光格天皇の即位と天皇の権威強化
江戸時代後期、後桃園天皇は子どものないまま崩御しました。そのため、世襲親王家の閑院宮家から兼仁親王が後桃園天皇の養子となり、第119代「光格天皇」として即位します。
朝廷は天皇の権威を強化しようと、昔の公事や神事を行ったり、天皇の住まいであり、儀式や公務を行う京都御所(内裏)の紫宸殿や清涼殿を平安時代のものと同じになるよう造営していました。そうしたなかで光格天皇は実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇(上皇)」の尊号を宣下したいと幕府に伝えたのです。
「親王」と「摂関家」と「禁中並武家諸法度」
ところで、閑院宮典仁親王の「親王」は、天皇の皇子や、親王宣下を受けた皇族に贈られる称号です。そして、このころの「親王」は「禁中並武家諸法度」によって摂関家よりも序列が下にありました。
光格天皇は自分が天皇に即位したことで実父よりも位が高くなってしまったことや、天皇の実父が臣下よりも下ということに不満を抱きます。しかし、朝廷から「禁中並武家諸法度」を変えてほしいと訴えることはできません。「禁中並武家諸法度」は徳川家康が発布して以来の祖法(代々守られてきた法)ですので、絶対に改めないとわかっていました。それどころか、祖法を変えろとは何事だ!と幕府が怒るかもしれません。
そこで登場したのが「太上天皇」の尊号です。「太上天皇」とは天皇が譲位した後の称号のこと。基本的にこの尊号は天皇の位についた元天皇のみに贈られるものでした。
報告を受けた幕府の松平定信
ところが、光格天皇は後桃園天皇の養子として後継になったのであり、実父・閑院宮典仁親王は天皇の位についたことがありません。普通、「太上天皇」の尊号は引退した天皇に贈られるものですから、実父・閑院宮典仁親王は「太上天皇」の条件を満たしていませんでした。
朝廷から報告を受けた当時の江戸幕府の老中・松平定信は、そういう理由から反対します。
けれど、一度断られただけで朝廷も「はい、そうですか」と引き下がるわけにはいきません。朝廷は徳川幕府以前の古い例を持ち出し、松平定信は朱子学を盾に両者の間で激しい学問的論争が巻き起こることになりました。その結果、光格天皇は実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号は贈れずじまいに終わってしまいます。
「寛政の改革」を行った老中・松平定信
ここで老中「松平定信」について解説しておきましょう。松平定信は江戸自治中期の大名であり、8代将軍徳川吉宗の孫にあたりました。「老中」は江戸幕府の常任最高職なので、今風にいうと松平定信はとんでもないエリート官僚になりますね。
しかし、注目していただきたいのはそこではなく、松平定信が実施した「寛政の改革」(1787年)です。このは祖父・徳川吉宗の「享保の改革」を理想としてつくられ、凶作によってひっ迫した財政を立て直すために厳しい倹約を大名から庶民にいたるまで要求します。この結果、一時的に幕政は引き締まったものの、厳しい倹約は人々の反発を招くことになりました。
この「寛政の改革」は、徳川吉宗の「享保の改革」(1716年)、水野忠邦の「天保の改革」(1830年)とあわせて「三大改革」と呼ばれています。
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