパク質が合成されるまでのしくみが解明され、それを応用して自由にDNAを増幅、合成することすら可能になりました。また、DNAの変化と遺伝や進化の関係も研究が進むなど、生物学の広い分野に多大な影響をもたらしたのです。

\次のページで「研究者の確執?ノーベル賞をめぐる闇?」を解説!/

一方、重要な写真を撮影したフランクリンですが、彼女は当時勤めていた研究所を1953年に辞め、別の研究所で異なる研究テーマ(タバコモザイクウイルスの構造研究)に着手しました。

新しい研究でも多大な成果を残しましたが、1958年、若干37歳でこの世を去ります。彼女のからだはがんに侵されていたのです。一説には、実験の過程でX線を浴び続けたことが、がんの原因の一つではないかといわれています。

ノーベル賞受賞の陰で、すでに死去していたフランクリン。その存在は広く知られず、長い時間が経っていたのですが…2000年代に入り、ようやく彼女の研究が評価されるようになります。それと同時にワトソンやクリック、ウィルキンスらが彼女のデータを無断で利用したことに、疑問の声が上がるようにもなりました。

もちろん、ワトソン、クリック、ウィルキンスも一流の科学者ではあるのですが…フランクリンの存在は、やはり忘れるべきではないと思います。

研究者の確執?ノーベル賞をめぐる闇?

フランクリンの研究成果流用に関する問題は、当事者間の確執や、ノーベル賞という栄光をめぐる闇があったとして、科学史を研究する人たちも様々な意見を述べています。

興味のある人は、ぜひ彼らの自著や関連本を読んでみてください。歴史に名を遺す科学の研究が、様々な人の思惑で左右されていることが実感できるはずです。

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タンパク質と生物体の機能理科生物細胞・生殖・遺伝

フランクリンとウィルキンスって誰?DNAの構造解明に貢献した2人の科学者について現役講師が5分でわかりやすく解説!

この記事では、フランクリンとウィルキンスとという二人の科学者について学習していこう。

この二人は20世紀を生きた科学者であり、DNAの構造を解明するのに大きな貢献をした人物です。しかしながら、教科書などには名前が紹介されていないこともある。彼らのはたらきを知れば、DNA研究の歴史をより深く理解できるようになるぞ。

大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウに解説してもらおう。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

DNA研究の歴史

今回のテーマはDNAの研究に貢献した科学者ですので、まずはDNA研究の歴史を少しだけ見ておきましょう。皆さんご存じの通り、DNAは生命が遺伝情報を伝えるために利用している高分子化合物です。

image by iStockphoto

今は小学生でもDNAが重要なものであると知っている時代ですが…DNAの重要性が認められるようになったのは、実はここ100年ほどのこと。1869年にスイスのミーシャ―がDNAを発見しましたが、どんな意味のある物質なのか、その時代に正しく理解できた研究者はいませんでした。

image by Study-Z編集部

1900年にメンデルの法則が”再発見”され、遺伝という現象の解明に乗り出す科学者が続出しましたが、その当時は「遺伝情報(遺伝子)はタンパク質にある」と考える科学者がほとんどでした。1944年、アメリカのアベリーらが「遺伝情報はタンパク質ではなくDNAにある」と示唆する研究を発表すると、DNAへの注目度が急上昇。

その8年後の1952年なってようやく、「遺伝情報はDNAにある」ということが、アメリカのハーシーとチェイスの実験によって証明されました。

ハーシーとチェイスの実験が行われた翌年、1953年ワトソンとクリックという2人の科学者がある論文を発表しました。科学雑誌『Nature』に投稿された、わずか1ページほどのその論文こそ、「DNAは二重らせん構造をとっている」と述べた、歴史に残る研究成果だったのです。

ワトソンとクリック

DNAの二重らせん構造を提唱したワトソンとクリックとはどんな人物なのでしょう?

ジェームズ・ワトソンはアメリカ出身の生物学者。1928年に生まれですので、わずか24歳の時に革命的な発見をしたことになります。フランシス・クリックはイギリス出身の研究者であり、もともとは物理学を専門としていた科学者でした。二重らせん構造の提唱時、クリックもまだ若く、36歳という年齢だったのです。

若く野心に満ち溢れた彼らは、DNAへの注目が高まる中で、その構造を決定するための研究をしていました。しかしながら、彼らの研究はどちらかというと理論重視であり、その証拠やデータといったものが欠けていたといいます。

そんな彼らはあるとき、「DNAが二重らせん構造であるという証拠」となりうる、重要な写真を得ました。それが、DNAの繊維をX線で撮影した写真(X線回折写真)であり、それを撮影したのが今回の主役の一人であるフランクリンなのです。

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