日本史

5分でわかる「会津戦争」原因は?その後どうなった?幕末に起こった悲劇の戦争をわかりやすく歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は会津戦争を取り上げるぞ。幕末の戊辰戦争のひとつで語り継がれる悲劇で有名だが、どんな戦争だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新には尊王攘夷、佐幕に関わらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、会津戦争について5分でわかるようにまとめた。

1-1、会津戦争(あいづせんそう)とは

1868年の鳥羽伏見の戦い以後に起こった、一連の戊辰戦争のなかの戦いです。この、薩摩藩土佐藩などが中心となった明治新政府軍と、会津藩との間で行われた戦いについて、解説していきますね。

2-1、会津戦争の発端

幕末での会津藩、会津戦争に至るまでについて簡単にご紹介します。

2-2、水戸藩の処遇について藩主容保の手腕が注目

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1853年のペリーの黒船来航後、開国か攘夷かの幕末の騒動に突入し、安政の大獄から桜田門外の変と重要な事件が次々と起きていました。会津藩では、9代目藩主松平容保(かたもり)が若くして藩主に就任。容保は尾張徳川家の分家の高須松平家の出身で、兄が尾張藩主徳川慶勝、もう一人の兄が尾張家当主や一橋家を継いだ茂徳、弟がのちに桑名藩主となった松平定敬という高須4兄弟のひとり。

容保は当時の将軍家定の継嗣問題では南紀派としてのちの14代徳川家茂を支持。そして1860年、24歳のときに桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が暗殺。井伊を襲ったのが水戸浪士だったので、老中久世広周や安藤信正らが尾張家と紀伊家に対して水戸家に問罪の兵を出させようとしたが、容保は徳川御三家の水戸家討伐などもってのほかと反対、幕府と水戸藩との調停に努め、問題となった水戸家への直接の戊午の密勅の返還問題についても、会津家臣を水戸に派遣して説得させて血を流さずに勅書を幕府に返上させて解決したのです。

この一連の事件で容保は俄然幕閣に有能な人物と注目され、それより前に駒場野で将軍の命により老中や若年寄に会津藩士1000人余りを率いて教練を行ったことも、藩主、藩兵ともにしっかりした藩と印象付けたよう。

2-3、容保、京都守護職に就任

1862年、藩主容保は文久の改革で設けられた役職の京都守護職への就任を要請され、病床だったこともあり固持したのですが、政治総裁職の越前福井藩主だった松平春嶽や幕臣たちが日夜勧誘したうえに藩祖保科正之が定めた会津藩家訓を持ち出して、「土津公(はにつこう、正之の神号)ならばお受けしたはず」と詰めよったので断り切れなくなった話は有名。

このとき、国許からも家老の西郷頼母、田中土佐らが急遽江戸へ駆けつけて、京都守護職就任は薪を背負って火を救うようなものと、断わるように懇願したが、容保が、自分の不才のために宗家に類を及ぼすのを恐れて断ったが、藩祖の家訓を持ち出されてはいかんともしがたい旨を打ち明け、しかし、重任を拝するならば君臣の心が一致しなければ効果は見られないので、家臣たちが審議をつくして進退を考えるようにと言ったために、家臣たちは感激して、「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と、容保と君臣たちは号泣して京都へ行くことになったのですね。

2-4、京都での会津藩

当時の京都は、長州藩士たちが自分の思い通りに動かせる公家に朝廷を牛耳らせて、偽の勅書とか出しまくり、暗殺も横行するというかなり過激なやり方で世の中を変えようとしていました。また京都の街の商店にも御用強盗という輩が頻発して金品を強奪するなど、治安が悪化していましたが、容保と会津藩士1000人が上洛したことで市民は安心したそう。

そして京都守護職は京都所司代、京都町奉行、京都見廻役を傘下に、見廻役配下の幕臣で結成された京都見廻組も支配下となったが、京都所司代や京都町奉行の役人は弱体化して頼りにならず、また犯人逮捕の御用改めはもともとは藩士の仕事ではなく、身分が下のものの仕事だったために、清川八郎の浪士組の京都残留組であった壬生浪士隊のちの新選組を会津藩預かりとして、尊皇攘夷派過激志士の取り締まりを強化しました。

2-5、8月18日の政変で長州藩勢力を一掃

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藩主容保はいわゆる政治的に暗躍するタイプではなく、京都時代は病床にあることも多かったが、誠実に役目を務めました。そして当時の孝明天皇の意に添うよう努力したこともあって、公武合体派でもある孝明天皇の絶大な信頼を得、慣例を破って宸翰や御製の歌なども下賜されたほど。

しかしこの1863年ころは、攘夷実行をとなえる長州藩志士の暗躍で孝明天皇は大和行幸で譲位祈願を迫られ、また信頼篤い容保を江戸へ下向させる陰謀もあった時期で、なんと薩摩藩が軍事的な助力として会津藩に持ち掛けて手を組み、孝明天皇の意志と真逆の偽勅を連発する長州の息のかかった過激公家たちを一掃することに成功したのが、8月18日の政変です。そして翌年の池田屋事件では新選組が長州過激志士たちを制圧、そしてなんとか盛り返したいとする長州軍を迎え撃ったのが禁門の変ということで、こののち容保と会津藩は京都における幕府方の中核に。そして翌1864年、京都所司代に容保の異母弟である桑名藩主松平定敬が任命されて兄弟で京の治安を守るなど、一時は将軍後見職の一橋慶喜とあわせて、一会桑(いちかいそう)と呼ばれる権力を持ったのですね。

2-6、大政奉還後、鳥羽伏見の戦い

しかし孝明天皇が急死し、16歳の明治天皇が即位、14代将軍家茂も21歳で急死、急激に世の中が動くことになり、15代将軍となった慶喜は大政奉還。

いろいろあって薩摩、長州、土佐を中心とした新政府軍と会津藩、新選組と旧幕府軍の鳥羽伏見の戦いとなり、一連の戊辰戦争がぼっ発。鳥羽伏見の戦いでは会津藩兵と新選組が奮戦するも、武器が旧式で指揮系統が一貫しなかった幕府軍は敗退しました。

そして将軍慶喜に従いって容保らも大坂城へ退去。慶喜は再決戦を求める臣下に対し、明日は決戦と号令を出した夜中に、容保、定敬兄弟や老中、若年寄らを連れてひそかに大坂城を抜け出して開陽丸で勝手に江戸へ帰還したのですね。容保はおそらく慶喜に必ず江戸で決戦するからとか言いくるめられたか脅迫されたのではといわれていますが、取り残された兵たちは、陸路、海路で江戸へ帰還したということ。

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