室町時代と同時に「南北朝時代」がスタートするのは知っているか?京都と奈良の吉野にふたりの天皇と二つの朝廷が立って互いに争っていた時代です。一つの国に二つの政府なんて尋常じゃないよな。天皇が同時にふたりなんてのも相当でしょう。
実は、今回のテーマとなる「後嵯峨天皇」はその原因を作った天皇です。なぜそうなったのか、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。義経を討った頼朝が作った鎌倉幕府の最初のピンチとなった承久の乱。そしてその後、天皇を継げる系統がふたつになった出来事について詳しくまとめる。

1.鎌倉幕府と朝廷を揺るがした「承久の乱」

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今回のテーマとなる「後嵯峨天皇(ごさがてんのう)」は「承久の乱」の前年生まれ。そのため、乱の影響を待っ正面から受けた天皇になります。まずは、「承久の乱」が天皇と朝廷に何をもたらしたのかを復習がてら簡単に説明していきましょう。

頼朝と不運な鎌倉幕府将軍たち

平安時代末期、「治承・寿永の乱(源平合戦)」を勝ち抜き、鎌倉幕府を築くことになった「源頼朝」。しかし、頼朝はそれから14年後には落馬が原因となってあっさりと亡くなってしまいます。

それで跡を継いだのが頼朝の長男・源頼家でした。……が、この源頼家、妻の実家をえこひいきしたり、封建制度で重要視される土地を軽んじたりしたために、臣下となる御家人たちからの評判が非常に悪かったのです。そのせいで結局、頼家は将軍の座を追放されることになりました。

そうして次に将軍になったのが、頼家の弟・源実朝です。ところが、実朝も将軍として少々具合が悪い人物でした。なぜなら、実朝は武芸よりも和歌が大好き。それが高じて和歌の大御所「藤原定家」に弟子入りまでしてしまいました。しかも実朝には和歌の才能があって、藤原定家が編んだ「小倉百人一首」にも「鎌倉右大臣」の名前で一首選ばれています。また、「金槐和歌集」という自分の歌を集めた私家集まで作っていました。

そんな和歌の才能あふれる実朝でしたが、これが御家人たちから大ブーイング。天下の将軍が貴族みたいに和歌なんてやってないで武芸を磨きなさい!と、まったく受け入れてもらえませんでした。

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頼朝の子孫の断絶

そんな実朝に悲劇が起こったのは1219年。実朝が武士として初めて朝廷から右大臣に任命されたことで、そのお祝いに鶴岡八幡宮に参詣したときのことです。参詣を終えた帰り道で、実朝は前将軍・源頼家の次男・公暁によって暗殺されてしまいました。

公暁は将軍殺しの罪ですぐに幕府によって処刑されます。しかし、殺された実朝に子どもはなく、実は公暁こそが源頼朝の血を引く最後の人間だったのです。その公暁が死んでしまったことで、源頼朝の血は途絶え、源氏の支配はわずか三代かぎりとなったのでした。

よそから将軍を連れてこよう!

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源頼朝の血筋が途絶えたことで、鎌倉幕府には将軍を継げる人間がいなくなってしまいました。ここであわや幕府崩壊となるかと思いきや、時の執権「北条泰時」は頼朝と遠いながらに血縁関係のある摂関家の藤原頼経を連れてきたのです。

当時、藤原頼経はたったの二歳。言葉もまだたどたどしく、赤ちゃんも同然ですから、政治は執権の北条泰時が担うことになりました。北条泰時は、亡き源頼朝の妻「北条政子」の弟です。

後鳥羽上皇の「承久の乱」

将軍が決まり、北条泰時が執権として権勢を振るおうとした矢先のことでした。武士の政権を快く思っていなかった京都の後鳥羽上皇は、幕府の動揺が収まりきらない時期を狙って北条泰時追討の院宣を下します。

さて、突如として天皇家と朝廷の敵となってしまった鎌倉幕府。天皇家という古代から存在する大きな権威に適しされ、謀反人として扱われるのは当時としては非常におそろしいことでした。そのため、鎌倉幕府を裏切って朝廷側に寝返ろうとする御家人も出てきたのです。

このとき、尼将軍と呼ばれていた北条政子が御家人たちを集めて一喝。北条政子の言葉に心打たれた御家人たちは一丸となって朝廷と戦いました。

そうして後鳥羽上皇の院宣で始まった「承久の乱」は二ヶ月もしないうちに鎌倉幕府の勝利に終わったのです。

その後、このようなことが二度とおこらないように、鎌倉幕府は京都の六波羅に朝廷を見張るための「六波羅探題」を設置しました。

後鳥羽上皇とその子たちの末路

「承久の乱」に失敗し、後鳥羽上皇は隠岐島(島根県)へ流罪。後鳥羽上皇の子どもだった土御門(つちみかど)上皇、順徳(じゅんとく)上皇も流罪、孫の仲恭(ちゅうきょう)天皇が廃位となりました。

土御門上皇の子だった邦仁王(のちの後嵯峨天皇)は、母方の親戚の土御門家に引き取られることに。しかし、土御門家の没落で出家も元服もできないという宙ぶらりんな状態にありました。

2.後嵯峨天皇の御代

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\次のページで「再びの皇位継承問題」を解説!/

再びの皇位継承問題

仲恭天皇の廃位を受けて即位したのは後堀河天皇です。後堀河天皇は、「承久の乱」首謀者の後鳥羽上皇の兄・守貞親王(後高倉院)の皇子でした。けれど、その治世は上皇時代と合わせても長くはなく、また、後堀河天皇の跡を継いだ四条天皇もわずか十二歳で子どもを残さず崩御してしまいます。

こうして皇位継承問題が持ち上がりました。

問題を受けて、当時、朝廷で力を持っていた九条道家らは、流罪となった順徳上皇の皇子・忠成王を擁立。次の天皇へ推薦します。

しかし、順徳上皇は後鳥羽上皇とともに「承久の乱」を指導し、しかも後鳥羽上皇以上に打倒幕府に積極的だったといわれた上皇です。もし、忠成王が即位すれば、佐渡島(新潟県)に配流されていた順徳上皇が天皇の父として都に戻ってくる可能性がありますよね。そうするとせっかく萎えた倒幕の空気が復活する危険があり、忠成王の即位は鎌倉幕府にとって好ましいものではありませんでした。

不遇の子ども時代を乗り越え天皇へ

そこで幕府の執権・北条泰時は、忠成王の即位に反対して邦仁王(のちの後嵯峨天皇)を擁立します。

邦仁王の父・土御門上皇もまた流罪となっていましたが、しかし、土御門上皇は「承久の乱」には関与しておらず、父・後鳥羽上皇の流罪に対して自ら申し出て配流されたという背景がありました。そういうわけで、北条泰時は邦仁王を擁立して即位させたのです。

父・土御門上皇の配流と、身を寄せた土御門家の没落という不運に遭遇し、元服もままならなかった不遇の皇子は、こうして後嵯峨天皇となり、歴史の表舞台へと立ったのでした。

また、後嵯峨天皇即位によって朝廷が幕府の統制下におかれるようになったため、朝廷と幕府間にあった緊張状態が緩和されたのです。

後嵯峨上皇の政敵失脚

後嵯峨天皇は即位したのち、朝廷で実力を持つ西園寺家の娘を中宮としました。そして、その間に生まれた後深草(ごふかぐさ)天皇を即位させて上皇となり、院政を開始します。「院政」とは、平たくいうと天皇を引退した元天皇(上皇)となって現役天皇の代わりに政治を主導することです。

しかも、幸運なことに政敵だった九条道家が同時期に失脚。九条道家は鎌倉幕府の将軍藤原頼経の父だったのですが、その立場の乱用や、また朝廷での独断行動による信頼失墜が重なり、朝廷と幕府のどちらからも危険視されるようになりました。そこに加え、藤原頼経の起こした「宮騒動」の連座や、後嵯峨上皇・後深草天皇に対する背信行為で失脚となったのです。

政敵がいなくなったことで、後嵯峨上皇の政治主導がスムーズに行われるようになりました。

鎌倉幕府の宮将軍誕生

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そのころ、鎌倉幕府は藤原頼経とその息子で五代目将軍となった藤原頼嗣を最後に本当に頼朝の血筋が途絶えてしまっていました。そこで、鎌倉幕府は1252年に後嵯峨上皇の第一皇子・宗尊親王を将軍にしてもらえないか、と奏請します。このころ幕府の実権を握っていたのは執権の北条氏でしたから、後嵯峨上皇の皇子とはいえ、かいらいの将軍です。「承久の乱」以前に同じように奏請された後鳥羽上皇は冗談じゃないとばかりに蹴った案件でした。

しかし、後嵯峨上皇はこの要請を承諾して宗尊親王を鎌倉へ送ります。こうして鎌倉幕府の「宮将軍」が誕生しました。後嵯峨上皇が合意することで、朝廷と幕府の関係を安定をはかったのです。

3.南北朝の原因

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\次のページで「後深草天皇から亀山天皇への譲位」を解説!/

後深草天皇から亀山天皇への譲位

院政を行い、治天の君となった後嵯峨上皇。しかし、ここで後深草天皇に亀山天皇への譲位を促します。後深草天皇も亀山天皇もともに後嵯峨上皇の皇子でしたが、後嵯峨上皇は非常にかわいがっていた弟のほうの亀山天皇を天皇にしたくてしかたなかったのです。それで後深草天皇は渋々亀山天皇へ譲位したのでした。

さらにその後、後嵯峨上皇は亀山天皇の皇太子(次の天皇)を決める際も、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子を指名します。

この指名をきっかけに後深草上皇の血統「持明院統」と、亀山天皇の血統「大覚寺統」の対立がはじまりました。しかも、後嵯峨上皇は次の治天の君や、以降の皇位決定をすべて鎌倉幕府に任せるとして崩御してしまったのです。

幕府の決定

そんな大事な決定権をゆだねられた鎌倉幕府だって困りますよね。どちらの血統を天皇としても、絶対にしこりが残ります。

それでひとまず後嵯峨上皇の願いだと思われる亀山天皇の親政のため、亀山天皇からその皇子・後宇多天皇に譲位。亀山天皇の院政が始まります。

けれど、後深草上皇が黙っているわけがありませんよね。不満を積もらせた後深草上皇は、後深草上皇に肩入れする西園寺兼実を時の執権・北条時宗と交渉させて、自分の皇子を後宇多天皇の皇太子にしてしまうのです。そうして、後宇多天皇が退位し、後深草上皇の皇子・伏見天皇が即位すると、今度は後深草上皇が院政を始めたのでした。さらに伏見天皇は自分の皇子を皇太子として、亀山天皇の大覚寺統との確執を決定的にしてしまったのです。

こうして、後深草上皇の血統「持明院統」と、亀山天皇の血統「大覚寺統」による熾烈な皇位継承争いが起こるのでした。

鎌倉幕府の対応「両統迭立」

伏見天皇の皇子が後伏見天皇として即位したのちのこと。後深草上皇が黙っていなかったのと同じように、大覚寺統だってずっと黙っているわけではありません。にわかに大覚寺統の巻き返しが起こり、後伏見天皇の皇太子は後宇多上皇の第一皇子に決まりました。

このようなことが起こったため、伏見上皇の院政は安定しなくなり、鎌倉幕府は治天の君と天皇の交代を朝廷に促したのです。

さて、この交代のとき、はじめて鎌倉幕府は公式な方針として「両統迭立」を掲げました。これは、持明院統と大覚寺統のふたつの血統で一代ずつ交互に天皇の位につくというものです。これを「文保の和談」といいました。以降、鎌倉幕府が滅びるまで「両統迭立」が続きます。

しかし、天皇になれる系統がふたつに分裂したままだったことで、のちに南北朝の争いへと繋がってしまったのでした。

幕府と朝廷の仲を取りながらも南北朝の争いを生んだ天皇

「承久の乱」で不遇な幼少期を過ごした後嵯峨天皇。四条天皇の崩御にともなって天皇として歴史の表舞台に返り咲くことになります。鎌倉幕府に宮将軍を送るなど、乱以降の朝廷と幕府の緊張を緩和する政策を行いました。

しかし、後深草天皇から無理矢理亀山天皇へ譲位させるなどして皇室の分裂を起こし、のちの南北朝時代の大きな争いの火種も作ったのです。

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南北朝時代室町時代日本史歴史

3分で簡単「後嵯峨天皇」南北朝の原因を作った?歴史オタクがわかりやすく解説

室町時代と同時に「南北朝時代」がスタートするのは知っているか?京都と奈良の吉野にふたりの天皇と二つの朝廷が立って互いに争っていた時代です。一つの国に二つの政府なんて尋常じゃないよな。天皇が同時にふたりなんてのも相当でしょう。
実は、今回のテーマとなる「後嵯峨天皇」はその原因を作った天皇です。なぜそうなったのか、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。義経を討った頼朝が作った鎌倉幕府の最初のピンチとなった承久の乱。そしてその後、天皇を継げる系統がふたつになった出来事について詳しくまとめる。

1.鎌倉幕府と朝廷を揺るがした「承久の乱」

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今回のテーマとなる「後嵯峨天皇(ごさがてんのう)」は「承久の乱」の前年生まれ。そのため、乱の影響を待っ正面から受けた天皇になります。まずは、「承久の乱」が天皇と朝廷に何をもたらしたのかを復習がてら簡単に説明していきましょう。

頼朝と不運な鎌倉幕府将軍たち

平安時代末期、「治承・寿永の乱(源平合戦)」を勝ち抜き、鎌倉幕府を築くことになった「源頼朝」。しかし、頼朝はそれから14年後には落馬が原因となってあっさりと亡くなってしまいます。

それで跡を継いだのが頼朝の長男・源頼家でした。……が、この源頼家、妻の実家をえこひいきしたり、封建制度で重要視される土地を軽んじたりしたために、臣下となる御家人たちからの評判が非常に悪かったのです。そのせいで結局、頼家は将軍の座を追放されることになりました。

そうして次に将軍になったのが、頼家の弟・源実朝です。ところが、実朝も将軍として少々具合が悪い人物でした。なぜなら、実朝は武芸よりも和歌が大好き。それが高じて和歌の大御所「藤原定家」に弟子入りまでしてしまいました。しかも実朝には和歌の才能があって、藤原定家が編んだ「小倉百人一首」にも「鎌倉右大臣」の名前で一首選ばれています。また、「金槐和歌集」という自分の歌を集めた私家集まで作っていました。

そんな和歌の才能あふれる実朝でしたが、これが御家人たちから大ブーイング。天下の将軍が貴族みたいに和歌なんてやってないで武芸を磨きなさい!と、まったく受け入れてもらえませんでした。

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