
「ダルマの政治」なにをしたの?
Bpilgrim (トーク · 投稿記録) – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 2.5, リンクによる
ダルマとは普遍的な仏法のことですが、「ダルマの政治」といきなりいわれても、なかなか想像できませんよね。
簡単に代表的なものを挙げると、人間や他の動物を殺さないようにしましょうという「不殺生」や、父母に従順にすること、礼儀正しくすること、バラモンや沙門(僧侶)を尊敬することなど、正しい人間関係であれという教えです。
アショーカ王はお釈迦様にゆかりある地を巡り、これからそういう政治を行いますよと人々に伝える「法の巡幸」を行って宣伝しました。そして、仏舎利(お釈迦様の遺骨)をおさめた8本の仏塔(ストゥーパ)のうち7本から仏舎利を取り出し、マガダ国全土に新たに建てた8万4千本の塔に分納します。
残念なことに、その仏塔のほとんどはインドの仏教の衰退とともに無くなってしまいました。しかし、インド中部マディヤプラデーシュ州のサーンチーにはインド最古の仏教遺跡が手つかずのままで、ほぼ当時のままのアショーカ王の仏塔が残されています。
マウリヤ朝の広大さを物語るアショーカ王碑文
E. Hultzsch – Corpus Inscriptionum Indicarum – Volume 1: Inscriptions of Asoka, パブリック・ドメイン, リンクによる
アショーカ王は、子孫が自分と同じ過ちをおかさないように理想の統治を定めた詔勅を刻んだ石柱や岩を各地に建てました。石柱や岩は「アショーカ王碑文(アショーカ・ピラー)」と呼ばれ、こちらはインド、ネパール、アフガニスタンなどに広く残っています。その分布から、マウリヤ朝がいかに広大だったかがわかりますね。
また、「アショーカ王碑文」に刻まれた文字は、プラークリット語のブラーフミー文字というもので、これは非常に古いインドの文字資料でした。この古代の文字が解読されたのは1837年のこと。解読したのは、イギリスの東洋学者ジェームズ・プリンセプでした。長年読めなかった古代の言葉をジェームズ・プリンセプが解読したことにより、古代インドの歴史研究は大きく発展したとされています。
アショーカ王の開いた第三回仏典結集
これだけ仏教を大事にしていたアショーカ王ですから、仏教の結集も行っています。
「結集」というのは、仏教の編集会議のこと。そもそも、仏教の経典はお釈迦様自身が書いたわけではないんです。仏教の経典ができたのは、お釈迦様の入滅後に500人の弟子たち(五百羅漢)が郊外に集まり「あのときお釈迦様はこういうことをおっしゃっていた」と、お釈迦様が生前に行った説法などを思い出し合ってまとめたのがはじまりでした。これが第一回目の結集ですね。
アショーカ王が行った第三回仏典結集は、お釈迦様の入滅から200年後の紀元前3世紀ごろのこと。首都パータリプトラに1000人の僧侶を集めて行われました。1000人もの大人数が集められたことから、このときの結集を「千人結集」といいます。
国民への布教活動、どこまで?
ところで、一国の主がひとつの宗教を信仰すると「うちの国は××教を信仰することにしたから、国民はみんな××教に改宗しなさい!」というような命令が下されるじゃないかと考えますよね。「君主の信仰している宗教=国教になる」ということ。人間の歴史ではそこまで珍しいことではありません。
アショーカ王は仏教に深く帰依し、全国に仏塔や碑文を建てまくりましたから、当然国民にもそのようにしたと想像してしまいます。けれど、アショーカ王は決して仏教を押し付けたりはしませんでした。
そもそも、インドにはバラモン教をはじめとしたたくさんの宗教が信仰されていました。そのなかではむしろ、仏教はマイナーな宗教だったんですよ。
たくさんの宗教があるインドで、仏教を押し付けるのは政治上よくありません。アショーカ王は「ダルマの政治」を目指しましたが、そこで仏教色をあまり押し出さないよう配慮しました。その上で、メジャーどころだったバラモン教やジャイナ教、父が信仰していたアージーヴィカ教と仏教は対等だとしたのです。
戦争を悔い、仏教を信仰した王
古代インドの大国「マガダ国マウリヤ朝」の王子として生まれたアショーカ王。王子のころは父との不和もあり、王位継承にあたってたくさんの血を流した残虐な暴君として名をはせていました。そんな暴君が改心するきっかけとなったのが「カリンガ戦争」です。この戦争の犠牲者は数十万人にものぼるとされており、そのあまりに凄惨な状況を見たアショーカ王は非常に後悔しました。
そうして、仏教に救いをもとめて深く帰依すようになり、アショーカ王は国中に仏塔やアショーカ王碑文を建て、「ダルマの政治」を目指す王となり、仏教の守護者と呼ばれるようになったのでした。