天皇に代わって政治を回す役職を「摂政」や「関白」というのは知っているな。その摂政と関白を排出する家を「摂関家」といったんです。
今回はその「摂関家」の興りや盛衰を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代に活躍した摂関政治。今回はその長い歴史について詳しく調べてまとめた。

1.藤原氏の祖「藤原不比等」と摂関政治のはじまり

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藤原氏のルーツ「藤原不比等」

摂関(せっかん)政治のはじまりは平安時代、藤原氏のなかでも藤原北家が天皇の外戚として政務を執り行ったのがはじまりでした。ここではまず藤原氏がどのようにして政治の実権を握るようになったのか。また、その立役者「藤原不比等」について解説していきます。

飛鳥時代、「藤原不比等」は「中臣鎌足」の息子として生まれました。中臣鎌足といえば、中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに行った「大化の改新」が有名ですよね。中臣鎌足は生涯にわたって中大兄皇子の側近として仕え、その功績として後年に「藤原」の姓を賜ったのでした。「藤原」姓は中臣鎌足の子孫のみが名乗ることを許され名字のため、息子の不比等が「藤原不比等」となったのです。

後ろ盾のなかった藤原不比等

父の功績のおかでげ藤原不比等は生まれながらのエリートコースを歩んだと思われるかもしれません。しかし、現実はまったく違います。

父・中臣鎌足が亡くなったとき、藤原不比等は11歳の子どもでした。そして、タイミングの悪いことに天智天皇の跡継ぎ問題で朝廷は荒れ「壬申の乱」が起こります。

藤原不比等は子どもだったということで、壬申の乱には関わりませんでした。しかし、同族の中臣氏が処罰の対象となり、朝廷から一掃されてしまうと藤原不比等の政治的な後ろ盾は一気にいなくなってしまったのです。そのため、藤原不比等が成長して政治家となったときには父・中臣鎌足の功績など一切考慮されずに下級役人からのスタートとなったのでした。

けれど、藤原不比等は諦めることなく自らの力で出世の道を切り開いていきます。そうして、藤原不比等が仕えていた皇子が文武天皇として即位し、さらに701年に制定された「大宝律令」の編纂の貢献などさまざまな功績をへて政治的立場を強めていったのです。

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藤原氏最初の皇后「光明皇后」

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一方で、藤原不比等は自分の娘たちを有力な皇族や貴族に嫁入りさせて親戚関係を作っていました。奈良時代、久しぶりに即位した男性の天皇だった聖武天皇の母親は藤原不比等の娘・宮子であり、また夫人のひとりが藤原不比等の娘・光明子だったのです。

藤原不比等は聖武天皇の夫人にした光明子を皇后にしようとしました。この時代では皇族の出身ではない女性は奥さんにはなれても、皇后にはなれませんでした。皇后は必ず皇族の血を引いた特別な女性に限るのです。当然、藤原不比等のこの暴挙には強い反発が起こりました。

特に猛反対したのが「長屋王(ながやおう)」です。長屋王の反対により、藤原不比等の生前に光明子が皇后になるという野望は果たせませんでした。しかし、藤原不比等は生前に四人の息子にそれぞれ家を継がせて「藤原四家」という家系の祖にしていました。上から長男・武智麻呂の藤原南家、次男・房前の北家、三男・宇合の式家、四男・麻呂の京家です。

最初こそ長屋王に圧倒されていた四兄弟でしたが、「長屋王の変」で長屋王を自害に追い込み、反対するもののいなくなった朝廷で藤原不比等の娘・光明子が日本史上初の皇族ではない皇后となったのでした。

藤原北家、栄華のはじまり

残念ながら四兄弟が疫病で亡くなったり、藤原広嗣の乱や、道鏡の台頭などで藤原氏の権勢は一時的に後退していきます。再び藤原氏が脚光を浴びることになったのは、平安時代になってからのこと。次男・藤原良房の北家の末えい・藤原良房からはじまります。

藤原良房の甥にあたる皇子を即位させて太政大臣(現代でいうところの内閣総理大臣)に就任しました。そして、自分の娘と文徳天皇の皇子が清和天皇として即位したことで天皇の外祖父となります。さらに「応天門の変」で政敵を失脚させたのち、藤原良房は皇族以外で初の「摂政」となりました。

「摂政」は、政治を執ることができない幼少の天皇に代わって政務を執り行う役職のこと。「摂関政治」における「摂」の部分ですね。

関白となった藤原基経

さて、「摂」が出たので今度は「関」の話をしましょう。

藤原良房の死後、北家を継いだのは養子の藤原基経でした。藤原基経は陽成天皇の摂政でしたが、陽成天皇を廃位させたあとに年配の光孝天皇を即位させて「関白」となります。「関白」は天皇を補佐する官職でしたが、この当時は「摂政」と明確な違いはなく、藤原基経の権力が衰えることはありませんでした。

天皇が幼いころは「摂政」、成人してからは「関白」へ変わると決まったのは、940年ごろになってから。藤原忠平が幼い朱雀天皇の「摂政」となり、朱雀天皇が成人したのちに改めて「関白」に任命されたのです。これが摂政から関白への最初の異動であり、天皇の幼少期は「摂政」、成人後は「関白」となる例となりました。こうして、藤原北家が摂関政治の中心となり、北家は藤原氏の当主「氏長者」となったのです。

そして、特別な時期を除いて幕末までずっと摂政と関白は常に置かれることとなります。ちなみに、ここでいう特別な時期とは、摂政や関白を置かずに天皇自らが政治を執り行うことで、それを「親政」といいました。

2.藤原氏最大の栄華となった平安時代

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この世は我が世、藤原道長

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

この歌を詠んだことで有名な平安時代中期の貴族「藤原道長」。ざっくりした意味は「私はこの世のすべてを手に入れた」です。すがすがしいほどストレートですね。ですが、藤原道長とその息子・藤原頼道の代は摂関政治の最盛期、藤原氏の栄華の絶頂となった時代でした。

なぜ、藤原道長が藤原摂関家の最盛期となったのか?

それは、藤原道長が三人の娘を皇后にしたことにあります。実は、平安時代も「平安」の名前に似つかないほど権力争いの絶えない時代で、同じ藤原氏内でも権力を巡る争いが繰り広げられていました。そんななか、藤原道長は長女・藤原彰子を第66代一条天皇に、次女・藤原妍子をその次の第67代三条天皇に、そして、四女・藤原威子を第68代後一条天皇の皇后にしたのです。

藤原道長は三代の天皇にわたって外戚となり続け、歴代の藤原氏の氏長者のなかでもトップ中のトップとなったわけですね。こうなると誰も藤原道長に物申すことができなくなり、朝廷の権力争いがストップするほどでした。

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摂政と関白を世襲制に

そんな最強の権力者・藤原道長が摂政となったのは、1016年に8歳の後一条天皇が即位したときのこと。けれど、それもたった一年で息子の藤原頼通に譲って太政大臣に就任します……が、太政大臣も早々に辞任してしまいます。

というのも、藤原道長はこのときすでに権力の絶頂にあり、わざわざ太政大臣にならなくてもよかったんです。そのため、1018年には朝廷勤めもやめてしまいます。しかし、政治には口を出していきました。

ただし、ここで藤原道長が息子の藤原頼通に摂関を譲ったことで、摂関・関白は藤原頼通の血筋による世襲制が公認されることになります。

平家の台頭による後退

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藤原道長が藤原摂関家の絶頂ですから、あとの時代は右肩下がりですね。最初の大ダメージは1156年の「保元の乱」でした。「保元の乱」は崇徳上皇と後白河天皇による権力争いですが、久しぶりに武力衝突にまで発展した権力闘争です。

この「保元の乱」で敗者となった崇徳上皇方についた藤原氏の氏長者・藤原頼長は敗死。さらに後白河天皇側についていた兄・藤原忠通は関白として政治的主導権を取り戻せず仕舞いとなりました。そこへ引退した天皇(上皇、太上天皇)が政治を行う「院政」が復活して以降、摂関家は以前のような強権を振るうことはできなくなったのです。

3.鎌倉時代以降の摂関家の推移

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鎌倉幕府成立後の朝廷

平家の台頭から源平合戦(治承・寿永の乱)をへて、源頼朝が関東に鎌倉幕府を開きます。これはそれまで政治の中心だった天皇と公家(貴族)から、はじめて武士へと政権が移った歴史のターニングポイントです。

しかし、鎌倉幕府ができたからといって朝廷や天皇、貴族がなくなるわけではありません。朝廷は朝廷で存続していたのです。そしてここでも権力争いは健在でした。

藤原頼通より、摂政と関白は彼の子孫が代々世襲するようになっていましたが、鎌倉時代にまで下ると藤原頼通の血を引く家系は五つに分かれていました。その公家の家格の頂点となった五つの家を「摂関家」、あるいは「五摂家」といい、それぞれ近衛家、九条家、鷹司家、一条家、二条家を指します。五つの摂関家が定まって以降、藤原氏の氏長者もこの五家から選出されました。

九条家から生まれた鎌倉幕府の将軍

一方、鎌倉幕府では源頼朝の子孫が絶えてしまいました。しかし、幕府がわずか三代限りで終わってしまうかと思いきや、鎌倉幕府の執権「北条泰時」は、遠いながらも源頼朝と血縁関係のある「九条頼経(藤原頼経)」を将軍に立てたのです。九条頼経は摂関家のひとつ「九条家」の出身で、当時わずか2歳。政治を執権の北条泰時が執り行うことで鎌倉幕府を存続させようとしたのです。

ところが、源頼朝の直接の子孫でない九条頼経を将軍にして幕府を存続させるなんて許せない後鳥羽上皇が「承久の乱」を起こします。この緊急事態をなんとか一致団結して返り討ちにした幕府はその後、九条頼経のあとに頼経の息子・藤原頼嗣を五代目将軍に就任させました。

親子二代に渡って将軍となり、九条家は鎌倉幕府に新たな政治基盤を持つように思えますよね。しかし、幕府の執権たちがそれを許しません。実権のないかいらいの将軍として利用されていた九条頼経は大人になったところで将軍職を息子・九条頼嗣に譲らされてしまいます。そして、その九条頼嗣もまた6歳と幼く実権は持てません。さらに14歳になったころには、後嵯峨上皇の皇子が新たに将軍となることが決まって、京都へ追放されてしまうのでした。

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江戸時代から幕末へ

鎌倉時代以降、摂関家が天皇の外戚となること自体が少なくなり、そのまま権威は徐々に衰退していくことになります。

しかし、江戸時代に徳川家康がつくった天皇や公家を統制する「禁中並公家諸法度」において、摂関家は天皇の子の親王よりも、摂関の方が序列が高いとしたのです。江戸幕府の対応により、摂関家からは親幕派の当主が現れたり、また摂関家から徳川将軍の正室に迎えられる娘も現れました。

けれど、幕末に「王政復古の大号令」によって政権が天皇に返されることになると、摂政と関白は征夷大将軍と一緒に廃止されることになりました。現在では、日本国憲法などによって天皇が国事行為を行えない場合の代理人として「摂政」の規定が残されているのみです。

飛鳥時代から綿々と続いた支配者たち

藤原不比等からはじまり、摂政・関白として朝廷を牛耳り続けた藤原摂関家。千年以上の長きにわたって日本の政治を担ってきました。一進一退がありながらも、摂関家は長い間日本史上の大きなキーポイントとなる一族であり続けたのです。

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平安時代日本史歴史

3分で簡単「摂関家」日本の陰の権力者?歴史オタクがわかりやすく解説

天皇に代わって政治を回す役職を「摂政」や「関白」というのは知っているな。その摂政と関白を排出する家を「摂関家」といったんです。
今回はその「摂関家」の興りや盛衰を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。平安時代に活躍した摂関政治。今回はその長い歴史について詳しく調べてまとめた。

1.藤原氏の祖「藤原不比等」と摂関政治のはじまり

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藤原氏のルーツ「藤原不比等」

摂関(せっかん)政治のはじまりは平安時代、藤原氏のなかでも藤原北家が天皇の外戚として政務を執り行ったのがはじまりでした。ここではまず藤原氏がどのようにして政治の実権を握るようになったのか。また、その立役者「藤原不比等」について解説していきます。

飛鳥時代、「藤原不比等」は「中臣鎌足」の息子として生まれました。中臣鎌足といえば、中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに行った「大化の改新」が有名ですよね。中臣鎌足は生涯にわたって中大兄皇子の側近として仕え、その功績として後年に「藤原」の姓を賜ったのでした。「藤原」姓は中臣鎌足の子孫のみが名乗ることを許され名字のため、息子の不比等が「藤原不比等」となったのです。

後ろ盾のなかった藤原不比等

父の功績のおかでげ藤原不比等は生まれながらのエリートコースを歩んだと思われるかもしれません。しかし、現実はまったく違います。

父・中臣鎌足が亡くなったとき、藤原不比等は11歳の子どもでした。そして、タイミングの悪いことに天智天皇の跡継ぎ問題で朝廷は荒れ「壬申の乱」が起こります。

藤原不比等は子どもだったということで、壬申の乱には関わりませんでした。しかし、同族の中臣氏が処罰の対象となり、朝廷から一掃されてしまうと藤原不比等の政治的な後ろ盾は一気にいなくなってしまったのです。そのため、藤原不比等が成長して政治家となったときには父・中臣鎌足の功績など一切考慮されずに下級役人からのスタートとなったのでした。

けれど、藤原不比等は諦めることなく自らの力で出世の道を切り開いていきます。そうして、藤原不比等が仕えていた皇子が文武天皇として即位し、さらに701年に制定された「大宝律令」の編纂の貢献などさまざまな功績をへて政治的立場を強めていったのです。

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