昔の日本は、天皇を中心とする京都の朝廷と、将軍を中心とする江戸幕府のふたつの政府機関が両立していたんです。両立といっても、江戸幕府のほうが日本を統治していた。だから、「江戸時代」というんです。ですが、朝廷は朝廷で存在するし、彼らもなにもしていなかったわけじゃない。天皇の権威を高めようといろいろ工夫をしていたんです。その途中の江戸時代後期、幕府と朝廷の間に紛議事件が起こった。それが「尊号一件」です。
今回は「尊号一件」が起こるに至った背景や、幕府と朝廷の関係について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回はその舞台としてよく登場する江戸時代に起こった「尊号一件」について詳しくまとめた。

1.朝廷と幕府の成り立ち

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天皇の誕生と朝廷のはじまり

天皇と公家(貴族)を中心に古代から平安時代までの日本を主導した「朝廷」。そして、鎌倉時代以降、征夷大将軍と武家を中心に日本を統治した「幕府」。まずはこの二者について詳しく解説していきましょう。

現代にまで綿々と続く天皇家のルーツは古代にまでさかのぼります。

初代天皇に即位し、朝廷を開いたのは「神武天皇」です。日本の正史『日本書紀』によるとそれが紀元前660年のこと。時代でいうと、だいたい縄文時代末期から弥生時代早期にあたります。神武天皇以降、代々の天皇は近畿地方を中心に遷都を繰り返しながら日本の統治を行ってきました。

天皇・公家から武士へ

天皇と朝廷の統治という絶対的な政府の仕組みに変化が訪れたのは、平安時代末期のことです。現在の京都に平安京を置いてから約400年間、天皇と公家(貴族)が政治の中枢を握っていました。ところが、1156年に天皇の皇位継承問題と摂関家の内紛が起こります。朝廷の会議だけではとても収集がつかず、ついには武力衝突となり「保元の乱」に発展しました。

その結果、勝利した後白河天皇側についていた武士団の棟梁「平清盛」が天皇の信任を得て脅威の出世を遂げます。さらに四年後の「平治の乱」でも平清盛側が勝ったことで平家に日本の警察権や軍事権が集中、そして、平清盛は武士なのにもかかわらず太政大臣(現在でいう内閣総理大臣)になるという異例中の異例が起こりました。こうして「武士による政治」の基盤ができあがったのです。

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受け継がれる武士たちの幕府

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しかし、朝廷を牛耳った平氏政権は長くは続きませんでした。先の乱で平家によって辛酸をなめさせられた天皇や源氏による反撃がはじまり、平家の支配は短命のうちに幕を下ろしたのです。

それで、再び政権が天皇の手に戻ったのか?――残念ながらそうはなりません。政権は平家との戦いで勝利した「源頼朝」へと移り、1185年に「文治の勅許」で実質的な支配権を得た源頼朝は、本拠地を置く鎌倉で「鎌倉幕府」を開いたのでした。これが最初の幕府です。

鎌倉幕府、室町幕府のあと、徳川家康が戦国時代を勝ち抜いてようやく「江戸幕府」が開かれます。江戸はご存知のとおり、今の東京都。1603年以降現在に至るまでの400年もの間ずっと東京の地は日本の首都なんです。

朝廷と幕府の関係

幕府は朝廷に代わって日本を統治するようになりました。それではお役御免となった朝廷がなくなったのかというと、そうではありません。たとえ実権が幕府にあっても、天皇と朝廷はずっと京都で存続していました。

そのため、鎌倉時代には後鳥羽上皇が政権を取り戻そうと「承久の乱」を起こして失敗したり、後醍醐天皇が「元弘の乱」で鎌倉幕府を倒し「健武の新政」を行います。ただ、後醍醐天皇は「健武の新政」によって天皇と公家中心の政治を行い、武士を締め出そうとしたことで武士たちの反感を買ったために「室町幕府」が発足したのでした。

けれど、鎌倉幕府に続き室町幕府も天皇を滅ぼしたりはしません。統治の実権はなくても、天皇は権威の象徴として必要不可欠な存在だったのです。

朝廷と幕府の絶妙な関係

朝廷と幕府の誕生、そして、幕府へと政権が移っていきましたが、果たして、天皇と将軍ではどちらのほうが地位が高いのでしょうか?

古代から存在し続ける天皇か、はたまた、実質的に日本の統治を行ってきた将軍か。

答えから言ってしまうと、「形の上では天皇のほうが上位」です。というのも、そもそも幕府の将軍とは「征夷大将軍」のこと。「征夷大将軍」は794年ごろからはじまった東北地方の蝦夷(えみし)征討の指揮官です。

なぜ幕府の将軍が「征夷大将軍」というと、鎌倉幕府の源頼朝が「大将軍」の称号を朝廷に望み、1192年に朝廷が「征夷大将軍」に任命したのがはじまりでした。以降、幕府のトップが「征夷大将軍」に任命されることが慣例となります。なので、鎌倉幕府の足利家将軍、江戸幕府の徳川将軍たちも「征夷大将軍」なんですよ。

そして、この「征夷大将軍」は天皇から任命される役職。つまり、形式的には将軍は天皇の家来なんです。

だけど、結局、日本の実権を握っているのは将軍と幕府ですよね。特に江戸時代に入ると徳川家康の発した「禁中並公家諸法度」により、天皇や公家は幕府の言うことを聞かなければならなくなりました。なので、「征夷大将軍」の任命も幕府に言われるままに行われていたのです。

だから、「形の上では天皇のほうが上位」であって、「実際の権力的には将軍のほうが優位」であり「将軍が日本の事実上のトップ」だったのでした。

\次のページで「2.尊号一件のあらまし」を解説!/

2.尊号一件のあらまし

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光格天皇の即位と天皇の権威強化

江戸時代後期、後桃園天皇は子どものないまま崩御しました。そのため、世襲親王家の閑院宮家から兼仁親王が後桃園天皇の養子となり、第119代「光格天皇」として即位します。

朝廷は天皇の権威を強化しようと、昔の公事や神事を行ったり、天皇の住まいであり、儀式や公務を行う京都御所(内裏)の紫宸殿や清涼殿を平安時代のものと同じになるよう造営していました。そうしたなかで光格天皇は実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇(上皇)」の尊号を宣下したいと幕府に伝えたのです。

「親王」と「摂関家」と「禁中並武家諸法度」

ところで、閑院宮典仁親王の「親王」は、天皇の皇子や、親王宣下を受けた皇族に贈られる称号です。そして、このころの「親王」は「禁中並武家諸法度」によって摂関家よりも序列が下にありました。

光格天皇は自分が天皇に即位したことで実父よりも位が高くなってしまったことや、天皇の実父が臣下よりも下ということに不満を抱きます。しかし、朝廷から「禁中並武家諸法度」を変えてほしいと訴えることはできません。「禁中並武家諸法度」は徳川家康が発布して以来の祖法(代々守られてきた法)ですので、絶対に改めないとわかっていました。それどころか、祖法を変えろとは何事だ!と幕府が怒るかもしれません。

そこで登場したのが「太上天皇」の尊号です。「太上天皇」とは天皇が譲位した後の称号のこと。基本的にこの尊号は天皇の位についた元天皇のみに贈られるものでした。

報告を受けた幕府の松平定信

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ところが、光格天皇は後桃園天皇の養子として後継になったのであり、実父・閑院宮典仁親王は天皇の位についたことがありません。普通、「太上天皇」の尊号は引退した天皇に贈られるものですから、実父・閑院宮典仁親王は「太上天皇」の条件を満たしていませんでした。

朝廷から報告を受けた当時の江戸幕府の老中・松平定信は、そういう理由から反対します。

けれど、一度断られただけで朝廷も「はい、そうですか」と引き下がるわけにはいきません。朝廷は徳川幕府以前の古い例を持ち出し、松平定信は朱子学を盾に両者の間で激しい学問的論争が巻き起こることになりました。その結果、光格天皇は実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号は贈れずじまいに終わってしまいます。

「寛政の改革」を行った老中・松平定信

ここで老中「松平定信」について解説しておきましょう。松平定信は江戸自治中期の大名であり、8代将軍徳川吉宗の孫にあたりました。「老中」は江戸幕府の常任最高職なので、今風にいうと松平定信はとんでもないエリート官僚になりますね。

しかし、注目していただきたいのはそこではなく、松平定信が実施した「寛政の改革」(1787年)です。このは祖父・徳川吉宗の「享保の改革」を理想としてつくられ、凶作によってひっ迫した財政を立て直すために厳しい倹約を大名から庶民にいたるまで要求します。この結果、一時的に幕政は引き締まったものの、厳しい倹約は人々の反発を招くことになりました。

この「寛政の改革」は、徳川吉宗の「享保の改革」(1716年)、水野忠邦の「天保の改革」(1830年)とあわせて「三大改革」と呼ばれています。

\次のページで「3.尊号一件の一方で」を解説!/

例外的に「太上天皇」となったふたり

天皇についていない親王があとから「太上天皇」になったという先例がないわけではないのです。鎌倉時代の「後高倉院」室町時代の「後崇光院」がその例となったふたりでした。

まず、後高倉院の例からみてみましょう。1221年「承久の乱」を起こした咎で後鳥羽上皇系の皇族が一掃され、鎌倉幕府は源頼朝とも縁のある後堀河天皇として即位させます。しかし、このとき後堀河天皇は10歳の子どもだったために、鎌倉幕府は父の後高倉院に「太上天皇」の尊号を贈り、上皇として後高倉院に院政を行わせたのです

また「後崇光院」の例は室町時代初期に続いていた南北朝の争いが収まった直後のこと。称光天皇が跡継ぎのないままに危篤したため、足利義満によって退けられていた後南朝の勢いが盛り返そうとしていました。

室町幕府はそれを避けるために、院政を敷いていた後小松上皇に、後崇光院の子を養子にして次の天皇にするよう要求します。そのように後崇光院は天皇の父となったわけですが、後小松上皇の存命中はひっそりとしていました。後崇光院が「太上天皇」となったのは、後小松上皇の崩御後に御高倉院の先例をひいてのことです

さて、ふたつの先例を見ますと、戦争のあとや、戦争への発展を防ぐための処置だったりと、平和な時期ではありません。松平定信はそのように言って、特殊な先例を退けたのでした。

3.尊号一件の一方で

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11代将軍徳川家斉と実父の一橋治済

老中・松平定信が光格天皇との「尊号一件」について争っていたときのこと。同時期に11代将軍徳川家斉(いえなり)は、実父の「一橋治済(はるさだ)」に「大御所」の尊号を贈ろうとしていました。

徳川家斉は先代将軍徳川家治の養子となって後を継いだ将軍です。なので、実父の一橋治済は将軍職を経験していません。光格天皇・閑院宮典仁親王親子と同じ境遇ですね。

そして、非常にタイミングの悪いことに、松平定信が朝廷と尊号一件でもめているときに、徳川家斉は実父・一橋治済に「大御所」の尊号を贈ろうとしていました。

「大御所」とは、簡単にいうと「将軍の父」のこと……なのですが、8代将軍徳川吉宗が引退後に「大御所」として権勢を振るったことから、「大御所」はただの父親なだけでなく、引退した将軍が「大御所」として権力を振えるという性質が備わっていたのです。こちらも朝廷の「院政」と似ていますね。

論争を治めたはいいが……

しかし、光格天皇と「尊号一件」があった手前、身内びいきで一橋治済に「大御所」の尊号を与えることはできません。そんなことをすれば、せっかくおさまった朝廷との論争が再熱してしまいます。なので、松平定信は徳川家斉にも我慢してもらうことにしました。

その結果、松平定信は徳川家斉・一橋治済と対立することに。さらに「寛政の改革」が失敗に終わると、両名から老中を罷免されてしまうのでした。

朝廷と幕府の関係を揺さぶった事件

絶妙なバランスで関係を続けている朝廷と幕府。「尊号一件」はそんな両者の協調関係をにわかに揺らした事件でした。ことの担当になった江戸幕府の老中・松平定信でしたが、同時に幕府内でも徳川家斉が同じような発案をして対立してしまいます。

「尊号一件」は幕府と朝廷の関係を崩しただけでなく、江戸幕府内で将軍と老中を対立させるきっかけとなったのです。

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日本史歴史江戸時代

3分で簡単「尊号一件」幕府と朝廷の関係悪化?松平定信と将軍の対立をあおった?歴史オタクがわかりやすく解説

例外的に「太上天皇」となったふたり

天皇についていない親王があとから「太上天皇」になったという先例がないわけではないのです。鎌倉時代の「後高倉院」室町時代の「後崇光院」がその例となったふたりでした。

まず、後高倉院の例からみてみましょう。1221年「承久の乱」を起こした咎で後鳥羽上皇系の皇族が一掃され、鎌倉幕府は源頼朝とも縁のある後堀河天皇として即位させます。しかし、このとき後堀河天皇は10歳の子どもだったために、鎌倉幕府は父の後高倉院に「太上天皇」の尊号を贈り、上皇として後高倉院に院政を行わせたのです

また「後崇光院」の例は室町時代初期に続いていた南北朝の争いが収まった直後のこと。称光天皇が跡継ぎのないままに危篤したため、足利義満によって退けられていた後南朝の勢いが盛り返そうとしていました。

室町幕府はそれを避けるために、院政を敷いていた後小松上皇に、後崇光院の子を養子にして次の天皇にするよう要求します。そのように後崇光院は天皇の父となったわけですが、後小松上皇の存命中はひっそりとしていました。後崇光院が「太上天皇」となったのは、後小松上皇の崩御後に御高倉院の先例をひいてのことです

さて、ふたつの先例を見ますと、戦争のあとや、戦争への発展を防ぐための処置だったりと、平和な時期ではありません。松平定信はそのように言って、特殊な先例を退けたのでした。

3.尊号一件の一方で

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11代将軍徳川家斉と実父の一橋治済

老中・松平定信が光格天皇との「尊号一件」について争っていたときのこと。同時期に11代将軍徳川家斉(いえなり)は、実父の「一橋治済(はるさだ)」に「大御所」の尊号を贈ろうとしていました。

徳川家斉は先代将軍徳川家治の養子となって後を継いだ将軍です。なので、実父の一橋治済は将軍職を経験していません。光格天皇・閑院宮典仁親王親子と同じ境遇ですね。

そして、非常にタイミングの悪いことに、松平定信が朝廷と尊号一件でもめているときに、徳川家斉は実父・一橋治済に「大御所」の尊号を贈ろうとしていました。

「大御所」とは、簡単にいうと「将軍の父」のこと……なのですが、8代将軍徳川吉宗が引退後に「大御所」として権勢を振るったことから、「大御所」はただの父親なだけでなく、引退した将軍が「大御所」として権力を振えるという性質が備わっていたのです。こちらも朝廷の「院政」と似ていますね。

論争を治めたはいいが……

しかし、光格天皇と「尊号一件」があった手前、身内びいきで一橋治済に「大御所」の尊号を与えることはできません。そんなことをすれば、せっかくおさまった朝廷との論争が再熱してしまいます。なので、松平定信は徳川家斉にも我慢してもらうことにしました。

その結果、松平定信は徳川家斉・一橋治済と対立することに。さらに「寛政の改革」が失敗に終わると、両名から老中を罷免されてしまうのでした。

朝廷と幕府の関係を揺さぶった事件

絶妙なバランスで関係を続けている朝廷と幕府。「尊号一件」はそんな両者の協調関係をにわかに揺らした事件でした。ことの担当になった江戸幕府の老中・松平定信でしたが、同時に幕府内でも徳川家斉が同じような発案をして対立してしまいます。

「尊号一件」は幕府と朝廷の関係を崩しただけでなく、江戸幕府内で将軍と老中を対立させるきっかけとなったのです。

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