戦国時代にそれぞれの土地を独自に支配していた「戦国大名」たちは、よく大河ドラマに取り上げられるほど日本史のなかでも人気のコンテンツです。
今回はそんな「戦国大名」の誕生や、有名どころを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものをテーマにしたゲームも大好き。子どものころから親しんだ戦国大名について詳しくまとめた。

1.戦国大名の誕生

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戦国時代の特徴「下剋上」

戦国時代と聞いてまず思い浮かぶのが、織田信長をはじめとした「戦国大名」ではありませんか?戦国大名の名前は、現代の私たちでも聞き慣れたものだと思います。大河ドラマのテーマになることも少なくありませんし、テレビに限らず、マンガや小説など彼らを題材にしたさまざまな作品があふれていますから。

そんな大人気な戦国大名たちは、お互いに武力や知力をぶつけ合い、時には策謀を巡らせて、本来は自分より格上の相手を打ち倒し、相手の身分に取って代わったりもしました。実力がものをいう世界だったのです。このような風潮を「下剋上」といいました。しかし、なぜ格下のものたちが力を持ち、格上のものたちと戦えるようになったのでしょうか?そもそも、どうして戦国大名という存在が許されるようになったのでしょう?

室町時代の地方の支配体制

「下剋上」の足掛かりのひとつが、室町時代の支配体制にありました。室町時代は戦国時代のひとつ前、年号でいうと1336年から1573年の間こと。足利尊氏が京都に室町幕府を開いて始まった時代です。

さて、室町幕府は、地方の国々を支配するために各地に「守護大名」を置いていました。守護大名による支配体制を「守護領国制」といいます。守護はもともと前時代の鎌倉幕府の制度を流用したものでしたが、鎌倉時代の守護たちが持っていた軍事権や警察権と比べ、守護領国制のもとで守護大名たちに与えられた権限はとても大きいものでした。室町時代の守護大名たちは、領地内で起こった争いへの介入権に、それを裁く司法執行権、そして、税の徴収を行う権利を持ちます。これらの権限を背景に守護大名は直轄地の守護領の拡大を行い、さらに強い経済力を持つようになりました。

それが室町時代の末期に近づくと同時に、「応仁の乱」などで室町幕府の力が衰弱すると、守護大名たちは将軍の命令などロクに聞かずに勝手をするようになっていきます。それどころか、実力で土地の守護大名を追い出して、自分が大名に成り代わるものまで現れたのです。これが「戦国時代」のはじまりであり、「戦国大名」の誕生でした。

室町幕府から脱却する戦国大名たち

「戦国大名」は、その土地の有力者や武装集団を抑え、独自に土地を統治する実力者たちです。

それまでの守護大名と違い、幕府や将軍に官位をもらって任命してもらってなったものではありませんから、幕府も将軍も敬わなくてよかったわけですね。自分で勝ち取った土地だから、一番偉い。そのため、隣の土地がほしいと思えば、自分の思うままに戦争をけしかけたりできたのです。

さらに、自分の領地だけに適用する「分国法」という独自の法律を作りました。「分国法」では、家臣団の統制や訴訟に関する法規、結婚の規定など、国によってさまざまな特色が出ましたが、実用的なものが多かったとされています。

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2.群雄割拠に割れた日本

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天下統一を目指した戦国大名たち

各地で続々と誕生した戦国大名たちでしたが、彼らはみんな同じように天下統一を目指しました。そして、武士が天下を統一するためには、武家の棟梁の証「征夷大将軍」の称号が必要不可欠です。そのために戦国大名は、自分自身が征夷大将軍になるか、現在の征夷大将軍の足利氏を擁立するかの二択を目指してお互いに争いあいました。

この章では、そんななかでも、特に力のあった戦国大名たちをご紹介いたします。

最初の戦国大名「北条早雲」

もっとも初めの戦国大名となったのは、のちに関東の覇者と呼ばれる北条氏の「北条早雲」でした。彼はもともと足利家に仕える身分の低い武士だったのが、妹が駿河の名家・今川氏に嫁入りしたのをきっかけに今川氏の跡目争いに介入。さらにその争いを利用して自らの地位を上げ、その後、伊豆(静岡県東部)の室町幕府勢力を滅ぼして我が物とします。さらに相模国(神奈川県)の小田原城を奪取し、一城の主となったのです。

身分の低かった武士が己の力で新たに一国の主にまで上りつめる。まさに「下剋上」ですね。また、北条氏は最初の戦国大名と呼ばれる一方で、戦国時代後半、豊臣秀吉と最後まで戦った戦国大名でもありました。

駿河の名門・今川氏と「今川義元」

北条早雲の妹の嫁ぎ先となった今川氏は駿河の守護代を務めると同時に、鎌倉幕府の源頼朝や、室町幕府の足利氏と同じ河内源氏の血筋から別れた武家のひとつ吉良家の分家でした。しかも、本家にあたる吉良家は足利将軍家の親族で、もし足利氏の跡取りがいなくなれば吉良家が足利将軍家を継ぎ、その吉良家が絶えれば、今度は今川家が継ぐとされていたのです。そのため、今川氏は室町幕府の他の有力な家臣たちよりも頭一つ抜き出た地位にありました。だから「名門」や「名家」と言われるんですね。

ところが、室町幕府の権勢が弱まると、今川氏も他国の争いに介入したり、分国法を作って守護大名から戦国大名へ変ぼうを遂げます。そして、今川氏の当主となった今川義元は不仲だった甲斐国の武田氏や、相模国の北条氏と同盟関係を結んで「甲相駿三国同盟」に発展させました。こうしてノリにノった今川義元は、三河国(愛知県豊川市)の松平氏(のちの徳川氏)を従わせたり、三河から織田氏を負い出したりと、その勢いはとどまるところを知りません。

それでとうとう本格的に尾張の侵略をはじめようとして起こったのが「桶狭間の戦い」です。これほど有名な戦いもありませんね。結果は皆さまご存知の通り、精鋭を率いた織田信長が今川の本陣に奇襲をかけ、今川義元本人を討ち取ることで見事に勝利しました。今川義元亡きあとの今川氏は三河の支配権の喪失に武田氏との関係悪化などが重なって衰退。たった数年の間に領地を武田氏や徳川氏に取られ、かつて戦国大名として名をはせた今川氏一族は滅亡してしまったのです。

甲斐の「武田信玄」、「越後の上杉謙信」

戦国大名たちは支配領域の拡大のため、国境を接する隣国と数えきれないほど合戦を繰り広げ、ときには同盟を組んで不可侵の契約を結んだりしていました。そんなあまたの合戦のなかでも特に有名なのが、甲斐国の武田信玄と越後国(新潟県)の上杉謙信の間で12年5回にわたって行われた「川中島の戦い」です。

川中島は現在の長野市で、両者はその土地の支配権を巡って争います。最大の戦いとなったのが、4回目の千曲川と犀川が合流する三角の平地だった川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心にした抗争でした。この最大の激戦から両者の5度にわたる戦いを総称して「川中島の戦い」といいます。

長きにわたる戦いでしたが、はっきりとした決着はつきません。そのため、双方ともに勝利を主張していますが、果たして奪い合った領土だけを見ていうと、戦いの中心となった川中島は武田氏の領地に、一方、上杉氏は奪われていた信濃北部の領土全てを取り戻すことはできず、北の一辺を手中に収めただけでした。ただし、上杉氏は武田氏による信濃統一と、越後国への侵攻を阻止することはできています。お互いにそれぞれの目標を7~8割くらい達成したという感じですね。

下剋上でのし上がった北条早雲に、名門・今川氏の今川義元、そして甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信。ここで紹介した戦国大名は誰もがドラマ性を欠かない人物だ。さて、ここまできたら、次はもちろん戦国大名の代名詞、歴史を動かしてきた男たちの解説をしていこう。

\次のページで「3.戦国時代を終結させた戦国三英傑」を解説!/

3.戦国時代を終結させた戦国三英傑

「織田信長」あだ名は尾張のうつけ

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狩野宗秀 (Kanō Sōshū, 1551 - 1601) - en:Image:Odanobunaga.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

織田信長は尾張国(愛知県西部)、守護大名・斯波氏の家臣で守護代の清州織田信秀の三男として生まれました。「守護代」は、幕府の運営に忙しい守護大名の代わりに任地の統治を任される役職のことです。しかし、室町幕府と一緒に斯波氏の力が弱まると、織田家は独自に領地を広げ、守護代から戦国大名へとのし上がっていきました。信長が家督を継ぐと分裂していた織田氏を東一し、尾張国の支配を強めます。

そして、敗色濃厚だった「桶狭間の戦い」で今川義元を破って名を上げると、信長による天下統一の戦いが始まったのです。

足利義昭を擁立して上洛するが

天下統一を目指してライバルたちと戦っていた信長。そこへ、室町幕府12代将軍・足利義晴の息子「足利義昭」が保護を求めてやってきました。信長は足利義昭を助けて上洛、彼が次の将軍になるようにさらなる援助をしました。

信長は自分で足利義昭を将軍にしたのですが、しかし、「殿中御掟」などによって信長は足利義昭の行動を縛り、将軍としてではなく、操り人形のように利用したのです。いくら恩人と言えども、足利義昭はこの扱いを腹に据えかねて信長から離反。足利義昭は武田信玄や越前国(福井県)の朝倉義景などの大名、大阪の石山本願寺、比叡山の延暦寺を味方につけて信長に対抗しようとしました。信長を囲む大名や寺院の包囲網は非常に厄介でしたが、信長は危うくも乗り越えて打開していきます。そうして、1573年、足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼしたのでした。

明智光秀の謀反「本能寺の変」

室町幕府を滅ぼした信長は、琵琶湖のほとりに安土城を建設します。ここから再び天下統一に向かって走り出そうとした矢先、1582年のことでした。京都の本能寺に滞在していた信長は、家臣だった明智光秀の謀反「本能寺の変」で亡くなってしまうのです。

このとき、のちに信長の後継者となる豊臣秀吉は中国地方の毛利氏と戦っていましたが、大急ぎで和睦して京都に取って返します(中国大返し)。そして、京都の「山崎の合戦」で明智光秀を倒し、主君織田信長の仇を取ったのでした。

「豊臣秀吉」農民から天下人へ

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豊臣秀吉が農民の息子だったというのは有名な話ですよね。その彼が天下統一を成し遂げるわけですから、戦国時代一番の大出世です。

さて、豊臣秀吉がはじめて織田信長に仕えたときの名前は「木下藤吉郎」。彼は墨俣の一夜城をはじめとした数々の手柄を立てて出世、近江国(滋賀県)の長浜の土地を与えられるほど、実力主義の織田信長のもとでも異例の大出世を遂げます。そうして、「本能寺の変」で織田信長が亡くなると、一番に明智光秀の首を取って発言力を強めました。

その後、信長の後継者を決める「清須会議」で秀吉は亡くなった信長の孫にあたる三法師(さんぽうし)を後継者と決めます。それで秀吉自身は三法師の後見人となったわけですが、三法師は幼く、信長のように采配を取れません。それで後見人の秀吉が代わりをする……つまり、秀吉は、事実上の信長の後継者となったのです。これに反発した柴田勝家らを滅ぼし、秀吉に最後まで抵抗し続けた関東の北条氏を破ると、秀吉はついに天下人となりました。

征夷大将軍になれず関白に

天下人となったからには、当然武士の棟梁たる「征夷大将軍」の称号がほしいものですね。ところが、征夷大将軍は武士の家系、特に源氏の生まれでなければなれません。秀吉は農民の生まれでしたから、喉から手が出るほどほしいと思ってももらえませんでした。ですが、そこであきらめる秀吉ではありません。

秀吉は当時の関白・近衛前久の養子になり、1585年に朝廷で関白となります。「関白」は成人した天皇を補佐する官職ですね。このときに朝廷から「豊臣」の姓をもらって「豊臣秀吉」という名前になりました。

その後、関白を引退し「太閤」となった秀吉は、ものさしやますなどの計量器を全国で統一し、「太閤検地」「刀狩」などさまざまな政策を推し進めます。

こうして、秀吉のもとで日本が統一されていくのかと思いきや、1598年、秀吉の病死によって再び戦乱の嵐が吹き荒れることになるのです。

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「徳川家康」江戸時代を切り開いた大名

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User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology - http://www.sengoku-expo.net/flash/sekigahara/byoubu/byoubu_c.html http://inpaku02.iamas.ac.jp/sekigahara/byoubu/images/l/263.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

秀吉の死後、五大老と五奉行が、秀吉の幼い息子「豊臣秀頼」を支えるはずでした。ところが、ここで五大老の「徳川家康」が約束を破って大名たちを味方につけると、五奉行の「石田三成」と激しく対立します。そうして起こったのが1600年の「関ケ原の戦い」です。関ケ原の戦いは天下分け目の大決戦……となるのですが、その勝敗はわずか1日で徳川家康の勝利として終わってしまいました。

勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。これによって戦国時代が終わり、新たに「江戸時代」へと移り変わったのでした。

戦乱の世を渡り続けた男たち

室町幕府のほころびから生まれた戦国大名たちは、天下統一を目指して争い合います。荒れた時代である一方、戦いのなかで多くの英雄が生まれ、多くの逸話が語り継がれる時代となりました。

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室町時代戦国時代日本史歴史

3分で簡単「戦国大名」誕生した経緯は?誰が有名?歴史オタクがわかりやすく解説

戦国時代にそれぞれの土地を独自に支配していた「戦国大名」たちは、よく大河ドラマに取り上げられるほど日本史のなかでも人気のコンテンツです。
今回はそんな「戦国大名」の誕生や、有名どころを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものをテーマにしたゲームも大好き。子どものころから親しんだ戦国大名について詳しくまとめた。

1.戦国大名の誕生

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戦国時代の特徴「下剋上」

戦国時代と聞いてまず思い浮かぶのが、織田信長をはじめとした「戦国大名」ではありませんか?戦国大名の名前は、現代の私たちでも聞き慣れたものだと思います。大河ドラマのテーマになることも少なくありませんし、テレビに限らず、マンガや小説など彼らを題材にしたさまざまな作品があふれていますから。

そんな大人気な戦国大名たちは、お互いに武力や知力をぶつけ合い、時には策謀を巡らせて、本来は自分より格上の相手を打ち倒し、相手の身分に取って代わったりもしました。実力がものをいう世界だったのです。このような風潮を「下剋上」といいました。しかし、なぜ格下のものたちが力を持ち、格上のものたちと戦えるようになったのでしょうか?そもそも、どうして戦国大名という存在が許されるようになったのでしょう?

室町時代の地方の支配体制

「下剋上」の足掛かりのひとつが、室町時代の支配体制にありました。室町時代は戦国時代のひとつ前、年号でいうと1336年から1573年の間こと。足利尊氏が京都に室町幕府を開いて始まった時代です。

さて、室町幕府は、地方の国々を支配するために各地に「守護大名」を置いていました。守護大名による支配体制を「守護領国制」といいます。守護はもともと前時代の鎌倉幕府の制度を流用したものでしたが、鎌倉時代の守護たちが持っていた軍事権や警察権と比べ、守護領国制のもとで守護大名たちに与えられた権限はとても大きいものでした。室町時代の守護大名たちは、領地内で起こった争いへの介入権に、それを裁く司法執行権、そして、税の徴収を行う権利を持ちます。これらの権限を背景に守護大名は直轄地の守護領の拡大を行い、さらに強い経済力を持つようになりました。

それが室町時代の末期に近づくと同時に、「応仁の乱」などで室町幕府の力が衰弱すると、守護大名たちは将軍の命令などロクに聞かずに勝手をするようになっていきます。それどころか、実力で土地の守護大名を追い出して、自分が大名に成り代わるものまで現れたのです。これが「戦国時代」のはじまりであり、「戦国大名」の誕生でした。

室町幕府から脱却する戦国大名たち

「戦国大名」は、その土地の有力者や武装集団を抑え、独自に土地を統治する実力者たちです。

それまでの守護大名と違い、幕府や将軍に官位をもらって任命してもらってなったものではありませんから、幕府も将軍も敬わなくてよかったわけですね。自分で勝ち取った土地だから、一番偉い。そのため、隣の土地がほしいと思えば、自分の思うままに戦争をけしかけたりできたのです。

さらに、自分の領地だけに適用する「分国法」という独自の法律を作りました。「分国法」では、家臣団の統制や訴訟に関する法規、結婚の規定など、国によってさまざまな特色が出ましたが、実用的なものが多かったとされています。

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