例外的に「太上天皇」となったふたり
天皇についていない親王があとから「太上天皇」になったという先例がないわけではないのです。鎌倉時代の「後高倉院」と室町時代の「後崇光院」がその例となったふたりでした。
まず、後高倉院の例からみてみましょう。1221年「承久の乱」を起こした咎で後鳥羽上皇系の皇族が一掃され、鎌倉幕府は源頼朝とも縁のある後堀河天皇として即位させます。しかし、このとき後堀河天皇は10歳の子どもだったために、鎌倉幕府は父の後高倉院に「太上天皇」の尊号を贈り、上皇として後高倉院に院政を行わせたのです。
また「後崇光院」の例は室町時代初期に続いていた南北朝の争いが収まった直後のこと。称光天皇が跡継ぎのないままに危篤したため、足利義満によって退けられていた後南朝の勢いが盛り返そうとしていました。
室町幕府はそれを避けるために、院政を敷いていた後小松上皇に、後崇光院の子を養子にして次の天皇にするよう要求します。そのように後崇光院は天皇の父となったわけですが、後小松上皇の存命中はひっそりとしていました。後崇光院が「太上天皇」となったのは、後小松上皇の崩御後に御高倉院の先例をひいてのことです。
さて、ふたつの先例を見ますと、戦争のあとや、戦争への発展を防ぐための処置だったりと、平和な時期ではありません。松平定信はそのように言って、特殊な先例を退けたのでした。
11代将軍徳川家斉と実父の一橋治済
老中・松平定信が光格天皇との「尊号一件」について争っていたときのこと。同時期に11代将軍徳川家斉(いえなり)は、実父の「一橋治済(はるさだ)」に「大御所」の尊号を贈ろうとしていました。
徳川家斉は先代将軍徳川家治の養子となって後を継いだ将軍です。なので、実父の一橋治済は将軍職を経験していません。光格天皇・閑院宮典仁親王親子と同じ境遇ですね。
そして、非常にタイミングの悪いことに、松平定信が朝廷と尊号一件でもめているときに、徳川家斉は実父・一橋治済に「大御所」の尊号を贈ろうとしていました。
「大御所」とは、簡単にいうと「将軍の父」のこと……なのですが、8代将軍徳川吉宗が引退後に「大御所」として権勢を振るったことから、「大御所」はただの父親なだけでなく、引退した将軍が「大御所」として権力を振えるという性質が備わっていたのです。こちらも朝廷の「院政」と似ていますね。
論争を治めたはいいが……
しかし、光格天皇と「尊号一件」があった手前、身内びいきで一橋治済に「大御所」の尊号を与えることはできません。そんなことをすれば、せっかくおさまった朝廷との論争が再熱してしまいます。なので、松平定信は徳川家斉にも我慢してもらうことにしました。
その結果、松平定信は徳川家斉・一橋治済と対立することに。さらに「寛政の改革」が失敗に終わると、両名から老中を罷免されてしまうのでした。
朝廷と幕府の関係を揺さぶった事件
絶妙なバランスで関係を続けている朝廷と幕府。「尊号一件」はそんな両者の協調関係をにわかに揺らした事件でした。ことの担当になった江戸幕府の老中・松平定信でしたが、同時に幕府内でも徳川家斉が同じような発案をして対立してしまいます。
「尊号一件」は幕府と朝廷の関係を崩しただけでなく、江戸幕府内で将軍と老中を対立させるきっかけとなったのです。