
保元の乱で大打撃、平治の乱で更なる追い打ち
そんなときに起こったのが1156年の「保元の乱」です。「保元の乱」は崇徳上皇と後白河天皇による権力争いであり、久しぶりに武力衝突にまで発展した権力闘争でした。
このとき、源為義が仕えていた藤原頼長は崇徳上皇側に、源為義の長男「源義朝(みなもとのよしとも。源頼朝の父)」は平清盛とともに後白河天皇側へつくことになり、家族内で分裂してしまいます。
そして、「保元の乱」は後白河天皇の勝利となり、源為義は処刑されることになりました。源為義とともに崇徳上皇方で戦っていた息子やその家族もろとも死刑です。
源為義の息子でひとり生き残ることになった源義朝がその後の河内源氏の棟梁となるわけですが、平清盛が優遇される一方で源氏は勢力を削られていきます。そんな時勢でまた朝廷での紛糾と藤原摂関家の内部争いが発展して1160年に「平治の乱」が起こりました。「平治の乱」では、先の「保元の乱」で勝利した源義朝と平清盛が戦い、今回は平清盛に軍配が上がります。
負けてしまった源義朝は逃走の途中に元部下の裏切りで殺害され、息子の源頼朝もここで処刑されるはずでした。ところが、平清盛の継母・池禅尼によって源頼朝は命を助けられ、死刑から伊豆への流刑に変更されることとなったのです。
河内源氏の再起、鎌倉幕府の成立
ここまで不遇な目に遭い続けた河内源氏。しかし、奇跡的にその嫡流だった源頼朝は殺されずに伊豆の地で大人になり、平家打倒のチャンスを待ち続けていました。
そして、平家の圧政に耐えかねた以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を全国の源氏にむけて発したのをきっかけに源頼朝は立ち上がります。この令旨を契機にして起こったのが、六年にもわたる「治承・寿永の乱(源平合戦)」でした。
「治承・寿永の乱」の結果、源氏によって平家が滅亡。1185年、源頼朝は政治地盤を固めていた関東で鎌倉幕府を開きます。
鎌倉幕府将軍、河内源氏は三代目まで
武士たちの信頼の厚い源頼朝が開いた鎌倉幕府は、源頼朝を中心に順調に運営されていく……かのように思えました。ところが、1199年冬、彼は落馬したのをきっかけに亡くなってしまったのです。
源頼朝の跡を継いだのは長男「源頼家(みなもとよりいえ)」でした。ところが、源頼家は非常に御家人(部下の武士)たちからの評判が悪い将軍だったのです。それもそのはず、源頼家は妻の実家をひいきしたり、御家人たちの収入源となる土地を軽視したりと御家人たちの不満を膨らませるばかり。その結果、源頼家は将軍職を追放され、伊豆の修禅寺に幽閉されてしまいます。
そして、その後に三代目将軍となったのは12歳の弟「源実朝(みなもとのさねとも)」です。彼は和歌の大御所「藤原定家」に弟子入りするほど和歌を好みました。しかし、源頼家ほどとはいかないものの、その姿は将軍らしくないと御家人たちに不評です。それでも執権・北条泰時が幕府を回していたのですが、1219年、なんと源実朝は甥の公暁によって殺されてしまいます。
さらに悪いことに、源実朝には子どもがいませんでした。また、源頼家の最後の息子だった公暁も源実朝殺害により処刑されてしまったため、ここで源頼朝の血筋は絶えてしまいます。鎌倉幕府の河内源氏の血族による支配は三代かぎりの短い治世でした。
武家の棟梁として続く河内源氏
しかし、源頼朝の血筋が絶えたからと言って、河内源氏が滅亡したわけではありません。室町幕府を開くことになる足利尊氏は、河内源氏から派生した足利氏の生まれ。このころの武家の棟梁の証となった「征夷大将軍」に就任しました。
足利氏の他にも、戦国時代の大名・武田信玄の武田家や、今川義元の今川家など多くの系統が続いています。さらに征夷大将軍の称号は源氏がなるものとされたため、江戸幕府を開いた徳川家康は河内源氏から派生した新田氏の末えいを騙ったという話までありました。河内源氏は武家として長く残る力強い家系だったのです。
\次のページで「源頼朝から足利尊氏、徳川家康まで」を解説!/