
父王ビンドゥサーラとアショーカは仲が悪い
チャンドラグプタの死後、王位を継いだのは息子のビンドゥサーラでした。ビンドゥサーラはチャンドラグプタの死後に各地で勃発した反乱を鎮圧し、マウリア朝を守ったとされています。
そして、ビンドゥサーラの息子として誕生したのが「アショーカ王」です。しかし、父王ビンドゥサーラとアショーカの仲は良くありません。伝説によると、ビンドゥサーラは北西のタクシラで発生した反乱を鎮圧するようにアショーカに命令しますが、そのための軍隊や武器をいっさい与えなかったとされています。
手ぶらで行っても何もできないどころか死ぬだけですよね。それで臣下のひとりが「軍隊も武器もなくどうやって戦うのか」とアショーカに尋ねました。するとアショーカは「もし私が王となるのに相応しい人間なら、軍隊も武器も出てくるだろう」と答えます。果たして、アショーカは神々によって軍隊と武器を与えられ、見事にタクシラの反乱をおさめたのでした。
これはアショーカ王の伝説のひとつですが、父が息子に死にに行けと命令するほどビンドゥサーラとアショーカの仲は最悪だったことを伝えるのに十分ですね。
99人の兄弟と500人の大臣を殺した?
ビンドゥサーラとアショーカの対立はまだ続きます。アショーカはビンドゥサーラの正妃の息子でしたが、ビンドゥサーラは遺言で長男のスシーマを次の王に指名してしまうのです。これを知ったアショーカはすぐさまパータリプトラに軍を進め、兄のスシーマと戦いました。
そうして、スシーマを殺したアショーカはさらに他の異母兄弟を手にかけ、王位を確実に自分のものとしたのです。そんなふうに王様となったアショーカ王でしたから、彼を軽んじて命令を無視する大臣も現れました。アショーカ王はそんな大臣たちをも殺してします。このようにしてアショーカが殺した兄弟は99人、誅殺した大臣は500人にものぼりました。
しかし、実際には、アショーカ王の兄弟は地方を治めていたという記録があるため、この数字もまた伝説のひとつではないかとされています。
あまりにも悲惨な「カリンガ戦争」

当時、インドの東にカリンガという国がありました。アショーカの祖父・チャンドラグプタの時代に一度戦いをしかけたこともありましたが、そのときはあえなく敗走させられています。セレウコス朝をも退けたマウリヤ朝の軍事力をもってしても征服できなかったカリンガ国。そこに目をつけたのがアショーカ王です。
アショーカ王の統治が始まって九年目のこと。彼はカリンガ国をマウリヤ朝に併合しようと戦争をしかけ、軍隊を派遣します。
マウリア朝とカリンガ国の間で起こったこの戦いを「カリンガ戦争」といいました。カリンガ戦争で領国の軍隊がぶつかり合い、マウリア朝が時に敗走を喫するなどの激戦となったのです。
厳しい戦闘の末、マウリア朝はとうとうカリンガ国を征服することになるのですが……。この戦いにより10万人のカリンガ国民が死亡、マウリア朝軍も1万人の死者を出したとされ、戦場となったダヤー川の水が人間の血で真っ赤になったといわれています。
カリンガ戦争への後悔
多くの死者を出し、凄惨を極めたカリンガ戦争を、アショーカ王は心から後悔しました。戦争の悲惨さを痛感した彼は、生き残ってなお戦禍で家を焼け出された同地の人々に対し、これ以上非道な振る舞いをしないよう命令を出します。
そうして以降、アショーカ王は仏教に深く帰依(信仰)するようになり、「ダルマ(仏教における法)の政治」を行うようになりました。
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