幕末日本史歴史江戸時代

5分でわかる「会津戦争」原因は?その後どうなった?幕末に起こった悲劇の戦争をわかりやすく歴女が解説

3-5、会津戦争前夜の会津では

会津藩家老の西郷頼母は戦況が圧倒的に不利と考えたため、和議恭順を藩主容保に勧めたが、徹底抗戦が通り、西郷は逃亡、藩側に逃げてきた農民や町人らも武器を渡されて戦うことになりました。

しかし他藩もそうであったように会津藩も領民に苛酷な租税を課していたために領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たず、進攻してくる新政府軍の拠点となるのを阻止するため焼き払われた一部の村々の領民の恨みもあったということ。そして藩の軍資金のために資産を徴発された会津の町人たちは新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼び捨てたり、新政府軍が会津藩領の村々から大量の馬や人夫軍資金などを徴発したときは歓迎する者もいたそう。

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3-6、会津戦争に突入し、若松城で1カ月籠城に

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unknown? – “”Aizu Wakamatsu-jo tenshukaku” (Dungeon, Aizu Wakamatsu Castle): Aizu Boshin Senshi: Kuchi-e oyobi chizu” in (日本語) (1933年) 会津戊辰戦史, 東京都 Retrieved on 24 March 2020.  ; JPNO id=53010833. Image appears before the table of contents, and to the left of the list of pitures, no page number is shown but Jpeg id (0006.jp2-left) for the spread containing the image is available., パブリック・ドメイン, リンクによる

8月21日、会津藩は各国境へ主力を送り出して守備についたが、石筵口(いしむしろぐち)の母成峠(ぼなり)の戦いで敗れ、8月23日、戸ノ口原の戦いでも会津軍は崩れたため、新政府軍は若松城下へなだれ込んだということ。土佐藩の板垣退助が率いる新政府軍は、甲賀(こうが)口から城郭内へと侵入したが、それ以上攻め入ることができなかったために作戦を強行突破から包囲戦に変更

このころ、新選組の副長土方歳三は負傷して会津で療養して傷が癒えた後に援軍を求めて庄内藩に向かったが、庄内藩に入れず仙台藩へ、同じ新選組隊士だった斎藤一は最後まで会津藩で戦いました。また桑名藩主の養子だったために家臣たちとは離れて東北線戦に来ていた容保の弟定敬は、容保が会津藩士だけで籠城するために会津から退去させたそう。

そして、会津藩士で他藩にも顔の広い秋月悌次郎、手代木直右衛門らも援軍を求めて他藩を説得するも、会津に援軍を送る藩はなく、会津軍わずか数千に対し、新政府軍は3万から4万の兵力に大砲は百門以上という圧倒的な力をもって、多い日には一昼夜に2千7百発もの砲弾を撃ち込んだと言われています。その後は1か月余りの長い籠城戦となり、会津藩の家臣たちは女性や子供に至るまで悲惨な戦いに参加、このなかにはのちの大山捨松や新島八重などもいたということで、会津藩士たちは会津の武士道に殉ずる道を選び、多くの悲劇を生むことに。家老西郷頼母の家族は足手まといを嫌って自刃するなど、婦女子の自刃は140家族239名、白虎隊の飯盛山での自刃、中野竹子ら婦女隊の戦いなどの悲話が生まれ、新政府軍も略奪や暴行などを行い放題で、会津兵の遺体を埋葬禁止などの話まであるということ。

そして米沢藩をはじめとする奥羽列藩同盟諸藩の降伏が相次いだこともあり、9月22日についに会津藩は降伏。藩主容保らは妙国寺へ、10月には江戸へ護送され、池田邸に永預けに。そして本来ならば家老上席の西郷頼母、田中玄清、神保内蔵助が切腹するはずが、西郷は行方不明、神保と田中は城下での戦闘で自刃していたこともあって、次席の萱野長修が切腹しました。

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白虎隊(びゃっこたい)とは

会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子で構成された部隊のことで本来は予備兵力。なかには生年月日をいつわって15歳で出陣した者もあり、名前は、中国の伝説の神獣で西の方角を守護する「白虎」が由来。

他にも18歳から35歳までの武家の男子の実戦部隊を朱雀隊(すざくたい)、36歳から49歳までの武家の男子の国境守備隊を青龍隊(せいりゅうたい)、50歳以上の武家の男子の予備隊の玄武隊(げんぶたい)、白虎隊に年齢が満たない14、15歳の幼少組に、50歳以上で玄武隊に加わっていない隠居組、猪苗代隊、武士以外の人々による諸隊で構成されていたということです。

白虎隊は、飯盛山で若松城周辺の火災、または城周辺から上がった湯気をみて、落城したと思い込んで自刃したとされているが、唯一生き残った飯沼貞吉の手記によれば、若松城に戻って戦うことを望む者と敵陣に斬り込んで玉砕を望む者の間で激論があり、敵に捕まるよりは自刃を決行したそう。

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3-7、会津戦争後の出来事は

領土を失った会津藩の武士らは、翌1870年に謹慎を解かれ、転封先として猪苗代町(現福島県耶麻郡)か「斗南(現青森県むつ市)を提示されて斗南(となみ)を選択して三戸藩となり、旧会津藩士約4700名が移住しました。

会津松平家は容保の実子容大(かたはる)が生まれて1870年斗南藩知事に任じられ、五戸(現青森県)へ移住、翌年容保も斗南藩に預け替えとなったが、その後東京へ移住。1872年1月に蟄居を許され、1880年には日光東照宮宮司となり、のちに上野東照宮祠官を兼務して保晃会会長に就任するなど、日光東照宮復興と保全に尽力、また旧臣や新選組などの顕彰碑の碑文を頼まれて書いたりしたが、幕末のことは一切語らず孝明天皇の宸翰を肌身離さずに1893年59歳で死去。

なお、新政府軍が会津兵の遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が発見され、埋葬場所、埋葬経費などについて詳細に記されているということです。

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誠意をもって京都守護職を務めた挙句、悲劇の戦争に

会津戦争は、幕末明治維新に行われた戊辰戦争の激戦のひとつです。会津藩は押し付けられた京都守護職の職務を忠実に務め、京都の治安を乱して、当時の孝明天皇の意に反しても朝廷を思い通りに動かして新時代を作ろうとしてテロリストじみた活動をしていたやつらを取り締まっていたのですが、時代が変わって取り締まられた側が新政府となったために、立場が逆転、いわれなき朝敵として攻撃されるようになったのですね。

しかもトップの将軍慶喜が謹慎して江戸城無血開城となったこと、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺などに対する恨みなど、将軍と幕臣たちに降りかかるはずの敵意が会津藩に向かい、スケープゴートにされた悲劇の戦争は、今も時代を超えて語り継がれるほど。

日本では明治維新といわれるのですが、あれはまぎれもなく革命だったので、会津藩主と藩士たちはフランス革命やロシア革命の旧政府の権力者たちとおなじく、劇的な歴史の変換期の犠牲となったといえるかも。しかし会津戦争の悲劇のもととなったのが忠実に役目を果たしたことと、武士道精神からのものであるのは間違いないことでしょう。

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angelica