紀元前265年ごろの古代インドに巨大な国を築いた「アショーカ王」。王位継承争いや戦争によって多くの人々を殺した王として知られているが、その後は仏教に深く帰依したそうです。残虐な王から仏教の守護者へと転身したわけですが、いったい彼はどんな人生を送ったんでしょうな。
今回はそんな「アショーカ王」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。日本史のほうで仏教について様々な解説記事を作成。今回の「アショーカ王」は仏教を守護した重要な王様のため解説する。

1.古代インドの大国「マガダ国マウリア朝」

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お釈迦様が予言した理想の王

その昔、仏教の開祖「釈迦(釈尊)」が生きていた時代のことです。ある日、お釈迦様が弟子のアーナンダーを連れて托鉢(信者の家を巡って食料を乞う修行)を行っていると、徳勝童子と無勝童子というふたりの子どもがお釈迦様の姿を見て喜んでやってきました。しかし、子どもたちはお釈迦様に供養(捧げる)するものを何も持っていません。そこで徳勝童子は土で作った餅を供養し、無勝童子は手を合わせました。

土の餅なので食べることはできませんが、子どもたちのその尊い行いを見たお釈迦様はアーナンダーにこう言います。

「この子たちは、私が入滅(僧侶が死ぬこと)して100年後、パータリプトラで転輪聖王になるでしょう。そして、仏法で国を治め、八万四千の仏塔を建立し、命あるすべてのものに安息をもたらすのです」

お釈迦様のいう「転輪聖王」とは、古代インドの思想における理想的な王様のこと。ダルマ(仏教における法)によって地上を治め、王に求められるすべての条件を備えた完璧な王様のことです。

このようにお釈迦様は徳勝童子と無徳童子が来世で理想の王となると予言した、と仏教の経典『雑阿含経』に書かれていました。

そうして、お釈迦様の入滅から100年後。古代インドのマガダ国マウリア朝の首都パータリプトラにて、三代目の王となる「アショーカ」が誕生します。このアショーカ王の前世こそが、お釈迦様に土の餅を供養した徳勝童子なのです。

古代インドの「マガダ国マウリヤ朝」

アショーカ王が治めることとなる「マガダ国マウリヤ朝」はどのように成立した国だったのか、先に解説しましょう。

古代インドでは十六の大国がお互いに争っていました。そのひとつ、ガンジス川下流域を支配していたのが「マガダ国ナンダ朝」です。ナンダ朝は非常に強い軍事力をもって領土を広げ、ガンジス川流域に広大な帝国を築き上げていました。

しかし、紀元前4世紀末ごろ、マガダ国の青年「チャンドラグプタ」がナンダ朝に対して挙兵します。ナンダ朝の王ダナナンダはすぐに将軍を派遣して鎮圧にあたらせますが、チャンドラグプタは将軍との戦いに勝ち、さらにはダナナンダ王を倒してナンダ朝を滅ぼしました。そうして、チャンドラグプタは首都パータリプトラにて新たに「マガダ国マウリヤ朝」をたてたのです。

さらにチャンドラグプタはインド北西部を手中におさめようと、当時インダス川流域を制圧していたセレウコス朝の排除に乗り出します。セレウコス朝はマケドニアのアレクサンドロス大王(イスカンダル)の死後、彼の後継者のひとり「セレウコス1世」が受け継いで立てた王国です。

チャンドラグプタは軍事力でセレウコス朝までも圧倒し、領土をインダス川の向こう側にまで伸ばしました。こうしてマガダ国マウリヤ朝はガンジス川流域、インダス川流域、そして中央インドの一部を領土とするインド初の統一帝国を築いたのです。

2.アショーカ王と争いの日々

Indian relief from Amaravati, Guntur. Preserved in Guimet Museum.jpg
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父王ビンドゥサーラとアショーカは仲が悪い

チャンドラグプタの死後、王位を継いだのは息子のビンドゥサーラでした。ビンドゥサーラはチャンドラグプタの死後に各地で勃発した反乱を鎮圧し、マウリア朝を守ったとされています。

そして、ビンドゥサーラの息子として誕生したのが「アショーカ王」です。しかし、父王ビンドゥサーラとアショーカの仲は良くありません。伝説によると、ビンドゥサーラは北西のタクシラで発生した反乱を鎮圧するようにアショーカに命令しますが、そのための軍隊や武器をいっさい与えなかったとされています。

手ぶらで行っても何もできないどころか死ぬだけですよね。それで臣下のひとりが「軍隊も武器もなくどうやって戦うのか」とアショーカに尋ねました。するとアショーカは「もし私が王となるのに相応しい人間なら、軍隊も武器も出てくるだろう」と答えます。果たして、アショーカは神々によって軍隊と武器を与えられ、見事にタクシラの反乱をおさめたのでした。

これはアショーカ王の伝説のひとつですが、父が息子に死にに行けと命令するほどビンドゥサーラとアショーカの仲は最悪だったことを伝えるのに十分ですね。

99人の兄弟と500人の大臣を殺した?

ビンドゥサーラとアショーカの対立はまだ続きます。アショーカはビンドゥサーラの正妃の息子でしたが、ビンドゥサーラは遺言で長男のスシーマを次の王に指名してしまうのです。これを知ったアショーカはすぐさまパータリプトラに軍を進め、兄のスシーマと戦いました。

そうして、スシーマを殺したアショーカはさらに他の異母兄弟を手にかけ、王位を確実に自分のものとしたのです。そんなふうに王様となったアショーカ王でしたから、彼を軽んじて命令を無視する大臣も現れました。アショーカ王はそんな大臣たちをも殺してします。このようにしてアショーカが殺した兄弟は99人、誅殺した大臣は500人にものぼりました。

しかし、実際には、アショーカ王の兄弟は地方を治めていたという記録があるため、この数字もまた伝説のひとつではないかとされています。

あまりにも悲惨な「カリンガ戦争」

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当時、インドの東にカリンガという国がありました。アショーカの祖父・チャンドラグプタの時代に一度戦いをしかけたこともありましたが、そのときはあえなく敗走させられています。セレウコス朝をも退けたマウリヤ朝の軍事力をもってしても征服できなかったカリンガ国。そこに目をつけたのがアショーカ王です。

アショーカ王の統治が始まって九年目のこと。彼はカリンガ国をマウリヤ朝に併合しようと戦争をしかけ、軍隊を派遣します。

マウリア朝とカリンガ国の間で起こったこの戦いを「カリンガ戦争」といいました。カリンガ戦争で領国の軍隊がぶつかり合い、マウリア朝が時に敗走を喫するなどの激戦となったのです。

厳しい戦闘の末、マウリア朝はとうとうカリンガ国を征服することになるのですが……。この戦いにより10万人のカリンガ国民が死亡、マウリア朝軍も1万人の死者を出したとされ、戦場となったダヤー川の水が人間の血で真っ赤になったといわれています。

3.アショーカ王、仏教に帰依する

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カリンガ戦争への後悔

多くの死者を出し、凄惨を極めたカリンガ戦争を、アショーカ王は心から後悔しました。戦争の悲惨さを痛感した彼は、生き残ってなお戦禍で家を焼け出された同地の人々に対し、これ以上非道な振る舞いをしないよう命令を出します。

そうして以降、アショーカ王は仏教に深く帰依(信仰)するようになり、「ダルマ(仏教における法)の政治」を行うようになりました。

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「ダルマの政治」なにをしたの?

Ashoka pillar at Vaishali, Bihar, India.jpg
Bpilgrim (トーク · 投稿記録) - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 2.5, リンクによる

ダルマとは普遍的な仏法のことですが、「ダルマの政治」といきなりいわれても、なかなか想像できませんよね。

簡単に代表的なものを挙げると、人間や他の動物を殺さないようにしましょうという「不殺生」や、父母に従順にすること、礼儀正しくすること、バラモンや沙門(僧侶)を尊敬することなど、正しい人間関係であれという教えです。

アショーカ王はお釈迦様にゆかりある地を巡り、これからそういう政治を行いますよと人々に伝える「法の巡幸」を行って宣伝しました。そして、仏舎利(お釈迦様の遺骨)をおさめた8本の仏塔(ストゥーパ)のうち7本から仏舎利を取り出し、マガダ国全土に新たに建てた8万4千本の塔に分納します。

残念なことに、その仏塔のほとんどはインドの仏教の衰退とともに無くなってしまいました。しかし、インド中部マディヤプラデーシュ州のサーンチーにはインド最古の仏教遺跡が手つかずのままで、ほぼ当時のままのアショーカ王の仏塔が残されています。

マウリヤ朝の広大さを物語るアショーカ王碑文

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E. Hultzsch - Corpus Inscriptionum Indicarum – Volume 1: Inscriptions of Asoka, パブリック・ドメイン, リンクによる

アショーカ王は、子孫が自分と同じ過ちをおかさないように理想の統治を定めた詔勅を刻んだ石柱や岩を各地に建てました。石柱や岩は「アショーカ王碑文(アショーカ・ピラー)」と呼ばれ、こちらはインド、ネパール、アフガニスタンなどに広く残っています。その分布から、マウリヤ朝がいかに広大だったかがわかりますね。

また、「アショーカ王碑文」に刻まれた文字は、プラークリット語のブラーフミー文字というもので、これは非常に古いインドの文字資料でした。この古代の文字が解読されたのは1837年のこと。解読したのは、イギリスの東洋学者ジェームズ・プリンセプでした。長年読めなかった古代の言葉をジェームズ・プリンセプが解読したことにより、古代インドの歴史研究は大きく発展したとされています。

アショーカ王の開いた第三回仏典結集

これだけ仏教を大事にしていたアショーカ王ですから、仏教の結集も行っています。

「結集」というのは、仏教の編集会議のこと。そもそも、仏教の経典はお釈迦様自身が書いたわけではないんです。仏教の経典ができたのは、お釈迦様の入滅後に500人の弟子たち(五百羅漢)が郊外に集まり「あのときお釈迦様はこういうことをおっしゃっていた」と、お釈迦様が生前に行った説法などを思い出し合ってまとめたのがはじまりでした。これが第一回目の結集ですね。

アショーカ王が行った第三回仏典結集は、お釈迦様の入滅から200年後の紀元前3世紀ごろのこと。首都パータリプトラに1000人の僧侶を集めて行われました。1000人もの大人数が集められたことから、このときの結集を「千人結集」といいます。

国民への布教活動、どこまで?

ところで、一国の主がひとつの宗教を信仰すると「うちの国は××教を信仰することにしたから、国民はみんな××教に改宗しなさい!」というような命令が下されるじゃないかと考えますよね。「君主の信仰している宗教=国教になる」ということ。人間の歴史ではそこまで珍しいことではありません。

アショーカ王は仏教に深く帰依し、全国に仏塔や碑文を建てまくりましたから、当然国民にもそのようにしたと想像してしまいます。けれど、アショーカ王は決して仏教を押し付けたりはしませんでした。

そもそも、インドにはバラモン教をはじめとしたたくさんの宗教が信仰されていました。そのなかではむしろ、仏教はマイナーな宗教だったんですよ。

たくさんの宗教があるインドで、仏教を押し付けるのは政治上よくありません。アショーカ王は「ダルマの政治」を目指しましたが、そこで仏教色をあまり押し出さないよう配慮しました。その上で、メジャーどころだったバラモン教やジャイナ教、父が信仰していたアージーヴィカ教と仏教は対等だとしたのです。

戦争を悔い、仏教を信仰した王

古代インドの大国「マガダ国マウリヤ朝」の王子として生まれたアショーカ王。王子のころは父との不和もあり、王位継承にあたってたくさんの血を流した残虐な暴君として名をはせていました。そんな暴君が改心するきっかけとなったのが「カリンガ戦争」です。この戦争の犠牲者は数十万人にものぼるとされており、そのあまりに凄惨な状況を見たアショーカ王は非常に後悔しました。

そうして、仏教に救いをもとめて深く帰依すようになり、アショーカ王は国中に仏塔やアショーカ王碑文を建て、「ダルマの政治」を目指す王となり、仏教の守護者と呼ばれるようになったのでした。

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3分で簡単「アショーカ王」残虐な暴君?なぜ仏教を守護した?歴史オタクがわかりやすく解説

紀元前265年ごろの古代インドに巨大な国を築いた「アショーカ王」。王位継承争いや戦争によって多くの人々を殺した王として知られているが、その後は仏教に深く帰依したそうです。残虐な王から仏教の守護者へと転身したわけですが、いったい彼はどんな人生を送ったんでしょうな。
今回はそんな「アショーカ王」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。日本史のほうで仏教について様々な解説記事を作成。今回の「アショーカ王」は仏教を守護した重要な王様のため解説する。

1.古代インドの大国「マガダ国マウリア朝」

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お釈迦様が予言した理想の王

その昔、仏教の開祖「釈迦(釈尊)」が生きていた時代のことです。ある日、お釈迦様が弟子のアーナンダーを連れて托鉢(信者の家を巡って食料を乞う修行)を行っていると、徳勝童子と無勝童子というふたりの子どもがお釈迦様の姿を見て喜んでやってきました。しかし、子どもたちはお釈迦様に供養(捧げる)するものを何も持っていません。そこで徳勝童子は土で作った餅を供養し、無勝童子は手を合わせました。

土の餅なので食べることはできませんが、子どもたちのその尊い行いを見たお釈迦様はアーナンダーにこう言います。

「この子たちは、私が入滅(僧侶が死ぬこと)して100年後、パータリプトラで転輪聖王になるでしょう。そして、仏法で国を治め、八万四千の仏塔を建立し、命あるすべてのものに安息をもたらすのです」

お釈迦様のいう「転輪聖王」とは、古代インドの思想における理想的な王様のこと。ダルマ(仏教における法)によって地上を治め、王に求められるすべての条件を備えた完璧な王様のことです。

このようにお釈迦様は徳勝童子と無徳童子が来世で理想の王となると予言した、と仏教の経典『雑阿含経』に書かれていました。

そうして、お釈迦様の入滅から100年後。古代インドのマガダ国マウリア朝の首都パータリプトラにて、三代目の王となる「アショーカ」が誕生します。このアショーカ王の前世こそが、お釈迦様に土の餅を供養した徳勝童子なのです。

古代インドの「マガダ国マウリヤ朝」

アショーカ王が治めることとなる「マガダ国マウリヤ朝」はどのように成立した国だったのか、先に解説しましょう。

古代インドでは十六の大国がお互いに争っていました。そのひとつ、ガンジス川下流域を支配していたのが「マガダ国ナンダ朝」です。ナンダ朝は非常に強い軍事力をもって領土を広げ、ガンジス川流域に広大な帝国を築き上げていました。

しかし、紀元前4世紀末ごろ、マガダ国の青年「チャンドラグプタ」がナンダ朝に対して挙兵します。ナンダ朝の王ダナナンダはすぐに将軍を派遣して鎮圧にあたらせますが、チャンドラグプタは将軍との戦いに勝ち、さらにはダナナンダ王を倒してナンダ朝を滅ぼしました。そうして、チャンドラグプタは首都パータリプトラにて新たに「マガダ国マウリヤ朝」をたてたのです。

さらにチャンドラグプタはインド北西部を手中におさめようと、当時インダス川流域を制圧していたセレウコス朝の排除に乗り出します。セレウコス朝はマケドニアのアレクサンドロス大王(イスカンダル)の死後、彼の後継者のひとり「セレウコス1世」が受け継いで立てた王国です。

チャンドラグプタは軍事力でセレウコス朝までも圧倒し、領土をインダス川の向こう側にまで伸ばしました。こうしてマガダ国マウリヤ朝はガンジス川流域、インダス川流域、そして中央インドの一部を領土とするインド初の統一帝国を築いたのです。

2.アショーカ王と争いの日々

Indian relief from Amaravati, Guntur. Preserved in Guimet Museum.jpg
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