君は地動説という言葉を聞いたことがあるか?地動説とは宇宙と地球の関係性についての考え方の一つで、読んで字のごとく、宇宙の中心は太陽であり地球やその他の天体が太陽の周りを動いているという考え方です。
この地動説という考え方が登場したのは今から500年ほど前なんだよ。当時は性能の良い天体望遠鏡もコンピュータもなかったのに、なぜこのような考え方にたどり着くことができたのでしょうか?

今回は地動説の理論と、地動説の創始者であるコペルニクスについて地学に詳しいライターオリビンと一緒に解説していきます。

ライター/オリビン

大学院を地球科学専攻で卒業した地学大好き人間。大学生時代は天文サークルに入っていたため、天体については誰よりも詳しい。

天動説が唱えられるまで

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紀元前6世紀、ギリシャのピタゴラスは世界で初めて地球が球体であることを唱えました。また、地球は他の天体のように円運動をしており、ピタゴラスの弟子のフィロラオスはそれらの天体の円運動は中心火(太陽ではない)の周りで起こっていると唱えたのです。他にも、哲学者であるプラトンも宇宙は地球を中心とした球状をしており、太陽や月は円を描くように回転しているとも説いています。その後、プラトンの弟子のアリストテレスも宇宙の中心は地球であると考え、天動説の基盤となる考え方が世間に定着したのです。

天動説の誕生

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世界中どこにでも天動説が浸透し、しばらくたった15世紀のヨーロッパは盛んに海を渡って旅をする大航海時代真っ只中にありました。航海中は星の見え方から船の位置を確認していたため、天文学の研究が一気に進んでいったといいます。その時生まれたのが「天動説」です。

天動説とは地球が宇宙の中心であり、宇宙の星は地球の周りを回っているという考え方をいいます。しかし、実際の星の動きは天動説で説明できないものも多くあり、天動説に疑問を抱く研究者もたくさんいました。その中のひとりがニコラス・コペルニクスです。

天動説の疑問点

天動説にはいくつも問題点がありました。1つは天動説を元に作成された星表を元に航海しても、常に惑星の位置に誤差が生じていたのです。さらに、当時使用されていたユリウス暦の1年は実際に観測される1年とはズレていました。そのため、暦と惑星の位置の関係もズレが広がってしまったといいます。

天文学者たちは正確な1年の観測方法について大変悩んだそうです。しかし、地球が宇宙の中心であるという考え方は元々聖書にある記載であったため、当時の人々は天動説を疑うことはありませんでした。

\次のページで「コペルニクスの登場」を解説!/

コペルニクスの登場

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天動説に疑問をいだき、その疑問への解を見出した人物がいました。その名もニコラウス・コペルニクスです。

コペルニクスは1473年2月にポーランドで生まれました。コペルニクスはその後天文学者となり、医学や占星術など様々な学問にも触れたといいます。余暇を見つけては天体観測にふけっていたコペルニクスはその時の自分の考えをノートにまとめていたそうです。1508年ごろ、コペルニクスは天動説では周転円によって天体の逆行運動が説明されていたことに対し、天体の逆行運動は地球との公転速度の差による見かけ上のものであると唱えました。こうしてだんだんと地動説へと近づいていったのです。

地動説の誕生

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1529年、コペルニクスは地動説について論考をまとめていました。しかし、公に発表する気はなかったそうです。コペルニクスの考えは彼の友人たちの間で広まり、次第に世間でも知られるようになりました。その後他の天文学者も地動説について感銘を受け、ゲオルク・レティクスなどの弟子もできたそうです。コペルニクスに影響を受けた天文学者たちの協力もあり、地動説の理論は書籍として出版を待つ段階までやってきました。

しかし、出版直前でコペルニクスは脳卒中で半身不随となり、1543年5月にこの世を去ってしまったのです。

コペルニクスの死後の地動説

コペルニクスが病死した後、ジョルダーノ・ブルーノは地動説をもう少し発展させ、宇宙の中心は太陽ではないという理論にたどり着きました。つまり太陽は不動ではなく、太陽も動いているという説です。しかし、キリスト教の思想が一般的だった時代のため、ジョルダーノは危険思想と烙印を押され処刑されてしましました。

その後、ガリレオ・ガリレイは世界で初めて本格的な天体望遠鏡で天体観測を続け、コペルニクスの説をデータとして導き出したそうです。しかし、ガリレオもブルーノ同様に危険因子として裁判にかけられてしまい不遇な扱いを受けました。

地動説 vs 教会

ガリレオやブルーノと同時期に活躍していたティコ・ブラーエは、独自で天体観測できる装置を考え出し、コペルニクスのデータの裏付けを取ろうとしていました。その結果、星々は太陽の周りを回ってはいますが太陽や月もまた地球の周りを回っているという説にたどり着いたのです。ブラーエの死後、ブラーエの助手だったヨハネス・ケプラーは数学的に惑星運動の軌道や速度について証明しました。ガリレオやブルーノたちのデータと合わせて地動説について証明したのにも関わらず、教会は彼らの著書を世間に出さないように裁判にかけ、地動説が夜に広まらないようにしてしまったのです。

地動説の確立

地動説の確立

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どんな学者が理論的にデータを証明しても教会は否定を続けていましたが、世間では地動説の合理性が広く広まっていました。しかし、疑問点も残っていたため問題は山積みだったといいます。

1687年、ニュートンは万有引力の法則を証明しました。万有引力の法則の発見により、惑星は太陽の引力によって運動していることが証明され、地動説が事実であると証明されたのです。それまで長い間続いた科学者と宗教家の戦いはやっと幕を閉じました。

\次のページで「地動説が確立するまでの歴史的背景についても考えてみよう」を解説!/

地動説が確立するまでの歴史的背景についても考えてみよう

中世までは聖書を基準とした生活をしていたため、天動説という考え方は当時の人々に深く根付いていました。しかし、天動説と実際の観測結果について疑問を持っていたコペルニクスは、天動説を元に作られた星図と実際の暦とのズレを発見し、地動説という考え方のきっかけを築いたのです。コペルニクスの死後はジョルダーノがその意志を継ぎ、宇宙の中心は地球ではなく太陽であることを唱えました。また、ガリレオもコペルニクスの観測についてデータとしてまとめ、地動説はほぼ完成に近づいだのです。ケプラーやニュートンはより正確な機器を用いて地動説を証明したため、やっと地動説が確立されました。

このように、どんなに天体観測や数学的にデータを示しても、当時の人々には聖書の考え方が深く根付いていたため地動説が受け入れられるまでにはかなりの時間を要したのです。

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地動説と天動説は何が違う?地動説の歴史やコペルニクスについて地球科学専攻卒が5分でわかりやすく解説

君は地動説という言葉を聞いたことがあるか?地動説とは宇宙と地球の関係性についての考え方の一つで、読んで字のごとく、宇宙の中心は太陽であり地球やその他の天体が太陽の周りを動いているという考え方です。
この地動説という考え方が登場したのは今から500年ほど前なんだよ。当時は性能の良い天体望遠鏡もコンピュータもなかったのに、なぜこのような考え方にたどり着くことができたのでしょうか?

今回は地動説の理論と、地動説の創始者であるコペルニクスについて地学に詳しいライターオリビンと一緒に解説していきます。

ライター/オリビン

大学院を地球科学専攻で卒業した地学大好き人間。大学生時代は天文サークルに入っていたため、天体については誰よりも詳しい。

天動説が唱えられるまで

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紀元前6世紀、ギリシャのピタゴラスは世界で初めて地球が球体であることを唱えました。また、地球は他の天体のように円運動をしており、ピタゴラスの弟子のフィロラオスはそれらの天体の円運動は中心火(太陽ではない)の周りで起こっていると唱えたのです。他にも、哲学者であるプラトンも宇宙は地球を中心とした球状をしており、太陽や月は円を描くように回転しているとも説いています。その後、プラトンの弟子のアリストテレスも宇宙の中心は地球であると考え、天動説の基盤となる考え方が世間に定着したのです。

天動説の誕生

image by iStockphoto

世界中どこにでも天動説が浸透し、しばらくたった15世紀のヨーロッパは盛んに海を渡って旅をする大航海時代真っ只中にありました。航海中は星の見え方から船の位置を確認していたため、天文学の研究が一気に進んでいったといいます。その時生まれたのが「天動説」です。

天動説とは地球が宇宙の中心であり、宇宙の星は地球の周りを回っているという考え方をいいます。しかし、実際の星の動きは天動説で説明できないものも多くあり、天動説に疑問を抱く研究者もたくさんいました。その中のひとりがニコラス・コペルニクスです。

天動説の疑問点

天動説にはいくつも問題点がありました。1つは天動説を元に作成された星表を元に航海しても、常に惑星の位置に誤差が生じていたのです。さらに、当時使用されていたユリウス暦の1年は実際に観測される1年とはズレていました。そのため、暦と惑星の位置の関係もズレが広がってしまったといいます。

天文学者たちは正確な1年の観測方法について大変悩んだそうです。しかし、地球が宇宙の中心であるという考え方は元々聖書にある記載であったため、当時の人々は天動説を疑うことはありませんでした。

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