日本史

5分でわかる「会津藩」武士の鑑のイメージ?その歴史・悲劇をわかりやすく歴女が解説

3-3、正之が確立したことは

会津藩は、正之の時代の1663年に日本初の老齢年金制度を創設しました。正之は藩内に合計155人以上いた90歳以上の老人に対し、一日に米5合を、年間にして約1石8斗、米俵で4俵半(約270キロ)を支給し、本人が取りに来れないときは子や孫が受け取ることも認めていたそう。

また、凶作による飢饉への備えとして、1655年には社倉制度を開始。これは藩が7000俵余りの米を買い入れて各代官に預けておき、翌年から通常にくらべて低率の2割の利子で百姓に貸し付けて、その利子で蓄えるべき米を増やし、凶作の備えとしたのですね。そして実際に飢饉が起こったときは、その米を病人、工事人足、新田開発者、火災被害者などには無償で提供したということで、正之が領内の23か所につくった社倉の備蓄米は、最大で5万俵になったということ。

なお、正之は1668年4月に会津藩の方針を決め藩是としたのが、「家訓15条」といわれるもので、「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」「婦女子の言、一切聞くべからず」などが有名で、以後、会津藩主から藩士たちの精神的な支柱となりました。

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名君のおっしゃることだが、婦女子の言は現代では通用しないよな。

3-4、財政危機で破綻状態に

1749年、4代藩主容貞(かたさだ)の時代に、不作と厳しい年貢増と取り立てが原因で、会津藩最大の百姓一揆が勃発しました。この一揆に対して藩は、鎮定する代わりに年貢減免、首謀者の処刑と入牢などで対処。

江戸時代も後期になると、どの藩の財政も悪化していましたが、宝暦年間での会津藩の財政事情は、借金が36万4600両、毎年4万2200両の返済を迫られていたという状態。しかも藩は農政改革をおこない年貢を定免法に改定したが、逆に借金は40万両に増えたということで、1767年には財政再建を任されていた井深主水が藩を捨てて逃亡する事件まで起こったということ。そしてその後も手形の発行などを繰り返して藩の借金は総額57万両にも及び、実質的な破綻状態に。

3-5、家老田中玄宰の藩政改革が成功

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1781年、5代藩主容頌(かたさだ)は家老の家柄で34歳の田中玄宰(はるなか)を登用。ただでさえ財政破綻状態の会津藩にさらに天明の大飢饉、利根川や荒川の改修、江戸城の手伝い普請、江戸会津藩邸の消失、改築という難題を乗り越えるために、玄宰は財政だけでなく藩政のすべてに対して改革を願い出たが受け入れられなかったので、病と称して一時辞職し、その間に経済なども研究して1年後に復帰して「天明の大改革」建議書を上申したのですね。

そして殖産興業が奨励されて、農民や町人に薬用ニンジン、紅花、養蚕、藍、棉などの栽培を奨励し、また酒造り、漆器、絵ろうそく等の製造を指導するなどで、今日の会津地方の伝統産業の基礎が確立され、また藩校の日新館を創設して、藩士たちの教育改革を行い、役人の不正の処罰、教化主義という刑罰制度の改正をおこなって、会津藩は幕末までに雄藩といわれるための基礎を築いたそう。この成功は、隣藩の白河藩主で老中だったあの松平定信にも高く評価されたということです。

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田中家老、なかなかの手腕だったんだな

3-7、戊辰戦争で朝敵とされた会津藩

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1862年閏8月、9代藩主松平容保は文久の改革後に京都守護職に任じられました。幕末の動乱でこの任務は火中の栗を拾う様なものと、国元から家老の西郷頼母らが江戸へ上ってまで反対し、容保も再三辞退したが、政治総裁職の越前福井藩主松平春嶽が、藩祖保科正之の家訓を盾に迫ったために、藩主容保は受けざるを得ず、容保の決意に家臣たちは号泣しつつ京都へ行ったということです。

そして容保は会津藩兵を引き連れて上洛、壬生の浪士であった新選組を預かりとして、会津藩士と洛中の過激派尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担い、容保は孝明天皇からご宸翰を賜るほどの絶大な信頼を得るまでに。1863年には、薩摩藩の呼びかけではっきり言ってテロリストと化していた過激な長州藩の影響力を八月十八日の政変で排除して禁門の変でも長州軍と戦い、長州征伐にも参加したなど、幕府側の前面に立っていたが、1867年1月に孝明天皇が崩御、同年10月14日には大政奉還で江戸幕府が消滅。

1868年1月、新政府軍との鳥羽伏見の戦いがぼっ発し、会津藩と新選組は、桑名藩や旧幕府軍とともに戦ったが敗北。15代将軍徳川慶喜は、容保と弟の桑名藩主で京都所司代の松平定敬らを半ば強引に引き連れて開陽丸で江戸へ遁走したが、慶喜は、事態収拾を勝海舟に丸投げしてさっさと謹慎、容保は会津藩兵たちの江戸帰還後、江戸退去を命令されて会津へ。

そして朝敵として戦う意思のないことを再三新政府軍に申し入れるが、新政府軍は会津藩を朝敵と見なし、降伏を受け入れないため、しかたなく奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗、若松城に1カ月籠城して戦い、白虎隊の悲劇など必死の攻防もむなしく敗北に。降伏によって会津藩領は会津松平家から没収、藩主容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となり、1869年に容保の嫡男容大の家名存続が許され、極寒の陸奥国斗南(現青森県むつ市)に斗南藩2万石に移封されました。

3-8、明治後の会津藩

廃藩置県の前、会津藩の旧領は明治政府民政局の直轄地となり、若松城下には明治政府民政局が設置されましたが、1871年の廃藩置県で会津地方は若松県となり、1876年には旧二本松藩などと旧の磐城平藩と中村藩と合併されて福島県になりました。

奥州の抑えとして名のある武将が入部して若松城が築かれ、明治まで親藩が統治した藩

会津地方は戦国時代には名門葦名氏が治め、伊達政宗に敗れた後は政宗の支配となり、次に信長も期待した蒲生氏郷を、秀吉が恐れたか見込んだか破格の90万石で入部し、立派な若松城を築いて会津の城下町の基礎を確立しました。

その後、上杉景勝、加藤嘉明、再び蒲生を経て将軍家光の異母弟保科正之が会津松平家の祖として入部。以後、飢饉や財政破綻を藩政改革で乗り切り、幕末には徳川家に忠誠を誓う質実剛健な雄藩として活躍を。幕末の藩主松平容保は、信頼のおける忠実な人間として孝明天皇に絶大な信頼をされましたが、新政府となった薩摩藩や長州藩のスケープゴートにされた感が強く、戊辰戦争ではいわれなく朝敵とされて悲劇の敗戦を経験することに。

現代でも会津では戦争というのは太平洋戦争ではなく戊辰戦争をさすというほどですが、会津藩出身者でその後の明治日本を代表する人材が輩出し、また今に至るも質実剛健な武士のイメージを濃厚に伝え、歴史ファンだけでなく外国人にも畏敬の念を起こさせる存在であり続けるのは、伝統ある会津藩ならではといってもいいのではないでしょうか。

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