
今回はそんな「河内源氏」の隆盛を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。河内源氏は研究テーマの一端だった。
1.武家の棟梁「河内源氏」になるまで

源頼朝や源義経など有名どころをはじめ、「源」の姓を持つ貴族や武士の名前はけっこう見ますよね。『源氏物語』の主人公・光源氏だって「光り輝くように美しい源氏」という通称の源姓の貴族です。出現率でいうと朝廷で活躍した藤原氏には劣ってしまいますが、平安時代で源氏の人々は藤原氏に負けず劣らず立派な役割を担っていました。
けれど、なぜ源姓の人物は多いのでしょうか?それに、どうして名前を残せるくらい高い地位を持っていたのでしょうか?
源氏姓のはじまりは嵯峨天皇
源氏姓は第52代嵯峨天皇の子どもからはじまります。
時は平安時代前期、嵯峨天皇には50人もの子どもがいました。非常に子だくさんですね。ところが、そんな子だくさんの状況にもかかわらず、皇室には子どもたちを養う経済力がありませんでした。
いやいや、仮にも一国の主が、たとえ50人でも子どもを養えないなんておかしい……と、現代の感覚なら思うかもしれません。ところが当時の皇室の収入は人々からの租税のみで、藤原氏や他の貴族たちと違って皇室には財源になる荘園(権力者の私有地)がありませんでした。さらに人口も今ほど多くはありませんし、租税のみではとても50人の子どもたちを「親王」や「内親王」として支えることはできなかったのです。
そこで嵯峨天皇は考えました。そうだ、子どもたちを「臣籍降下」させよう、と。「臣籍降下」は、皇族が姓を与えられて天皇家を離れ、臣籍(臣下)となること。要は、親(皇室)離れして自分で働くようにしたのです。これで嵯峨天皇の子どものうち皇子17人が臣籍に、また皇女15人を臣下に降嫁させて皇室の財政難をしのいだのでした。このとき、臣籍降下した子どもたちが天皇から賜ったのが「源」の姓です。
嵯峨天皇以降、子孫を臣籍降下させて源氏姓を与える例が増えていきました。そして、今回のテーマとなる「河内源氏」は、清和天皇の代に生まれます。
河内源氏の祖「源頼信」
清和天皇の孫・経基王が臣籍降下して「源経基」となり、その息子「源満仲(みなもとのみつなか)」が武士団を作りました。源氏=武士という印象が強いですが、それはここからですね(貴族として活躍した源氏姓の人々もたくさんいます)。
源満仲が武士団の本拠地としたのは摂津国川辺郡多田庄(現在の兵庫県川西市多田)。他の源氏と区別して「多田源氏」とも呼ばれます。
その後、源満仲は引退して家督と武士団を嫡流の「源頼光(みなもとのよりみつ)」に譲りました。彼は父と同じ多田に拠点を置きますが、頼光の子孫は多田源氏ではなく「摂津源氏」と呼ばれます。また、源の頼光は大江山の酒呑童子や妖怪退治で有名で「朝家の守護」と呼ばれました。
源頼光の活躍だけでも素晴らしかったのですが、源満仲はさらに三男「源頼信(みなもとのよりのぶ)」を河内国古市郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)にやって「河内源氏」をつくらせました。これがのちに武家の棟梁となる「河内源氏」のはじまりです。
「天皇+源氏」「地名+源氏」
ここまで「○○源氏」という名前がたくさんでてきました。これ、ちょっとややこしいですよね。このあとさらに他の○○源氏が出てくるし、さらに時代が下れば「源」の代わりに地名を名字に名乗ることがあります。
少々ざっくりとしていますが、「天皇+源氏」の場合はどの天皇から臣籍降下したかを表し、「地名+源氏」はその地名のところを拠点としていた、と考えてください。
源頼信と平忠常の乱

1028年、関東地方で「平忠常の乱」が起こります。これは約100年前に起こった「平将門の乱」以来の大規模な反乱でした。朝廷は反乱を制圧するために軍を派遣しますが、それがなかなかおさまりません。そうして、3年後に源頼信が派遣されることになり、ようやく乱を平定したのです。
また、「平忠常の乱」を平定したことで、関東の「坂東平氏」たちの多くが源頼信の下に入ることになりました。関東で配下が増えたことで、河内源氏が関東で勢力を広げるきっかけとなったのです。
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