この記事では「南都北嶺」について解説する。

端的に言えば南都北嶺の意味は「奈良興福寺と比叡山延暦寺」のことですが、もっと幅広い意味やニュアンスを理解すると、使いこなせるシーンが増えるぞ。

元塾講師で、解説のわかりやすさに定評のあるgekcoを呼んです。一緒に「南都北嶺」の意味や例文、類語などを見ていきます。

ライター/gekco

本業では出版物の校正も手がけ、一般教養に強い。豊富な知識と分かりやすい解説で好評を博している。

「南都北嶺」の意味や語源・使い方まとめ

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南都北嶺は「なんとほくれい」と読みます。それでは早速、南都北嶺の意味や由来、使い方についてみていきましょう。

「南都北嶺」の意味は?

「南都北嶺」には、次のような意味があります。

奈良興福寺と比叡山延暦寺。

出典:大辞林 第三版(三省堂)「南都北嶺」

奈良、特に興福寺のことを南都、滋賀県大津市にある比叡山延暦寺のことを北嶺といいます。南都北嶺の「嶺」は「みね」とも読み、峰と同じ意味をもつ漢字で、山などの頂点を指す言葉です。つまり、南都北嶺は南と北のそれぞれの頂点を指す言葉になります。ここでは、それぞれの頂点にあたるものが奈良興福寺比叡山延暦寺なのです。

「南都北嶺」の由来は?

実は、南都北嶺という言葉は日本の歴史と宗教に由来する言葉です。奈良時代の日本では、奈良を中心に6つの仏教宗派が隆盛を誇っていました。三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の6つがそれで、これらは南都六宗と呼ばれています。

一方、同じ時期に奈良で僧として認められた最澄が、比叡山延暦寺に天台宗を開きました。最澄が開いた天台宗は南都六宗に対して北嶺と呼ばれ、長い期間にわたって隆盛を誇り、当時の政権を悩ませる種だったのです。この両者を指して、南都北嶺という言葉が生まれました。

\次のページで「「南都北嶺」の使い方・例文」を解説!/

「南都北嶺」の使い方・例文

南都北嶺は先に述べた通り、四字熟語というよりも、奈良興福寺と比叡山延暦寺を指す固有名詞に近い言葉です。そのため、本来の意味以外での使い方をすることはありません。ここでは例文で確認しましょう。

南都北嶺の強訴に、朝廷はかなり手を焼いていた。

・僧兵の出現は、南都北嶺による混乱を決定的にした。

・武士たちは朝廷を僧兵から守ることが任務だったので、南都北嶺を収めるには至らなかった。

このあとにも紹介しますが、南都北嶺という言葉を使う上で前提となるのは、奈良興福寺と比叡山延暦寺がすでに台頭している、ということです。ここで挙げた例文も、すべてそのことを前提に成り立っています。

・次の連休は南都北嶺巡りをしよう。

・妻と義母の関係はまさに南都北嶺だった。

・その地域の暴走族の中でも特に強い勢力をもつ2つのグループがあり、南都北嶺などと呼ばれていた。

こちらの例文は、すべて誤っているか、あまり好ましくない使い方です。

1つめの例文では、現在の観光地としての奈良興福寺、比叡山延暦寺を指して南都北嶺と呼んでいます。史実に基づいた言葉なので、現在のものを指して南都北嶺と呼ぶのは間違いです。

2つめ、3つめの例文では、家庭内の人間関係や暴走族を例えて南都北嶺と呼んでいます。南都北嶺には比喩表現としての意味はないので、こういった使い方はできません。

\次のページで「南都北嶺について掘り下げよう」を解説!/

南都北嶺について掘り下げよう

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先に述べた通り、南都北嶺は歴史上の史実に基づく固有名詞で、専門用語です。南都北嶺を使いこなすには、南都北嶺にまつわる情報を整理する必要があります。ここで丁寧にみていきましょう。

「南都六宗」の台頭と「天台宗」

奈良時代の平城京を中心に、中国から伝来した仏教がいくつかの宗派に分かれて栄えていました。それが、先に紹介した三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の6つで、6宗派に分かれることから南都六宗と呼ばれています。この呼び名がついたのは当時よりも後の時代で、後に平安京で栄えた平安二宗と呼ばれる天台宗、真言宗に対する言葉です。この南都六宗は互いに互いの宗派を否定せず、ともに学びあう学派のような関係性でした。

一方、奈良の東大寺で僧として認められた最澄は、比叡山延暦寺に入って独自に宗派を開きます。最澄は四宗相承といってさまざまな宗派を学んでいました。そのため、当時の人々にとって比叡山延暦寺は総合大学のような性格をもっていたようです。

南都六宗の中心である奈良興福寺と比叡山延暦寺はそれぞれ勢力を広げていました。そのためこの2つが、南都北嶺と呼ばれたのです。

「神仏習合」と「本地垂迹」

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飛鳥時代ごろから、日本には仏教によって国土を守る、という考え方が浸透していました。そのため、仏教の信仰は当時の日本では国策のように扱われ、仏僧は国によって保護されていたのです。この立場を利用し、それぞれの仏寺は荘園を拡大し、私腹を肥やしていました

一方、日本にはもともと八百万の神々を信仰する文化があり、当時日本の最高権力者である天皇はこの神々への信仰をベースにしています。権力を掌握するためには、朝廷にうまく取り入る必要がありました。そこで、日本古来の信仰と仏教とを融合させる「神仏習合」という考え方が台頭したのです。仏教で信仰の対象としているそれぞれの仏は、日本古来の信仰の対象となっている神々の化身である、とされました。この考え方を、「本地垂迹」といいます。

仏僧と仏寺が本地垂迹を唱えたことで、仏寺の権力は強大なものになっていきました。

「僧兵」と「強訴」

南都北嶺と呼ばれた仏寺の武器となったのは、僧兵です。僧兵とは、仏寺に所属する仏僧でありながら武器で武装した人たちのことをいいます。僧兵とはいっても規律正しい軍隊のような組織として位置づけられていたわけではなく、限りなくやくざやチンピラに近い存在だったようです。

仏寺が独自の軍事力をもてば、仏寺がもつ荘園を仏寺が自分で守るようになるため、朝廷が手を出しにくくなります仏寺の勢力圏はまさに独立国家のような状態になり、朝廷の権力が及ばない地域になってしまうのです。

しかし、もっとも朝廷を悩ませたのは僧の武装化ではありませんでした。仏寺に命じられた僧兵が行う「強訴」こそ、朝廷の悩みの種だったのです。

強訴とは、僧兵が朝廷に押しかけて自分たちに都合のいい無理難題を押し付けることですが、武装して押しかけるだけなら朝廷がもつ軍事力で対抗できます。神仏習合を唱える僧兵は、神社の御神木や神輿を担ぎだし、朝廷に突き付けて脅したのです。信仰心の篤い朝廷の貴族にしてみれば、神仏習合を唱える僧侶がご神木や神輿をかざして突き付ける要求を拒否することはできません。僧兵に強訴されれば、要求を呑むしかないのです。当時の白河法皇は苦慮し、「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬもの」という有名な言葉を残しています。自分の意に沿わない「三不如意」があり、その1つに山法師、つまり僧兵を数えたのです。残り2つは河川の氾濫とさいころの目ですから、どれだけ気に病んでいたかがわかります。ただし、僧兵が強訴したのはあくまでも仏寺の既得権益を守り、自分たちが不利にならないようにするためで、それ以上の権力争いに介入することはなかったようです。権力者や政治に介入し過ぎなかったことが影響したのか、仏寺が強権をもつ状況は長く続いたとされています。

「南都北嶺」を使いこなそう

今回の記事では、南都北嶺について、意味や由来、使い方を説明しました。南都北嶺は日本史に関わる専門用語なので、日常会話で使用することはほとんどないでしょう。また、僧兵を取り上げた歴史小説はあまり例がなく、そういった意味でも目にする機会の多い言葉ではありません。

ただし、奈良時代の日本の権力構造を理解するには必要不可欠な言葉といえるでしょう。記事の後半で、南都北嶺に関わる日本史のトピックを紹介しましたが、これは南都北嶺という言葉から見た奈良時代の日本史のおさらいになっています。これらの知見は国語というよりは歴史を学ぶ上で重要といえますので、ぜひ流れだけでも押さえておくといいでしょう。

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国語言葉の意味

【四字熟語】「南都北嶺」の意味や使い方は?例文や類語をWebライターがわかりやすく解説!

この記事では「南都北嶺」について解説する。

端的に言えば南都北嶺の意味は「奈良興福寺と比叡山延暦寺」のことですが、もっと幅広い意味やニュアンスを理解すると、使いこなせるシーンが増えるぞ。

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「南都北嶺」の意味や語源・使い方まとめ

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南都北嶺は「なんとほくれい」と読みます。それでは早速、南都北嶺の意味や由来、使い方についてみていきましょう。

「南都北嶺」の意味は?

「南都北嶺」には、次のような意味があります。

奈良興福寺と比叡山延暦寺。

出典:大辞林 第三版(三省堂)「南都北嶺」

奈良、特に興福寺のことを南都、滋賀県大津市にある比叡山延暦寺のことを北嶺といいます。南都北嶺の「嶺」は「みね」とも読み、峰と同じ意味をもつ漢字で、山などの頂点を指す言葉です。つまり、南都北嶺は南と北のそれぞれの頂点を指す言葉になります。ここでは、それぞれの頂点にあたるものが奈良興福寺比叡山延暦寺なのです。

「南都北嶺」の由来は?

実は、南都北嶺という言葉は日本の歴史と宗教に由来する言葉です。奈良時代の日本では、奈良を中心に6つの仏教宗派が隆盛を誇っていました。三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の6つがそれで、これらは南都六宗と呼ばれています。

一方、同じ時期に奈良で僧として認められた最澄が、比叡山延暦寺に天台宗を開きました。最澄が開いた天台宗は南都六宗に対して北嶺と呼ばれ、長い期間にわたって隆盛を誇り、当時の政権を悩ませる種だったのです。この両者を指して、南都北嶺という言葉が生まれました。

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