
今回は秀吉が海外進出として行った「文禄・慶長の役」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものをテーマにしたゲームを好み、子どものころから親しんだ「豊臣秀吉」と、彼が行った「文禄・慶長の役」について詳しくまとめた。
1.戦国時代を勝ち抜いた豊臣秀吉

織田信長の後継者となり、全国統一を成し遂げた「豊臣秀吉」。
まずは、復習として軽く彼どのように天下人となったのか、また、彼の行った政策について軽く解説していきましょう。
唯一農民から天下人へのし上がった男
時は戦国時代。この時代の大きな特徴のひとつに「下剋上」があります。当時、上は天皇や将軍、下は百姓などの庶民として人間をわける「身分制度」がありました。
「下剋上」は、そんな社会のルールを越えて、下の者が実力で上の者を倒して権力を奪うことです。下剋上で有名なのは、美濃国(現在の岐阜県)で大出世した斎藤道三や、跡継ぎ争いに乗じて城を得た相模国(神奈川県)の北条早雲あたりですね。しかし、彼らはもともと武家の生まれ。寺に出されようと、武士として身分が低くても、どこかに出世の糸口は持っていたのです。けれど、「豊臣秀吉」は農民の息子でした。
当時の彼の名前は「木下藤吉郎」。生家を出たあとに尾張の戦国大名「織田信長」に仕えました。そこで藤吉郎は実力主義の信長の目に留まり、異例の代出世を遂げたのです。もともとは農民だった藤吉郎は、近江長浜(滋賀県長浜市)を与えられ一国の主となり、名前も「羽柴秀吉」となりました。
織田信長の死と秀吉の仇討ち
秀吉に目をかけ、国をひとつ与えた織田信長。このままうまくいけば天下統一も夢ではなかったのでしょう。しかし、残念ながら織田信長の天下統一の夢は志半ばで途絶えることになります。
秀吉が信長の命令で中国地方の毛利氏と戦い、水攻めをしかけていたときのことです。大急ぎでやってきた伝令によって、信長が本能寺で明智光秀の謀反を受けて亡くなった(本能寺の変)ことを秀吉は知ります。
そこからは大慌てでした。ともかく、目の前の毛利攻めを早く終わらせなければなりません。秀吉は毛利氏の外交を担当する僧侶・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を仲介役にし、城主の切腹を条件に急いで毛利氏と和睦交渉を行います。
それが終わるやいなや、京都に向かって全軍を引き返しました。戦場だった備中高松城(岡山県)から京都までは約230キロ。そうとうな道のりですね。しかも、車も電車もない時代です。馬に乗らない足軽だっていますよ。
けれど、秀吉は約230キロの道のりをたった10日で戻ってきたのです。これは日本史上屈指の大強行軍として「中国大返し」と呼ばれています。
こうして京都まで戻ってきた秀吉は山崎で明智光秀と戦い(山崎の戦い)、見事に主君の仇を取ったのでした。
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信長の後継者は?
さて、信長が亡くなれば、当然、後継者の座を巡って話し合いないし、争いが起こりますよね。他の同僚(信長の家臣)たちに先んじて信長の仇討に成功した秀吉は、その点では一歩リードしていることになります。けれどこのとき、信長の息子がふたりが存命しており、織田家の家督を継ぐのは彼らのうちどちらかで、秀吉が割って入ることはできません。
果たして、どちらを織田家の跡取りとするのか。それを決める会議が清州城(愛知県清須市)で行われました(清須会議)。ここで秀吉はとんでもない爆弾を投下したのです。
信長の長男・信忠は本能寺の変で信長とともに戦死していましたが、しかし、信忠の息子・三法師(さんぽうし)は生きていました。秀吉は元服して間もない三法師を後継者として擁立したのです。三法師が信長の嫡流だったことから支持を得、彼を推した秀吉は三法師の後見人となります。
この決定に反発した織田家の重臣・柴田勝家と秀吉は戦うことになり、両軍がぶつかった賤ケ岳の合戦で秀吉が柴田勝家を破りました。そこでさらに柴田についた信長の三男・信孝を切腹させ、次男の信雄を抑え込んで、秀吉自身が事実上の信長の後継者となったのでした。
太閤・豊臣秀吉と政策
天下統一の一大授業を終えたあと、秀吉は武士の棟梁として「征夷大将軍」になろうとしました。ですが、征夷大将軍は源氏か平氏などの武士の血を引いてなければなりません。秀吉は農民出身で、生まれた血筋ばかりはどうにもできませんでした。そこで、秀吉は当時の関白・近衛前久の養子となり、1585年に関白に就任したのです。「豊臣」姓を名乗り始めたのはその翌年のこと。関白を引退すると「太閤」と呼ばれるため、ここでようやく太閤・豊臣秀吉の誕生となりました。
豊臣政権を確立した秀吉は、さっそく政策に取り掛かります。なかでも覚えておきたい代表的なものはふたつ。
まずは、それまでバラバラだったものさしなどを統一し、田畑の測量や収穫量の調査に乗り出しました。日本初、全国規模で行われたこの調査を「太閤検地」といいます。そして、農民や町人、寺など、武士階級でない人々から刀を取り上げる「刀狩」を行いました。「刀狩」によって当時頻発していた民衆の一揆を防ぎ、さらに兵農分離を完成させたことで身分を固定化したのです。
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