南北朝時代室町時代日本史歴史

5分でわかる「後嵯峨天皇」南北朝の原因を作った?歴史オタクがわかりやすく解説

再びの皇位継承問題

仲恭天皇の廃位を受けて即位したのは後堀河天皇です。後堀河天皇は、「承久の乱」首謀者の後鳥羽上皇の兄・守貞親王(後高倉院)の皇子でした。けれど、その治世は上皇時代と合わせても長くはなく、また、後堀河天皇の跡を継いだ四条天皇もわずか十二歳で子どもを残さず崩御してしまいます。

こうして皇位継承問題が持ち上がりました。

問題を受けて、当時、朝廷で力を持っていた九条道家らは、流罪となった順徳上皇の皇子・忠成王を擁立。次の天皇へ推薦します。

しかし、順徳上皇は後鳥羽上皇とともに「承久の乱」を指導し、しかも後鳥羽上皇以上に打倒幕府に積極的だったといわれた上皇です。もし、忠成王が即位すれば、佐渡島(新潟県)に配流されていた順徳上皇が天皇の父として都に戻ってくる可能性がありますよね。そうするとせっかく萎えた倒幕の空気が復活する危険があり、忠成王の即位は鎌倉幕府にとって好ましいものではありませんでした。

不遇の子ども時代を乗り越え天皇へ

そこで幕府の執権・北条泰時は、忠成王の即位に反対して邦仁王(のちの後嵯峨天皇)を擁立します。

邦仁王の父・土御門上皇もまた流罪となっていましたが、しかし、土御門上皇は「承久の乱」には関与しておらず、父・後鳥羽上皇の流罪に対して自ら申し出て配流されたという背景がありました。そういうわけで、北条泰時は邦仁王を擁立して即位させたのです。

父・土御門上皇の配流と、身を寄せた土御門家の没落という不運に遭遇し、元服もままならなかった不遇の皇子は、こうして後嵯峨天皇となり、歴史の表舞台へと立ったのでした。

また、後嵯峨天皇即位によって朝廷が幕府の統制下におかれるようになったため、朝廷と幕府間にあった緊張状態が緩和されたのです。

後嵯峨上皇の政敵失脚

後嵯峨天皇は即位したのち、朝廷で実力を持つ西園寺家の娘を中宮としました。そして、その間に生まれた後深草(ごふかぐさ)天皇を即位させて上皇となり、院政を開始します。「院政」とは、平たくいうと天皇を引退した元天皇(上皇)となって現役天皇の代わりに政治を主導することです。

しかも、幸運なことに政敵だった九条道家が同時期に失脚。九条道家は鎌倉幕府の将軍藤原頼経の父だったのですが、その立場の乱用や、また朝廷での独断行動による信頼失墜が重なり、朝廷と幕府のどちらからも危険視されるようになりました。そこに加え、藤原頼経の起こした「宮騒動」の連座や、後嵯峨上皇・後深草天皇に対する背信行為で失脚となったのです。

政敵がいなくなったことで、後嵯峨上皇の政治主導がスムーズに行われるようになりました。

鎌倉幕府の宮将軍誕生

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そのころ、鎌倉幕府は藤原頼経とその息子で五代目将軍となった藤原頼嗣を最後に本当に頼朝の血筋が途絶えてしまっていました。そこで、鎌倉幕府は1252年に後嵯峨上皇の第一皇子・宗尊親王を将軍にしてもらえないか、と奏請します。このころ幕府の実権を握っていたのは執権の北条氏でしたから、後嵯峨上皇の皇子とはいえ、かいらいの将軍です。「承久の乱」以前に同じように奏請された後鳥羽上皇は冗談じゃないとばかりに蹴った案件でした。

しかし、後嵯峨上皇はこの要請を承諾して宗尊親王を鎌倉へ送ります。こうして鎌倉幕府の「宮将軍」が誕生しました。後嵯峨上皇が合意することで、朝廷と幕府の関係を安定をはかったのです。

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倒幕の再熱を危惧した鎌倉幕府は「承久の乱」指導者の順徳上皇の皇子を天皇にさせなかった。代わりに、乱に関わらなかった土御門上皇の皇子を擁立して後嵯峨天皇が即位したということだな。幕府の後押しがあったため、後嵯峨天皇は幕府への歩み寄りを行って政治の安定をはかったんだぞ。

3.南北朝の原因

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