かつて、キリスト教諸国家とイスラム教王朝がイベリア半島をめぐって約800年ものあいだ続いた争いがあった。それをキリスト教国家側は「レコンキスタ」という。
今回はその「レコンキスタ」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。これまで宗教に関連する記事を投稿。今回はキリスト教とイスラム教が衝突した「レコンキスタ」についてまとめた。

1.ウマイヤ朝のイベリア半島侵略

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イベリア半島で繰り広げられた「レコンキスタ」

イベリア半島で繰り広げられた「レコンキスタ」。

今回のテーマとなる「レコンキスタ」。日本では「国土回復運動」とも言われます。言葉通り、これはイベリア半島(現在のスペインやポルトガルがあるヨーロッパ南西の半島)をイスラム教の国から、キリスト諸国家が取り返した戦争です。その期間は、718年から1492年の約800年にも及びます。

さて、約800年ものあいだ、いったいイベリア半島ではなにが起こっていたのでしょうか?

イスラム帝国「ウマイヤ朝」

「レコンキスタ」の発端は、イスラム教の帝国「ウマイヤ朝」がイベリア半島にあった「西ゴート王国(ビシゴート王国)」を征服したことにはじまります。

さて、このイスラム帝国「ウマイヤ朝」はいったいどこから来たのでしょうか?

そもそも、イスラム教を社会の中心とする「イスラム世界」はアラビア半島にはじまり、徐々に勢力を拡大しながらシリアやエジプト、モロッコなど地中海に面した地域にまで支配領域を拡大しました。そうして、ウマイヤ朝の時代には、アフリカ大陸とヨーロッパ大陸を隔てるジブラルタル海峡に至ります。ジブラルタル海峡を挟むと、アフリカとヨーロッパの距離は最短だとわずか14.4キロ。目視で両海岸が確認できる距離です。現代だとジブラルタル海峡を泳いで渡るチャレンジなんてものもありました。ちなみに、ジブラルタル海峡は世界史上で何度も登場する重要な場所なので、覚えておいて損はありません。

さて、ジブラルタル海峡にまで支配域を拡大したウマイヤ朝は、次にイベリア半島への侵略を行います。

イベリア半島「西ゴート王国」の滅亡

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当時、イベリア半島にはキリスト教を国教とするゲルマン系王国の「西ゴート王国(ビシゴート王国)」がありました。

ところが、711年にウマイヤ朝がイベリア半島に侵略を開始。西ゴートの王・ロデリックがスペイン南部で起こった「グアダレーテ湖畔の戦い」で戦死し、そのまま首都トレドが陥落した上に、多くの貴族が処刑されました。こうして西ゴート王国は滅亡したのです。

その後、ウマイヤ朝はどんどんイベリア半島を征服していきました。生き残った西ゴート王国の一部残党勢力が抵抗を続けたものの、それも718年には滅亡してしまいます。そんななか、イベリア半島北西部に逃れた西ゴート王国の貴族の生き残り「ペラーヨ」は、現地のアストゥリアス人と組んで蜂起し、718年に「アストゥリアス王国」を建国。ウマイヤ朝への反抗の兆しを見せ始めたのです。

ウマイヤ朝支配下のイベリアのキリスト教徒

一方、西ゴート王国を滅ぼし、新たな支配者となったウマイヤ朝。彼らはイベリア半島をアル=アンダルスと名付けて支配をはじめます。

しかし、イスラム教を国教としていましたが、彼らはイベリア半島の人々に対して改宗を迫ったりはしませんでした。宗教に対して寛容だったわけですね。ただし、改宗しない代わりにジズヤ(イスラム教徒でない人に課せられる人頭税)を納めさせます。ジズヤを納めれば、キリスト教でもユダヤ教でも好きに信仰することができたのです。

ただ、イスラム教の国なので、やっぱりイスラム教徒が第一ですよね。そのため社会的差別が行われ、耐えかねたものがイスラム教へ改宗することも多々。あるいは、高いジズヤを払えずに逃げ出す人もたくさんいました。

\次のページで「2.キリスト教国家の反撃」を解説!/

2.キリスト教国家の反撃

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キリスト教国家初の勝利

ペラーヨの建国したアストゥリアス王国。当然、イベリア半島の支配を進めているウマイヤ朝にとっては邪魔でしたが、ウマイヤ朝としてはピレネー山脈の向こうのフランク王国(現在のフランス共和国あたり)を次の目標として定めていました。それに、西ゴート王国の残党の反乱など取るに足らないと判断していたのです。

そのためにウマイヤ朝はアストゥリアス王国の討伐よりも先にフランク王国へ攻め込みました。ところが、ウマイヤ朝はフランク王国との戦いに敗北してしまいます。

このとき敗北を国に報告したくなかったウマイヤ朝の兵たちは、ふとアストゥリアス王国のことを思い出しました。「そうだ、アストゥリアス王国行こう。滅ぼせばフランク王国での負けを少しでも清算できるに違いない」こうして、722年にウマイヤ朝とアストゥリアス王国の「コバドンガの戦い」が幕を開けたのです。

しかし、ふたを開けてみると最初こそ優勢だったウマイヤ朝でしたが、険しい山岳に立てこもったペラーヨとたった300人のアストゥリアス軍に大苦戦。ウマイヤ朝の司令官が戦死したため撤退します。その後、すぐに立て直して再戦しましたがこちらも敗戦と散々な結果に終わりました。

一方、アストゥリアス王国の勝利は、イスラム勢力に対するキリスト教勢力の始めての勝利でした。戦いに勝利したアストゥリアス王国は、以降、レコンキスタの拠点となります。

イベリア半島の後ウマイヤ朝

ウマイヤ朝のフランク王国進出はまだ終わったわけではありません。しかし、732年の「トゥール・ポワティエ間の戦い」で敗北して以来、ピレネー山脈より向こうへの進出は阻止されてしまいました。その上、本国でウマイヤ朝の分裂が起こり、750年にはサッファーフの革命によってウマイヤ朝は滅ぼされ、新たにアッバース朝が誕生します。

このとき、アッバース朝の残党狩りを生き残ったウマイヤ朝王族のアブド・アッラフマーン1世はイベリア半島に逃れ、756年にコルドバ(スペイン、アンダルシア州コルドバ県)で「後ウマイヤ朝」を建国。以降、イベリア半島の勢力争いに身を投じるわけですが、国内の情勢が安定しないままフランク王国のイベリア半島進出がはじまってしまいます。

イベリア半島に誕生した国々

フランク王国から再三の攻撃により、後ウマイヤ朝は徐々に南へと後退していきます。しかし、フランク王国もまたイベリア半島の人々にとってはピレネー山脈を越えてきた侵入者に違いありません。このため、地元の有力者たちが両者を撃退すべく立ち上がって反乱を起こしたのです。

そうして、後ウマイヤ朝とフランク王国の影響力が低下したイベリア半島には「アラゴン王国」や「ナバーラ王国」、フランク王国から独立した「カタルーニャ公国」などが興りました。

また、レコンキスタ最初期から存在するアストゥリアス王国も健在です。10世紀に入るころにはスペイン北部にまで勢力を広め、914年に国名を「アストゥリアス王国」から「レオン王国」へと改めます。

後ウマイヤ朝の滅亡とイスラム勢力の分裂

政治や経済を整え、国内の安定化をはかって盛り返していた後ウマイヤ朝でしたが、11世紀に入ったところで衰退がはじまります。そんななかで内乱がおこって1031年にいよいよ後ウマイヤ朝が崩壊すると、今度はイベリア半島全土で「タイファ(イスラムの小国)」がいくつも乱立することに。そして、タイファ同士でお互いに支配権を巡る争いが始まったのでした。

けれど、こうなると300年もの間イベリア半島の国土回復を狙っていたキリスト教の国々が黙っているはずがありませんよね。タイファ同士の争いに乗じて、イベリア半島のキリスト教諸国家のレコンキスタの戦いが活発になりはじめました。

また、北アフリカで建国したイスラム王朝の「ムラービト朝」が北上を開始。タイファ諸国はレコンキスタに対抗するためムラービト朝に支援を頼むなどして、なんとかキリスト教諸国の勢いに対抗します。

\次のページで「3.レコンキスタの完了」を解説!/

3.レコンキスタの完了

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ムワッヒド朝の誕生と衰退

イベリア半島での戦いが終わらないまま12世紀後半になると、モロッコで起こった宗教運動からムワッヒド朝が誕生。ムラービト朝を倒し、イベリア半島への介入をはじめました。

ムワッヒド朝の軍事力はたいへん強力で、勢いに乗っていたはずのレオン王国のアルフォンソ8世を破ってトレドを攻撃します。この事態に危機感を感じた当時のローマ教皇インノケンティウス3世は、キリスト教諸国同士での争いをやめさせ、みんなで一丸となってムワッヒド朝に対抗するようキリスト教諸国に働きかけたのです。そうして集められたのが「第4回十字軍」でした。

十字軍はイベリア半島の王たちが集めた軍勢と連合し、1212年の「ラス=ナバス=デ=トロサの戦い」でムワッヒド朝に勝利をおさめたのです。その後、ムワッヒド朝は後継者争いがはじまると、さらに内乱が勃発。もうイベリア半島の支配権の話どころではなくなったところを狙ったキリスト教諸国が南下を開始。最終的に、イベリア半島のイスラム教国家は、現在のスペイン南部に位置する「ナスル朝のグラナダ王国」を残すのみとなりました。

ところで、グラナダにはスペイン屈指の世界遺産「アルハンブラ宮殿」がありますね。このアルハンブラ宮殿を築いたのがナスル朝で、イスラム建築の傑作とされています。

カスティーリャとアラゴンの同盟「スペイン王国成立」

レコンキスタの終盤、15世紀あたりになるとイベリア半島は五つの国に分かれていました。ひとつはイスラム教国家の生き残り「グラナダ王国」。他の四つはキリスト教諸国で「アラゴン王国」「ナバーラ王国」「ポルトガル王国」、そして、レオン王国を統合した「カスティーリャ王国」です。

このうち、アラゴン王国の王子フェルナンドとカスティーリャ王国の王女イサベルが1469年に結婚。1479年に両国は統合されることとなり、名前も新たに「スペイン王国」として成立しました。

イスラム教国最後の砦・グラナダの陥落

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新たに誕生したスペイン王国は、1482年にグラナダ王国で内乱が起こると見るや、すぐにグラナダ王国への侵攻を開始します。そうして1490年には最後の拠点・グラナダを包囲。そこからさらに2年の歳月をかけた1492年1月にスペイン王国はようやくグラナダを陥落させました。

グラナダが落ちたことによってイスラム勢力は北アフリカに後退することになり、ここに800年も続いたレコンキスタが完了したのです。

\次のページで「イスラム教対キリスト教のひとつ」を解説!/

イスラム教対キリスト教のひとつ

718年、イスラム教の帝国「ウマイヤ朝」がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島のキリスト教国家の「西ゴート王国」に侵入、滅亡させました。そうして、西ゴート王国の生き残り貴族が建てたアストゥリアス王国が反旗を翻し、はじめてウマイヤ朝に勝利したのをきっかけに「レコンキスタ」がはじまったのです。

イスラム教勢力とキリスト教勢力はお互いに一進一退を繰り返し、またその途中、同勢力内での争いがあり、完了までに800年も月日が流れていきました。

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3分で簡単「レコンキスタ」なぜイスラム教とキリスト教は争った?歴史オタクがわかりやすく解説

かつて、キリスト教諸国家とイスラム教王朝がイベリア半島をめぐって約800年ものあいだ続いた争いがあった。それをキリスト教国家側は「レコンキスタ」という。
今回はその「レコンキスタ」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。これまで宗教に関連する記事を投稿。今回はキリスト教とイスラム教が衝突した「レコンキスタ」についてまとめた。

1.ウマイヤ朝のイベリア半島侵略

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イベリア半島で繰り広げられた「レコンキスタ」

イベリア半島で繰り広げられた「レコンキスタ」。

今回のテーマとなる「レコンキスタ」。日本では「国土回復運動」とも言われます。言葉通り、これはイベリア半島(現在のスペインやポルトガルがあるヨーロッパ南西の半島)をイスラム教の国から、キリスト諸国家が取り返した戦争です。その期間は、718年から1492年の約800年にも及びます。

さて、約800年ものあいだ、いったいイベリア半島ではなにが起こっていたのでしょうか?

イスラム帝国「ウマイヤ朝」

「レコンキスタ」の発端は、イスラム教の帝国「ウマイヤ朝」がイベリア半島にあった「西ゴート王国(ビシゴート王国)」を征服したことにはじまります。

さて、このイスラム帝国「ウマイヤ朝」はいったいどこから来たのでしょうか?

そもそも、イスラム教を社会の中心とする「イスラム世界」はアラビア半島にはじまり、徐々に勢力を拡大しながらシリアやエジプト、モロッコなど地中海に面した地域にまで支配領域を拡大しました。そうして、ウマイヤ朝の時代には、アフリカ大陸とヨーロッパ大陸を隔てるジブラルタル海峡に至ります。ジブラルタル海峡を挟むと、アフリカとヨーロッパの距離は最短だとわずか14.4キロ。目視で両海岸が確認できる距離です。現代だとジブラルタル海峡を泳いで渡るチャレンジなんてものもありました。ちなみに、ジブラルタル海峡は世界史上で何度も登場する重要な場所なので、覚えておいて損はありません。

さて、ジブラルタル海峡にまで支配域を拡大したウマイヤ朝は、次にイベリア半島への侵略を行います。

イベリア半島「西ゴート王国」の滅亡

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当時、イベリア半島にはキリスト教を国教とするゲルマン系王国の「西ゴート王国(ビシゴート王国)」がありました。

ところが、711年にウマイヤ朝がイベリア半島に侵略を開始。西ゴートの王・ロデリックがスペイン南部で起こった「グアダレーテ湖畔の戦い」で戦死し、そのまま首都トレドが陥落した上に、多くの貴族が処刑されました。こうして西ゴート王国は滅亡したのです。

その後、ウマイヤ朝はどんどんイベリア半島を征服していきました。生き残った西ゴート王国の一部残党勢力が抵抗を続けたものの、それも718年には滅亡してしまいます。そんななか、イベリア半島北西部に逃れた西ゴート王国の貴族の生き残り「ペラーヨ」は、現地のアストゥリアス人と組んで蜂起し、718年に「アストゥリアス王国」を建国。ウマイヤ朝への反抗の兆しを見せ始めたのです。

ウマイヤ朝支配下のイベリアのキリスト教徒

一方、西ゴート王国を滅ぼし、新たな支配者となったウマイヤ朝。彼らはイベリア半島をアル=アンダルスと名付けて支配をはじめます。

しかし、イスラム教を国教としていましたが、彼らはイベリア半島の人々に対して改宗を迫ったりはしませんでした。宗教に対して寛容だったわけですね。ただし、改宗しない代わりにジズヤ(イスラム教徒でない人に課せられる人頭税)を納めさせます。ジズヤを納めれば、キリスト教でもユダヤ教でも好きに信仰することができたのです。

ただ、イスラム教の国なので、やっぱりイスラム教徒が第一ですよね。そのため社会的差別が行われ、耐えかねたものがイスラム教へ改宗することも多々。あるいは、高いジズヤを払えずに逃げ出す人もたくさんいました。

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